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怪盗廃業日和

作者: 彩麻サク

 レイン・セルターは久々の外の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。

 後ろを振り返れば、今しがた出てきた堅牢な檻。この刑務所に入ったのがまだ少し肌寒く感じた頃。今は日差しが顔を突き刺すように感じる。この刑務所にいたのは4ヶ月ほどだ。レインにとっては少し長い、が、快適に過ごせたからか、さほど不満に思ってはいなかった。


 レインは檻の中に居たしわがれた声で喋る男の顔を思い出す。ラルフだったか、ロルフだったか、ともかくそんな名前で、毎年冬に入り春に出るんだとか。浮浪者に優しくない冬を越すため、暖かな無料宿泊所に入るわけだ。金を持たず高級レストランで晩餐を楽しめば、ざっと3ヶ月宿泊できる。食事付き(臭い飯だが)、護衛付き、労働付きで、寝台が上下に並んだ部屋で素敵なお友達と相部屋。まぁ寒空の下冷たい路肩で寝泊まりするよりはよっぽどいいだろう。ともかく、タダ食い一食ぽっちで3、4ヶ月。そう考えれば、レインの罪と刑期は全く釣り合っていないと言える。


 レイン怪盗だった。夜を飛び回り、他人の家から金目の物を頂戴する。資産家の家にまるで主人のように堂々と入り、家宝を拝借してきたこともある。レインにかかれば、近所の店で買いものでもするかのように、安々と盗んでこれるのだ。

 レインに盗まれた者の八割は潔く諦める。ああ残念だったとつぶやいて終わりだ。そして、諦めの悪い残り二割の努力家諸君もすぐに諦めることになる。レインが捕まらないためだ。




 レインは影を踏み歩きながら、駅に向かう。レインの友人であるハリソンは、レインを泥棒だというが、気に入らない。泥棒というのはなんとも単純で、悪辣で、卑怯で、バカで、頭の回らない恥知らずのように聞こえる。


 レインは駅にたどり着き、そのまま数分後にやってきた列車に乗り込み、二駅ほどで下りる。これからさてどうするか。と思考しながら、一つの小屋に入る。そこはレインのアジトのうちの一つだ。

 刑務所お決まりの服から着替え、壁に掛かった姿見を一瞥。満足気に頷いて、今度は果物屋に向かう。

 店番のハリソンに奥へと通してもらう。


 「レイン。ヘマやったんだってな」


 ハリソンが嬉しそうにニマニマと笑いながら言った。この友人はレインがミスをやったと言うと嬉しそうに笑うような奴だが、レインが怪我をしたと言うと血相を変えるような奴でもある。


 「何の話だい?」


 すっとぼけるレインの肩をバシバシとハリソンが無遠慮に叩く。


 「ブタ箱にぶち込まれたって話だ」

 「ああ、安いホテルに泊まっていただけださ」

 「なんて言ったっけ?スリだってか?あの華麗な夜の怪盗サマが、まさか、昼の往来真ん中で、スリで捕まるなんてなぁ。なんだってお前、スリなんかしたんだ?そりゃあ、よそサマの庭だろうが」

 「何、ちょっとした出来心さ。好奇心という可愛らしい悪魔にそそのかされた間抜けだったと言うだけだ。間抜けなのは、警官共も同じだが」


 怪盗とは、夜の影に潜み、見つかることなくさっさと退散するという楽な仕事だ。種も仕掛けも周到に用意できる。スリ師とは昼の往来で、見つかりながらもさも当然といった様子で歩き去るなんとも奇妙な職だ。しかも、やることはいつも同じで、相手の持ち歩く金品を抜き取るというただ一点にのみある。事前の用意なんざまるっきりなく、即興劇なわけだ。怪盗を好奇心で始めたレインとしては、その興味深い仕事を行わずにはいられなかったのだ。


