三股する婚約者とオタク令嬢が別れるには
ベンチの裏側から、まるで蜂蜜を掛け合うような甘い声が聞こえてくる。
「やだぁ、ドニーったら〜」
「だっていい匂いがするよ。ほら、ここも」
「うふふ、くすぐった〜い」
天気の良い裏庭で読書をしていたエリスは、ページを捲る手を止めた。
固まる体と強張る顔を「はぁ」と溜息で緩めて、そっと本を閉じた。
「あっ、エリス!?」
じゃれあう男女はベンチの前にやって来て、案の定、エリスの顔を見てギョッとした。ドニーの腕に密着していた女生徒は慌てているが、エリスは何も見なかったふりをして、微笑んだ。
「ご機嫌よう。ドニー。それから……」
ララだっけ? リリだっけ? と名前が出ないうちに、下級生の可愛らしい生徒は気まずそうに後退り、逃げてしまった。
ドニーは小さく舌打ちして、苦々しくエリスを見下ろした。
「ここにいたのか。息を潜めて覗き見するなんて、性格悪いな」
「いえ……私はここで本を読んでいただけで」
先にベンチにいたエリスのもとにムード全開で登場したのはそっちなのだが、ドニーはバツの悪さからイラついているようだ。
八つ当たるように、エリスが抱えている本に目を付けた。
「また魔法陣か。そんな古い呪いなんか集めて、いったい何の役に立つんだ?」
「古代の魔法陣には、現代でも通用する貴重な情報もあるので……」
ドニーはエリスの言葉を遮って、乱暴にベンチに腰掛けた。
金色の髪を掻き上げてこちらを睨む青い瞳は鮮やかで、傲慢だが整った顔の婚約者は、この学園でとてもモテる。
そう。ドニーは一応、エリスの婚約者なのだ。
「あのさ、普通の女子はピアノとか刺繍を趣味にしない? 香水を調合するとかさ……その方が女の子らしくて可愛いと思うけど」
ああ。あの可愛い下級生は良い香りがしましたもんね……と内心で皮肉りつつも、エリスは曖昧に微笑んだ。
女性らしい趣味を提案されるたびに、魔法陣の学習は自分にとって大切な研究であると訴えているのだが、ドニーは聞く耳を持たない。自分の婚約者が地味な世界に没頭しているのが理解できず、どうしても許せないようだ。
「そうですね……」
反論を諦めて目を伏せるエリスに、ドニーは呆れるように溜息を吐きながら立ち上がった。
「だからオタク令嬢とか言われんだよ」
捨て台詞を残して行ってしまった。
オタク令嬢、というあだ名は婚約者であるドニーと浮気相手の間でしか流行していないのだけど……と苦笑いして、エリスは憩いの場である図書室に向かった。
エリスはこの数年、ドニーの婚約者として身動きが取れない立場にある。
伯爵家の領地が災害によって多大な損失を出し、それを補う条件で打診された男爵家からの婚約の申し出を、一人娘のエリスは受け入れるしかなかったからだ。
採掘業で大成したドニーの父は家名を欲していて、互いの利益が一致した。幸運な婚約だと祝福する両親に、エリスはドニーの浮気癖を伝えることができなかった。
「私も幸運だと思っていたわ。2年前までは」
エリスはドニーと初めて出会った頃を思い出していた。
まだ少年だった彼は、明るい日差しに金色の髪を輝かせて、青い瞳で微笑んでいた。なんて爽やかな空の色だろうと幼いエリスは見入って、遅れてカーテシーをしたのを覚えている。
ドニーは我儘なところはあったけど、あの頃はまだ、こんな浮気や暴言を振りまく青年になるなんて、思いもよらなかったのだ。
背が伸びてハンサムに磨きがかかったドニーは、学園に入学して自分がモテると自覚したのだろう。浮気に歯止めが利かなくなっていた。
「エリスさん?」
図書室の机で本を開いたまま時を止めていたエリスは、ハッと我に返った。
見上げると、沢山の本を抱えた男子生徒が立っている。黒髪が目にかかって殆ど顔が見えないが、和やかな笑顔が人懐こい。昨年、隣のクラスに編入した留学生だ。
「ティムさん。今日も魔法のお勉強ですか?」
「はい。図書室は自分の家みたいに落ち着きますねぇ」
えへへ、と屈託なく笑っている。
ティムとは図書室で毎日顔を合わせるうちに、読書友達になった。彼は遠い異国イースレイから、このオリオン王国に古代の魔法を勉強しにやって来たらしいが……。
