野州の女
風の向くまま気の向くまま旅を続ける弥二郎は鹿沼宿に足を伸ばした、居酒屋にでも入って一杯引っ掛けようなんていう心持ちでいたのもつかの間、ぽつりぽつりと降り出した雨が三度笠を濡らした。
ずぶ濡れにならないうちに適当なところに入ろうと急ぎ足で宿場を巡ろうとするとふいに声をかけられた
「ちょいと!ちょいとそこの頭巾の旅人さん!」
急に呼び止められ少々面食らった弥二郎であったがピタッと立ち止まり声の主のほうをジロリと見つめた
年の頃は18くらい・・・色白でどこか儚げな感じと気品のある女だった。
「あっしのことですかい?」
「あんただよ、あ・ん・た、ねぇ兄さん・・・よかったらよってかない?」
客引き女に呼び止められただけだが不思議と今日は断ろうという気がしなかった弥二郎は客引きにまんまと乗ることにした
「まぁ・・・特に急ぐ旅でもありやせんし・・・よござんす」
「あら!そりゃあ良かった・・・それじゃあ善は急げ、こちらへどーぞ」
弥二郎の腕をとってしゃなりしゃなりと気取ったように旅籠へと引っ張り込んだ
なんとも古ぼけた旅籠だが掃除は行き届いているようでここならとりあえずは落ち着けるだろうと旅人の勘が囁いた
草鞋を脱いでいると濯ぎを持って先程の女が現れた
「ところで・・・旅人さんの名前は?」
「あっしは弥二郎と申しやす」
「何処かのお身内衆?」
「いいえ、一本独鈷の旅ガラスでござんす」
「ふぅん・・・ところでどうして頭巾を?」
おいでなすった、誰しも気になることであるが弥二郎自身はあまり触れられたくないことだ
「理由は聞かねぇでやっておくんなさい」
人間触れられたくないことの一つや二つあるものだ、弥二郎とてそれは同じこと、弥二郎だって人間だ
女はそんな弥二郎の気持ちを悟って済まなそうな顔をしながら手ぬぐいを差し出した
「ごめんなさい、つまんないこと聞いて・・・いえね、お声が随分とその・・・しゃがれてるものだからお体が悪いのかなって」
「いえ、そういうわけじゃねぇんでさ、この声もあっしの・・・その、性分のようなもので」
頭巾に覆われた口から発する言葉はくぐもっておりなおかつ病の床で死を待つ人のようにかすれてしゃがれている。
弥二郎は性分と言い張っているが性分でこうなるものじゃない、これもまた深い理由があったのだ・・・
すっかり暗いムードになり間が持たない感じになったのを変えようと女はパッと顔を変え微笑みながら
「あのね弥二郎さん、あたしは「さくら」ってんだ、野州の生まれさ」
「へぇ・・・さくらさんですかい・・・そうですかい」
「さくら」と聞いた弥二郎の声色が変わったようにさくらは思った、頭巾の奥に光る目がどことなく優しくもなったそんな気がした。
すっかり旅籠でくつろいでいる弥二郎だが頭巾はとらなかった、旅籠の下働き共に不思議がられたが客の事を詮索する野暮なモノはいなかった、さくらを除いては・・・
どうも弥二郎が気になるさくらは夜伽はいらぬと飯盛り女のさくらを突っぱねたが無理を言って酌婦として弥二郎についていた。
さくらの酌を受けて頭巾の下から酒を飲む弥二郎をさくらはまじまじと見つめていた
「さくらさん、そんなに見ないでやっておくんなせぇ・・・」
「ねぇ・・・弥二郎さん、弥二郎さんはどうして旅を続けているの?」
「別にアテなんかござんせんよ」
ぶっきらぼうに返しながら盃を頭巾のしたに入れて酒を飲み干し空になった盃をさくらに突き返した
「アテもなく旅を続けるなんてなんの意味があるの?」
突き返された盃に酒を注ぎながらさくらは食らいついた
「アテがなければ意味もありやせん、あっしみたいなはぐれ鳥の旅路なんてそんなもんでさ」
「そっか・・・」
さくらは頭巾の奥で寂しそうな目をした弥二郎をみてますます弥二郎に興味が湧いた。
弥二郎のほうはさくらに興味があるのかないのかそんな態度で盃を傾けていたが、ふと懐から笹の葉を取り出して頭巾の下に入れるとおもむろに草笛を吹き始めた
トランペットのような音色で実に見事に鳴らしているがどこか物悲しい音色がする
「弥二郎さん、それは?」
「これですかい?口さみしくなるとね・・・遠い過去を思い出してつい鳴らしたくなるんでさ」
さくらは神妙な顔をして弥二郎の草笛を聞いていた、この草笛の音色にさくらは心当たりがあった、遠い昔に聞いた気がする悲しくも美しい音色
「弥二郎さん・・・生まれは?」
「へぇ、武州にござんす」
「そう・・・それならあたしの思いすごしか」
「思い過ごしとは?」
「あたしが子供の頃ね、そうやってよく草笛を吹いてくれた兄さんがいたんだ、あたし・・・子供の頃はメクラだったんだ」
メクラ・・・弥二郎の背筋と頭巾の下の顔がゾクッとして嫌な汗が流れた
「メクラのあたしは親兄弟に見放されたけど兄さんだけは私を庇ってくれてね・・・兄さんも病気だったみたいで私同様親兄弟に見捨てられてたのさ、顔もわからない声も病気でロクに出せない兄さんだけど私が泣いてるといつもそうやって草笛を吹いて慰めてくれたっけ・・・ねぇ弥二郎さん、手・・・握ってもいい?」
そう言われた弥二郎はさくらにそっと手を差し出した、さくらは弥二郎の手を取り目を瞑るとさするようにした
「やっぱり違う・・・当たり前か・・・兄さんの手、顔も声もわからないけど手だけは覚えてる・・・兄さんの優しい温かい手・・・」
「あっしの手は血に泥に塗れておりやす、己を守るためとはいえ何人も人を斬ってきやした・・・さくらさんのお兄さんみたいなお人の手と違う冷たいヤクザの手でござんす」
弥二郎の手は指先が欠けていたり切り傷跡や殴り合いのはてについた拳ダコがありガサガサとした渡世人の手をしていた
そんな弥二郎の手をキュッと両手で握りしめ慈しむような目で弥二郎の手を見つめ
「あたしゃね・・・弥二郎さんの手はそんなに冷たくないと思うよ、弥二郎さんの手も温かいよ・・・」
「・・・ありがとうごぜぇやす」
そういうと弥二郎はまた草笛を鳴らし始めた、悲しげな草笛の音が夜の旅籠に響いていた・・・
さくらはそれを目を細めて聞き入っていた。