 好奇心は腕の良い怪盗をも殺すのだと証明したレインは、肩をすくめて見せる。


 「どういうめぐり合わせか、狙ったのヤツのすぐ後ろに警官がいたんだ。ただ、あの警官、裁判官、揃いも揃って僕を前に三ヶ月の刑だ。せっかく捕まえた重罪人だと言うのに。僕は捜査の手を覚悟して君に仕事道具と稼ぎを預けたっていうのにさ。彼らのサボタージュに僕は感謝すべきなのかな?」


 レインがそう言って鼻で笑えば、ハリソンが思案顔の後に告げる。


 「それが、お前、怪しまれてはいるみたいだぜ?大柄な警官だ。お前の家のあたりをくるくる回ってやがった」

 「自分の尻尾を追いかける仔犬みたいにかい?」

 「まあそんなとこだ。だがな、舐めてると今に尻を噛まれるぜ」


 仕上げに帽子とステッキを手にしたレインは、ハリソンからカバンを受け取る。


 「辞める気はねぇのか?」

 「辞める?」


 「すっかり足を洗って堅実に働くっつうことだ。器用なお前なら、それぐらいどうってことないだろ」


 レインはハリソンの顔を見る。


 「本当にできると思うかい?堅実とか、真面目とか、僕には不似合いな言葉だ。もともと、金のためにやってるわけでもない。遊びだよ遊び。余暇に狩りを楽しむ貴族のようなものだ。あれだって狐を食いたくてやってるわけじゃないだろう?」


 カバンの中身はピストルとナイフ。それに、鍵開け、ペンチ、金梃子、小型のドリルなどや、奇妙な形をした道具類。レインは道具の一つを手に取り、馴染む感覚に安堵のような懐かしさを覚える。


 「お前これ、使うことあんのか?」


 ハリソンが案じ顔、かつ訝しげといった器用な表情でレインのピストルを指差す。


 「ないね。強盗と誘拐は趣味じゃないんだ」


 レインにはハリソンの懸念がわかっていた。近頃この辺りでは身代金目当ての誘拐が頻発している。大方、レインがスリと同じように手を出すんじゃないかと気になったのだろう。


 「ああ、そうか。そうだよな」


 レインの答えを聞いたハリソンは何か理解したような深い頷きを繰り返した。


 「何がだい?」

 「気位が高くて気取り屋のお前が、そんな真似をするところが全く想像できんと思ったんだ。こないだの誘拐、警官が来た瞬間人質を銃でパァンとヤりやがってさっさと逃げたそうだが、そんな強引で暴力的な真似、お前がそれは到底……。……んじゃあ、何で持ち歩いてんだ?」