ティムは肩を落として、本の束を机に置いた。
「魔法研究のサークルを作りたくて皆に声を掛けたけど、誰も興味を持ってくれなくて。楽しいのになぁ」
エリスは気の毒そうに苦笑いした。
「オリオン王国では魔法が流行らないのよね」
「はい。せっかく古代魔法の歴史がある国なのに、勿体ないです」
「この国の民は新し物好きで、魔法は古い物と見なされているみたい。文化は大切にしなきゃいけないのだけど」
自国を憂うエリスに、ティムは笑顔を向けた。
「仕方ないですよ。オリオン王国の文明は先進的で、薬学も工学も世界一ですから!」
「貴方の祖国であるイースレイは、世界でも数少ない、魔法使いが存在する国だわ。私としてはそちらの方が羨ましいけれど」
エリスはデビュタントの時に訪れた、王城のパーティーに思いを馳せた。
エキゾチックなローブを纏った魔法使い達を連れた、イースレイ国の王子ら来賓の一行を。厳かで美しく、まるでお伽噺のような光景だった。
そんなロマンティックな回想を、棘のような声が邪魔をした。
「見て! オタク令嬢とオタク留学生のカップルよ」
「地味な男とお似合いね」
クスクスと嘲笑う方を見ると、上級生の……確かマリィとか、ミリィとか? お綺麗な令嬢がご学友と一緒にこちらを指していた。
浮気者の婚約者ドニーは上級生にまでお手つきをしているらしく、先輩令嬢は学園内でエリスと会うたびに、攻撃的な姿勢を見せた。
自分だけならともかく、ティムまで悪口を叩かれるのは申し訳がなく、エリスは嗜めようと腰を上げた。
が、目前に座るティムは肩を震わせて、笑いを堪えている。
「オタク令嬢とオタク留学生……確かに! 僕たち、古のオタク仲間ですね!」
楽しそうな様子に、エリスは釣られて笑ってしまった。
ティムは前向きな性格で朗らかだから、いつも励まされる。
「ふふ。そうね。確かに私は魔法陣に取り憑かれた、古のオタク令嬢だわ」
「エリスさんのような美しい方の趣味が僕と同じ魔法オタクだなんて、オリオン王国に来て一番ビックリしたことです」
奥手な見た目に反して大胆な発言をするティムに、エリスは照れて赤面した。
「私の場合は趣味というか、必要に迫られてというか……勿論、魔法の神秘に惹かれているけれど」
「必要に迫られて、とは?」
キョトンとするティムに、エリスは事情を打ち明けた。
「薬学や工学では対処できない自然災害を、古の魔法陣を応用して被害を軽減できないかと、模索しているの。うちの領地は天災の影響が大きくて」
「そうだったんですね。ならば僕も、一緒にその方法を探します! 魔法陣の組み合わせで天候の予知ができれば、予防策が取れるかも」
毅然として本を開くティムを、エリスは微笑んで見つめた。
「ありがとう。でも……」
お礼の後の小さな語尾は、本に没頭するティムには届かなかったようだ。
エリスは心の中で言葉を続けた。
(例え僅かな予知ができても、今の伯爵家を立て直すには、どうしても莫大なお金が必要なの。この図書室での安寧の時間が無くなるのは寂しいけど……)
その日の晩に。
エリスは伯爵家の自室で、魔法陣の図を眺めた。
様々な形の図の横には、それぞれの効能が書いてある。
1. 嫌な匂いで虫を追い払う魔法陣
2. 食害する動物の足を止める魔法陣
3. ヒヨコの雄と雌を見分ける魔法陣
どれも昔は農業や畜産などで使われていたが、魔法陣は作り手の能力や出来によって効果が安定しないため、確実性のある薬物が台頭した。今では魔法陣は “気休め程度の呪い” と見做され、オリオン王国の魔法文化は廃れてしまった。
魔法陣の中には古代文字が刻まれている。それは遥か昔に精霊と人間が契約を結んで誕生したものだ。
この王国にも、確かに精霊がいたはずなのだ。浪漫と希望を感じられる魔法陣の歴史を、民は忘れてもエリスは愛してやまなかった。
「ふふ……私も精霊に会えたら良かったのに」
エリスは少し悲しい顔をして、魔法陣の本を閉じた。