 レインははぐらかすように笑って答える。


 「持っていることと使うことはイコールじゃないだろう?」

 「ひょっとしたら、なんてのがあるから持つんだろ?」

 「ないよ。それも僕の流儀の一つだ」

 「そうは言ってもよ――」


 なおも言い募るハリソンへとレインは無造作に銃口を向ける。


 「お、おい、なんだよ。何するつもりだ!?」


 ハリソンの慌てた声が、耳に心地良い。


 「何って?見て分かるだろう」

 「そいつをオレにぶっ放そうってか?そ、そんなわけねぇよな!オレとお前の仲じゃねえかよ。な?」

 「そう、所詮はそういう仲だった、というわけだ」


 指をかけ、引き金を引いた。派手な音が鳴り響いた。


 「うぁ……。……んぁ?」


 ハリソンが大袈裟に身を引いて呻き声をあげるが、タマは入っていない。一発も持ってすらいないのだ。そもそも、ピストルでもなんでもなく、音がするだけのただの玩具だ。


 「僕は君を騙し、君は僕に騙される。素敵な仲だろう?」

 「……入ってねぇなら、言えよなッ」


 レインはクスクスと笑ってやった。

 打ちはしないが脅しには使う。タマが全く入っていないガラクタであったって、相手が怖がればそれは凶器に早変わりだ。


 「何言ってるんだい。タネを知っている手品なんて、何も面白くないだろう」

 「クソッ。あーあー、お前はそういうやつだよ」



 ハリソンを誂ってやるのはレインの娯楽の一つだ。


 「今度、切れないナイフで襲いかかってやるからなぁ」


 レインはにこやかに礼を言って、後ろから聞こえる声を負け犬の遠吠えと聞き流してやる。




 通りに出た瞬間から、レインの思考はすっかり切り替わっていた。何をするかから、何を狙うかに。つまり、ハンティングの時間だ。


 ここから山一つ越えたところにある街。4番街の服屋スペンス・マーク向かいのグランドホテル。あそこのオーナーの屋敷が次の遊び場だ。

 紳士然とした様子で移動しながら、獲物を思い浮かべ薄く笑う。

 レインは後をつけてくる警官を尻目にそう考えた。大柄な警官だった。あいつがハリソンの言っていた輩だろう。レインと正反対に生真面目そうな顔をしていた。正義感と義務感、功名心じみたもの……おおよそレインの持たない興味深い混合物を持つ男だった。

 列車から降り、狙いの屋敷から少し離れた場所を歩く。後ろをコソコソとついてくる警官くんを振り切らねばならない。


 レインは怪盗だ。盗人でも泥棒でもなく。

 強盗であれば、押し入って、金目の物を奪って逃走。それだけだ。レインに言わせれば、何のスマートさもない。ついでに面白みも。

 怪盗の喜びとは、余裕を持ち夜の帳の中を舞い、紳士らしく闊歩して、お土産とともに上品に帰宅することにある。驚き顔、あるいは悔しげな顔をするホストが見られれば殊更愉快だ。

 後ろのストーキング男をエレガントに振り払ったレインは、さて下見の時間だと狙いの屋敷へと向かいかけ。パタリ、と足を止めた。


 レインの双眸が大きく見開かれる。心臓が弾けるほどの衝撃だった。


 レインの視線の先にいたのは一人の若い女性。

 スラリとした立ち姿。繊細な顔立ち。純粋さと賢さを宿すグレイの瞳。まだ少女らしいあどけない笑み。


 ひと目見た瞬間、レインは思考も行動も、自分さえも忘れさる。女性が歩くのを、半ば無意識的につけて歩いた。

 恋だ。これが、恋とかいうものだ。レインは強く自覚した。

 恋への鬱陶しい程情熱的な詩歌に対する軽視した思いを、あれは自惚れであったと今のレインは断言し得る。

 あっさりと恋の天使に心臓を撃ち抜かれたレインはその淑女の行き着いた先に驚く。そこはまさに、レインが狙いを定めていた4番街の服屋スペンス・マーク向かいのグランドホテルのオーナーの屋敷だった。


 それからレインはいつものように、獲物の情報を数日かけて集める。オーナーには子供が3人いる。上に男が2人、レインの心を掴んだあの淑女が末の娘エリーナだった。オーナーは3人の子どもの中でも、殊更エリーナを可愛がっているらしい。だが、オーナー一代の成り上がりのためか、屋敷の警備は手薄。人の出入りも頻繁で、レインにとって誰かになりすまし、入り込むなんて造作もないことだった。エリーナ自身もなんの警戒心もなく実に自由に出歩いているらしい。美しい髪を揺らしながら、無警戒に笑っていた。可愛らしい。その姿は世間の薄暗さを知らない天使のようであった。いや、まるで妖精のように愛らしい……?違う。女神のようで……。


 いつものように情報がまとまらなかった。

 理由はわかっている。エリーナのことが頭の大部分を占めているのだ。実に奇妙な気分だった。これが怪盗としての下準備からか、一目惚れした女性への余りある好奇心からか、調査の意図が全く判然としないのだ。




 それから数カ月後、レイン・セルタ―はアルフ・ランサムとなり、怪盗は地方銀行員となった。レインの仕込んだ偶然的はたまた運命的な出会いをアルフとエリーナは見事に演じ上げた。レインはアホな怪盗業からマトモな銀行員へと転職し、エリーナとともに生きる道を選んだのだ。


 結果は、この通り、レインはエリーナの恋人となり、エリーと愛おしげに呼びかける日々を送っている。ロマンスという名の紆余曲折の末、気難しいエリーナの父親にも、エリーナとの交際を認められるに至った。周囲からみたレインは、銀行員として真面目に働く好青年となっていた。レイン自身、この生活をすっかり気に入り、多幸感に満ち満ちている。レイン自慢の怪盗道具の入ったカバンは、小屋の中に無造作に放り出され、すっかりホコリを被っている。恋とはさしも偉大なもので、レインをこうも変えてしまったのだ。加えてレインはハリソンが言っていたよう器用な男であり、すっかりと誠実で実直なアルフ・ランサムに馴染みきっていた。




 だがそれでも、諦めが悪く、嫌に頑固で、面倒な努力を惜しむことのない男というものも存在した。


 その日もエリーナなと幸せな午後を過ごし、エリーナを家へと送り届けるところだった。


 「よぅ、アルフ……」


 レインよりも先にエリーナが振り返る。


 「アルフ。貴方のお友達かしら?」


 無邪気に小首を傾げ、セリーナが声をかけてきた男とレインを見比べる。レインは苦り切った顔にならないよう苦心しつつ曖昧に頷く。

 男は、レインが檻から出た日、後をつけてきていたあの時の大柄な警官だった。これまでも、後をつけてきたり、レインの今の住まいである二階建て集合住宅の周りをうろちょろしているのを見かけることはあった。が、声をかけられるのは初めてだった。

 レインにあまりにも動きがないため、堪えきれなくなったのだろう。


 「久々に会ったんだ。アルフ。少し話をしないか?」

 「すまないが、彼女を家まで送りたいんだ。だから……」


 ノー。とはっきり言ってやれれば何と素晴らしいだろうか。

 レインは男に睨まれながらも申し訳無さそうに口を開く。


 「大丈夫よアルフ。私だって子どもじゃないわ。一人で家ぐらい帰れるもの。ぜひお話していらして」


 セリーナはレインと警官の男が旧知の仲、竹馬の友か何かだと思っているのだろう。気遣いの言葉が、今ばかりは辛い。

 ここで断り切る手段を持ち合わせていなかったレインは警官の男と二人、近くのカフェに入った。


 「随分と楽しそうだったな。レイン・セルター」

 「僕は、そのレイン・なんとかといった名前ではなく、アルフ・ランサムだし、あなたに見覚えがないんだ」

 「ケヴィン・アーネンスだ。俺は君をよく覚えてるんだがな」


 ケヴィンの目がギラギラとレインを捉える。


 「君は、前の仕事をやめたのか?」

 「ええ、この街に住んでからは前の仕事では職場が遠くて、郵便配達人をやっていたんだが……」

 「レイン・セルター。君の前の職場は、ハインラルト家の屋敷か?あそこの金庫がものの見事に空っぽになっていたらしくてな。どうやったのかを教えてもらっても?」

 「失敬、その方のお名前には聞き覚えがなく……」

 「ああ、では、シャルマーネ夫人のところのスターサファイアが無くなっていた話だが……」

 「何の話だが、僕には全く」


 レイン・セルター被害者の会某氏の名前を出し揺さぶりをかける警官と、何も知らないという態度を取り続けるレインの攻防はカフェが閉まるまで続き、今回の勝者はレインとなった。