そして箱から糸と布を出すと、辿々しく刺繍を始めた。慣れない針に何度も指を刺しながら、エリスは痛みに耐えて習得するしかなかった。
数日後、学園の裏庭にて。
「エリス!? 何してるんだ!?」
再び唐突に出会ったドニーは、ベンチに座るエリスの手元に釘付けとなった。
「その手に持っているのは、もしかして……」
魔法陣の本ではない。
白いレースの布と、色とりどりの糸だ。
エリスは集中して俯いていた顔を上げて、慌てて布を隠した。
その様子にドニーは満面の笑みを浮かべて、エリスの間近に座った。
ベンチもエリスも、途端に香水の香りに包まれる。ドニーの体には、あの浮気相手の下級生の匂いが染み付いているからだ。
「エリス! 俺の言う通りに刺繍を始めたんだ!?」
「は、恥ずかしいです。初心者なので……」
赤面するエリスの手は、針で沢山怪我をしたのだろう。彼方此方にテープを巻いていて、それを見たドニーはより高揚した。
「アハハッ、ようやく女の子らしい趣味に目覚めたんだ! 刺繍をしているエリスは淑やかで可愛いな!」
ドニーはエリスの頭を強く撫でた。自分の提案を従順に受け入れた婚約者に、満足げな様子だ。
「この刺繍が完成したら……受け取ってくださいますか?」
「勿論! 下手でも気にしなくていいよ。そのうち上手くなるだろうから」
上機嫌なドニーに、エリスは微笑んだ。
その様子を、渡り廊下を通りかかったティムが見ていた。
魔法陣の本を取りこぼして、立ち尽くしている。
この数日、エリスは婚約者のために毎日ベンチで刺繍をするようになって、図書室には現れなくなっていた。仲睦まじい二人をティムは寂しそうに眺めて、無理矢理に笑顔を作った。
「エリスさん。彼と喧嘩してたみたいだけど、仲直りしたんですね。オタクは僕一人になっちゃったなぁ」
独り言を呟いて本を拾うと、安寧の巣である図書室に帰っていった。
それから暫くして、ドニーはエリスから刺繍のハンカチを受け取った。
色とりどりの可愛らしい花が抽象的に描かれた、乙女チックな模様だ。
ドニーは「うんうん」と頷いて、品評するようにハンカチを広げた。
「初めてにしてはまあまあじゃないか? このまま努力すれば、皆に自慢できるくらい上手くなるかもな!」
確かに自慢できるほどの出来栄えではないので、エリスは苦笑いをした。
そしてまた頭を撫でようとドニーが手を出したので、エリスはサッと後ろに引いて、それを避けた。
前につんのめったドニーに、エリスは頭を下げた。
「では、これにて婚約破棄をさせていただきます」
少しの間の後、ドニーは「はあ?」と目を丸くした。
エリスは微笑んで復唱した。
「婚約破棄を、させていただきます。このハンカチは別れのプレゼントですので、お気に召さなければ捨てて頂いて結構です」
ドニーは理解が追い付かずに、ハンカチとエリスを往復で何度か見た。ようやくエリスの言葉を飲み込んだのか、一気に怒りが噴き出した。
「な、何言ってるんだ? 婚約破棄!? そんなこと、無理に決まってるだろう!?」
「三股もする婚約者など無理ですので」
「ハハッ、何を言って……」
エリスは踵を返して立ち去り、ドニーはその場で立ち尽くした。驚きのあまり足が動かないのか、後ろから大声が追いかけて来た。
「うちの援助を断れば、お前の家は没落するぞ! この貧乏貴族が!!」
エリスは振り返らず、ドニーの罵倒だけが裏庭に木霊した。
それからというもの。
可愛い下級生や綺麗な上級生と毎日イチャイチャしていたドニーは、学園内で一人でいることが多くなった。すっかり女っ気が無くなり、潤いを失ったドニーは日に日にやつれていった。
そうしてふらふらとエリスを探し求めて、ドニーは裏庭のベンチにやって来た。
遠目に見えるエリスはベンチに座って、熱心に刺繍をしている。
太陽でウェーブのかかった金色の髪が明るく光り、若葉色の瞳は優しく手元を見つめている。その姿はまるで妖精のように美しく輝いていて、ドニーは幻を見ているように何度も瞬きをした。
「やっと完成したわ! 上手くできてるといいけれど」
エリスが花の刺繍を宙に掲げて、出来栄えを確かめたその時。
「おい、エリス!!」