 「君が、ここでまた盗みの仕事を働くつもりなら、今度は絶対に陰険な泥棒として捕まえてやる」

 「ええ、もし、僕がそんなことをするのなら、勿論」


 恐ろしい顔で脅しをかけられようとも、レインには痛くも痒くもなかった。なにせレインは、足どころか頭の先まで洗い流している。

 セリーナを悲しませることも、セリーナに対し後ろ暗く感じることも全くしないと誓える。他人の物を盗むようなことはしないと断言できる。レインは自分自身がセリーナにより生まれ変わったのだと信じていた。


 その翌日、必要に迫られるまでは。






 チリチリと首筋に嫌な気が走った。

 聞かされたのはセリーナが、誘拐されたという話。

 目撃者曰く、屋敷の近くで男二人に路地へと引っ張られていったとか。


 セリーナの父親がレインのすぐ隣で、冬眠中の熊もかくやといった剣幕をもって徘徊していたからか、レインは幾分か冷静だった。


 最近巷で流行っている、あの、身代金目当てのゆうかいだろか?レインが怪盗として狙ったように、誘拐犯も誘拐犯としてこの家を狙ったのだろうか?せめて自分が家まできちんと送り届けていればと思ったが、それはあの警官のせいであり、ひいては怪盗なんざやっていた自分のせいとなる。


 レインは深い苦悩を抱え、エリーナの屋敷の周りを歩きながら考え込んでいた。エリーナをどうにか助けられないかと。

 だが、自分の出る幕ではないことは分かっている。自分は今、一介の銀行員でしかないのだ。そう、警察だろう。こういう時こそ、あの警官共の世話にならねばならない。幸運なことに、盗人に敏感な警官に一人知り合いがいるわけだ。屋敷から麗しのレディが盗まれたと告げてやれば、喜び勇んでエリーナを助けてくれるはずだ。


 そこまで考えたとき、ふとハリソンの言葉を思い出した。


 『こないだの誘拐、警官が来た瞬間人質を銃でパァンとヤりやがってさっさと逃げた――』


 警官は駄目だ。いったいどうするのが……




 形にならない思考を弄んでいたときだ。幸運の女神とやらがいるとすれば、その瞬間、確かにレインへと笑みを向けていた。

 屋敷沿いの路地から、男が一人出てくる。背の高い男で、何の特徴もない顔をしている。

 レインはこの男が怪しいと気づいた。それは、この男の動きがか、視線がキョロキョロとさり気なく動くからか。それだって女中と逢引でもしにきたのかもしれない。だが、しかし、あるいは……怪しい点が散在する。

 誰であったって分かるはずもないが、レインには怪しいと確信できたのだ。強いて言うのであれば、怪盗の勘だった。レインは背の高い男に向かってあるき出す。


 だがしかし、幸運の女神とやらは大層な阿婆擦れなのだ。

 背の高い男の後ろから、見覚えのある警官の男がやって来る。その上、レインに気づいたようでスッと目を細めた。


 レインはケヴィンに気を取られていたが、迷いはなかった。なにせかかっているのは愛しの恋人の身柄なのだ。


 レインはそのまま二人の男に向かい歩を進める。背の高い男へぶつかった。男がぼんやりしていた顔をサッとあげ、レインを見た。レインは実直な青年らしく眉を下げて謝罪を口にする。背の高い男は、いえ、とか、ええ、とか曖昧な返事をして、すぐに立ち去っていった。


 続くように、警官の男が笑みを浮かべてレインへと近寄ってくる。ネズミを袋小路に追い詰めるネコも、こんな笑い方をするだろうとレインは考えていた。


 「やぁ、上機嫌だね」

 「面倒な仕事が片付いたんだ。これでお前に集中できるってわけだ」


 ケヴィンはレインへと顔を寄せた。


 「ベッタリと貼り付いていてやる。クインストン家で盗みを働いてみろ。今度こそ、君のその悪魔みたいな尻尾を掴んで分相応の場所に突っ込んでやるつもりだ」


 クインストン家というのは、エリーナの家の名前だ。


 「どうして僕がそんな恐ろしいことをするんだい?」


 気弱にそう聞き返してみせるも、ケヴィンはますます忌々しげに眉間にシワを寄せる。


 「ここ数カ月、随分大人しかったからな。それもこれも、次がクインストン家にある大物を盗むためだというのであれば納得がいく」


 レインの純粋な愛が、この男にはロマンス詐欺にでも見えるのだろう。


 「そんなわけがないさ」


 困り顔で言って見せるが、ケヴィンが信じる様子はなく、表情には些かの変化も見られない。

 ケヴィンからさっさと離れたレインは、エリーナの屋敷へと戻る。


 屋敷は大騒ぎだった。誘拐犯からと思われる、身代金額と受け渡し場所とを細かく記したメモ書きが投げ込まれていたというのだ。屋敷の警備のものが、束になって慌ただしく出ていった。エリーナを誘拐した不届き者が、まだ屋敷の周辺にいるはずだから、ひっ捕らえてくれるっ、ということらしい。


 そんな中、レイン一人は上機嫌に笑っていた。なにせ、レイン自身の雪辱を果たしたのだ。その笑みは既に、篤実な銀行員アルフ・ランサムのものではなく、興味と刺激を追い求めるレイン・セルターのものだった。


 懐から財布を取り出す。中の名刺に職と名前と住所が記されていた。


 「配管工か……。住所は……近いね」


 エリーナがここにいるかどうかまでは分からない。が、手がかりであることは間違いないだろう。


 勿論、これはレインの財布ではない。先程ぶつかりに行って摺った背の高い男の財布だ。刑務所に突っ込まれたときは、自身にスリの才能は乏しかったかと思ったが、そうでもないらしい。警官の前でのスリが、二回目で成功だ。上々と言える。これで、前回の失敗は帳消しだ。




 レインは即刻アジトにしている小屋へと飛び帰り、ホコリを被っていたいつものカバンを取り上げ、すぐさま住所の場所へと向かった。仕事は慎重かつ迅速に、それがレイン・セルターのポリシーだ。


 ただ、レイン・セルターの懸念というか重荷というか厄介というか、兎も角そんなものがまさに今足を引っ張っていた。屋敷の前に居座り、レインについて歩く男、ケヴィンだ。


 「何か僕に御用でも?」


 アルフ・ランサムの仮面を被り直し、言外に不満を滲ませながら問う。


 「あの屋敷が騒がしかったが……何かあったのか?」

 「どうでしょう」


 ケヴィンの目の端が、ギラリと光る。


 「前にお前と一緒にいた……あの娘。誘拐されたという話を耳にしたが?」

 「聞き違いでしょう」


 素気なく答え、振り払おうとするが、しつこく追ってくる。ナンパ男に付きまとわれるレディの気持ちを思いつつ、ケヴィンを見る。


 「まだ、何か?」

 「偶然、行き先が同じようだ。気にすることはない」


 嘯く警官に邪魔されない方法について、頭をめぐらせる。

 なんてことはない。誘拐犯も、警官も、エリーナさえも、みんなまとめて騙くらましてやればいいだけだ。


 向かうは、年季を感じさせるアパートメント。

 かろうじて張り付いていたアルフ・ランサムの顔は剥がれ落ち、すっかりレイン・セルターの顔へと変貌していた。振り子が揺れるように、アルフ・ランサムという生真面目な男からレイン・セルターという剽軽なギャンブラーへ。

 レインの中の生来の気質が騒ぎ、駆り立てる。久々の仕事だと、心が湧き立つ。


 いまだ情報の少ない誘拐犯、人質となってしまったアルフ・ランサムの麗しのレディであるエリーナ、レイン・セルターの熱烈なストーカーであるケヴィン。問題は多い。ただ、障害が多く、成し遂げるのが困難であればあるほど胸が躍るレインにとって、今の状況は願ってもないものだった。