ドニーの怒鳴り声に驚いて、エリスはベンチから飛び上がった。
離れた場所に、ドニーが猫背で佇んでいる。まるで別人のように爽やかさが無くなり、クマが刻まれた暗い顔で、あの別れの刺繍のハンカチを握り締めていた。
「エリス……その刺繍はいったい、誰のための物だ?」
「まあ。ドニー」
「俺という婚約者がいながら!!」
「婚約はもう破棄しましたでしょう。お父様からもそちらに連絡がいった筈で……」
「バカな!! 伯爵家を潰す気か!?」
「伯爵家の負債は完済しましたわ」
エリスは完成した新しい刺繍を、ドニーに翳して見せた。
「この刺繍で」
「そ、そんな刺繍ごときで、莫大な借金が返せる訳ないだろう!?」
エリスはドニーが力強く握りしめているハンカチを見つめた。
「そのハンカチは試作品だったのですが……捨てなかったのですね」
「これは俺がお前に作らせて、貰った物だ! 持ってて何が悪い!」
ドニーは怒鳴るだけで、エリスに近づかなかった。エリスが立ち上がって去ろうとしても、追いかけられなかった。
「エリス、何故なんだ! せっかく可愛い女になったのに!」
「ごめんあそばせ。貴方の近くには寄れませんの」
顔を顰めて行ってしまうエリスを、ドニーはやはり追いかけられず、地面に膝を突いた。
「エリス、エリス……」
不思議なことに、ドニーはエリスが自分に従った途端に、手放すのが惜しくなったようだ。
「浮気者の心は理解ができませんわ」
エリスは不愉快そうに裏庭から離れて校舎に入ると、久しぶりに図書室に向かった。
「エ、エリスさん!?」
積み本に囲まれて熱心に勉強していたティムは、ガタと席から立ち上がった。エリスがティムの顔を見るのも暫くぶりだ。まるで我が家に帰ったように、心がホッとしていた。
「ティムさん、お久しぶりですね」
「今日は読書をしに!? わあ、嬉しいなぁ!」
明るい笑顔を満開にするティムに、エリスは微笑んだ。
「今日はティムさんに見てもらいたい物があって」
エリスは卓上に、何枚かの刺繍のハンカチを並べた。
ティムは真剣な顔で手に取って、刺繍の細部を観察した。
「これは……刺繍の絵の中に魔法陣が隠れている!?」
「うふふ。さすがティムさんね。魔法陣の古代文字を組み合わせて、刺繍の中に組み込んだの」
「なんと……それは凄い!」
「新たなお守りのグッズとして商会で特許を取ったのだけど、王宮の貴婦人の間で流行して、注文が殺到したの。おかげで伯爵家の負債を完済できたわ」
「おおお、素晴らしい! 流石オタク令嬢です!!」
今まで悪口だったあだ名も、ティムが口にすると立派な褒め言葉に聞こえて、エリスは笑った。
「ティムさんは相変わらず、魔法の勉強に真剣に取り組んでいるのね」
「はい! 天災を予知する方法を幾つか編み出しましたよ!」
「まあ! 研究を続けてくださっていたのね!?」
「エリスさんは刺繍でお忙しそうだったので、陰ながら僕が力になれればと思って。その……刺繍の魔法陣は婚約者の方と一緒に開発したのですか?」
エリスは苦笑いをして首を振った。
「ドニーはもう婚約者ではないし、そもそも彼は魔法が嫌いなのよ」
「えっ??」
「お別れに、女性を寄せ付けない魔法陣を贈ったわ。浮気者に最後の意地悪をしたつもりだったんだけど……何故か捨てずにずっと持ってるみたいね。だから女の子達から避けられているみたい」
「え……ええー!?」
ティムは刺繍の効果に恐れ慄いて、仰け反った。
「非モテの魔法陣なんて、ありましたっけ!?」
「虫除けの魔法陣をベースに改造した、オリジナルよ」
「な、なんと……ただでさえ魔法陣は出来によって効果がシビアなのに、オリジナルを作ってしまうなんて」
ティムはマジマジとエリスを見つめた。
「やはりエリスさんは、精霊に愛されているのですね」
「え? 私が精霊に?」
「はい! 3年前、エリスさんを初めてお見かけした時に、精霊の加護に囲まれていたのを覚えています! オリオン王国には精霊があまりいなくて、渡航した際には正直ガッカリしたのですが、エリスさんだけは特別だったのです!」
エリスは驚きとともに、首を傾げた。ティムと初めて出会ったのは留学してきた1年前のはずだが、興奮して年数を間違っているのだろうか。
「あの、ティムさんには精霊が見えるのですか?」
「はい。魔法が未だ盛んなイースレイ国では皆、精霊を目視できます。光の粒が空中に漂っていて、人の周りを照らしているんですよ」
「まあ……素敵! 魔法を忘れてしまったオリオン王国にも、まだ精霊がいたと知れて嬉しいわ」
「貴方の周りだけです。きっと魔法を深く愛しているエリスさんを、精霊も愛しているのでしょうね」
熱の篭ったティムの言葉に、エリスは胸を打たれた。
前髪の合間からこちらを真っ直ぐに見つめるティムの黒い瞳は、誠実に輝いている。
優しくて、素直で、一生懸命で。そんなティムに自分はずっと救われ続けているのだと実感して、エリスは感謝の気持ちが込み上げると同時に、鼓動が妙に高鳴っていた。
(私はティムさんを大切なオタク仲間だと思っていたけど、この気持ちはもしかして……)
自身の恋心に気づいた途端にエリスは赤面して、誤魔化すようにティムから顔を逸らして、鞄を開けた。
「そ、それから、この刺繍は新作なのだけど……」
さっき完成した力作を、ティムに翳して見せた。
普通のハンカチと違って、真ん中に穴が開いた、リースのような花の刺繍だ。穴の向こうのティムを覗きながら、エリスは説明した。
「嘘と真を判断する魔法陣をアレンジしたの。こうして向こう側に真実が見えたら、私にも精霊が見えるかもって……え……」
エリスは目を見開いて、時を止めた。
リースの刺繍の向こう側にいるティムは、まったくの別人としてそこにいた。忘れもしない、あのデビュタントの王城のパーティーでお見かけしたあの方が、そこにいるのだ。
「クラウディウス・イースレイ王子……?」
その呼び名にティムも驚いて、椅子からずり落ちた。
「えっ!? 変装魔法も見破るのですか!? 凄い!!」
声も口調もティムそのままだが、外見はあの王城で見た来賓の、イースレイ国の王子だった。まるでお伽噺の絵のように、精霊の光で輝く神秘的な銀色の髪に、夜と陽色を移ろう魔力が篭った瞳。抜けるような肌は女性と見紛うほど美しく……。
エリスは動揺して立ち上がり、リースの刺繍を思わず放り投げてしまった。
「し、失礼しました! まさかクラウディウス王子殿下とは思いもよらず、数々のご無礼を!!」
真っ青になって平伏すエリスを、ティムは慌てて止めた。
「や、やめてくださいよ! 僕たちオタク仲間じゃないですか! それに僕の正体はこの学園では秘密なので……」
王子である立場を隠し、魔法で変装して留学しているのだとわかって、エリスは慌てて口を塞いだ。
ティムは朗らかに笑いながら、頭を掻いている。
「いや~、参ったな。エリスさんには、いつか僕から真実を伝えようと思ってたのに、先に見破られるなんて。こんなの初めてです」
「わ、私もまさか、真実の刺繍が成功しているとは……」
ティムはいつも通りのティムだが、より真剣な眼差しで告白した。
「王城のパーティーで、精霊に囲まれて光り輝く貴方を見た時から、この国に留学しようと決めていました。エリスさん。これからも僕と一緒に、オタク仲間でいてくれますか?」
エリスは呆然としたまま頷いた。
「も、勿論です。クラウディウス王子殿下!」
「殿下じゃなくて、ティムです」
「ク……ティムさん」
ティムはえへへ、と屈託なく笑うと、照れながら言葉を重ねた。
「それからいつか……僕の国にも魔法を学びに来てくれませんか? 僕は貴方に、精霊の神秘をもっと知ってほしい」
「はい! 私もイースレイ国に行ってみたいです。殿下、じゃない、ティムさん!」
エリスとティムは顔を見合わせて、優しく微笑みあった。
真実の刺繍を通していないのに、エリスの目にはティムの姿がまるで妖精のように輝いて見えた。
それは恋心が見せた、奇跡の魔法なのかもしれない。
最後までお読みくださりありがとうございました!
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