 レインの心は完全に盗みに心奪われ、謹厳実直なアルフ・ランサムは廃業となった。


 レインの描く筋書きは、まずはエリーナの居場所を突き止め、それからエリーナを無傷かつ無償で助け、仕上げに誘拐犯を警官にでも突き出す、というものだ。

 付け加えるのであれば、レインの怪盗としてのポリシーとして、殴り合いや取っ組み合いはしない。

 何時でも余裕を持ち、相手がジタバタするのを上から眺めるのがいいのだ。上品かつ優々と目的のものを頂戴する。レインの立つ舞台は武闘会ではなく舞踏会であり、大立ち回りを演じるつもりはない。


 そのためにはまず、下準備が大切だ。一流の料理にも、一流の盗みにも、周到な下準備が重要なのだ。


 レインは目的の部屋の扉まで向かい、中の物音を聞く。情報が必要だった。

 焦りは禁物だ。今は様子見だけ。このまま押し入るにはリスクが高い。

 それに……


 「おい、何をしてるんだ?お前、盗みに入る気か!?」

 「まさか」


 横でケヴィンが騒ぎ立てている。

 この警官にボロを見せてやる気はない。丁度いいスパイスとして上手く謀ってやればいい。そんなことを思い、口角を上げながら思案する。


 業者に化けて堂々と入ってやってもいいし、暗闇に溶け込みこっそり忍び込み脅かしてやってもいい。誘拐犯の調理法が次々と浮かんでくる。思考は程よく冴え渡り、怪盗としてのカンが戻ってくるのを感じる。


 「何を企んでるんだ?」

 「企むだなんて、人聞きが悪いね。僕はただ――」


 どうするのが一番安全であるかと、僅かに思案し、すぐに消し飛ぶことになった。


 婦女のすすり泣くような音が確かにレインの耳に入る。


 ――エリーナ……。エリーナ……?エリーナ……!


 その瞬間レイン・セルターは完全にアルフ・ランサムへと戻ってしまったのだ。鮮やかな技術で扉の鍵をあけ、音を立てないながらも猛然とピストル片手に部屋を物色。


 果たしてエリーナは見つかった。両手足を縄できつく縛られていた。

 目を白黒させるエリーナを抱いて逃げようとするも、部屋にはあの時の背の高い男が。


 男は突如登場したレインに動転しながらもレインに掴みかかった。二人はもみくちゃになり、その拍子にレインが持っていたピストルが男の手に渡った。

 突き飛ばされたレインに銃口が向けられた。男が汗をダラダラと流し、荒い息を吐きながら、銃口をレインとセリーナの間で揺らす。レインは見慣れた自身の獲物を別の人間が握っていること、その人間がいやに興奮していることを、どこか奇妙に感じていた。


 レインにとってこれはタネを知っているマジックであり、迷いはなかった。男が引き金を引くと同時にレインは動き出し、男の顎目掛けて使い慣れない拳を振るう。ピストルは派手な発砲音を出し、顎を綺麗に撃ち抜かれた男はパタリと倒れた。果たしてタマは出なかった。




 自身のピストルを拾い、エリーナを連れ、部屋から出たレインの前にケヴィンが立ち塞がる。

 ケヴィンは確かに、レインが銀行員にあるまじき手慣れた手つきで扉の鍵を開けたところを見ていたはずだ。


 レインはセリーナの肩を抱いていた手を力なくおろし、なんの表情もなく告げる。


 「中の男を捕まえてもらえますか?セリーナも屋敷に送りたい。話ならその後でじっくり聞きます」


 ケヴィンはレインとセリーナをじっと見てから口を開いた。


 「君は、婚約者を迎えに行っただけだ。レイン・セルターの話、あれは俺の勘違いだったみたいだ。違うかね?アルフ・ランサム」

 「……。ええ、そのとおりです」


 ケヴィンはレインの横を通り過ぎ、今しがたレインがエリーナとともに飛び出してきた扉の方へと向かっていった。

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