異能の形について 卍解篇
異能の中には、
『異能そのものが形を持ってこの世に具象化する』
というものがある。
ここでは、『卍解の形』について考えてみたい。
まず、卍解の形的な特徴として、
個人々々によって『卍解の形が全く違う』。
というのが挙げられる。
『単に戦うだけ』なら、
似たような形の偏りが
もっと多くてもいいように思う。
それが何故、死神によって
『全く違うのか』について考えてみたい。
結論から言うと、『卍解の形』とは
『死神本人にとっての世界の形そのもの』の具象化
あるいは、
『世界がもたらす恐怖と闘争する形』の具象化
なのではないか。
筆者がそう思う根拠として、
以下に、いくつか卍解の例を挙げてみたい。
『朽木白哉』
白哉は、『空間を埋め尽くす程の無数の刃』を生成する卍解を使う。この理由から考えてみよう。
白哉は貴族なので、『衆目』に常に晒されている。
そのなかには、『敵意』、『悪意』も多いだろう。
尸魂界の社会情勢を考えると、白哉は子供の頃から命を狙われることも多かったと考えられる。
そんな白哉の潜在意識的には、
『世界は自分に向けられた無数の刃で構成される』という認識が形成されたとしても、おかしくはないように筆者は思う。
『無数の刃を向けてくる世界そのもの』
と闘争を続ける為に白哉の認識が形作ったもの。
それが、
『無数の刃の卍解』=千本桜景厳
なのかも知れない。
『狛村左陣』の場合はどうだろうか。
狛村左陣の卍解は、『鎧を纏った巨“人”』の形。
これは、“人狼”である狛村本人が、
『自分と見た目が全く違う者』ばかりの世界
に住んでいることと関係があるように思う。
『ヒトの社会』で生きる
『“人狼”の狛村』にとって、
恐怖の対象は、『“ヒト”』そのもの。
そして、『真実を“隠して”生きること』。
それ故に、
狛村が世界の恐怖と戦い続けるために
象った『闘争の形』が
『“鎧”を纏う巨“人”の形』。
黒縄天譴明王の形が
『鎧を着た“人”の形』をしているのは、
『“ヒトの社会”という巨人(≒狛村の世界の認識)』と
『その中で正体を“隠し(≒鎧を纏い)”ながら生きる自分』
という
狛村自身の潜在意識化での闘争を
顕しているのではないか。
黒縄天譴明王の強化版の卍解
『断鎧縄衣』で
鎧(己の弱さを“隠す”シンボルか)を脱ぎ捨てる理由も、そこにあるように思える。
……鎧(弱さ)を脱ぎ捨てる代わりに
『己を縛る縄』が顕れるところが、泣ける。
【総括】
自分の生涯で一番長く闘争する相手は
『自分自身の心』だと思う。
世界を認識するのも、自分の心だと思う。
つまり、『卍解の形』は
『自分の心(≒本人が認識する世界)との戦いの形』
なのではないか。
『六車拳西』は、『自分を“鍛えすぎてしまう”から、筋肉養成ギブス型』の卍解。
『初期の一護』は、『大切な人を護る為に“間に合いたい”から、スピードファントム』の卍解。
『卍解の形』が、ある種
『限定の形』でもあるように、
筆者には感じられる。
だから、強い人の卍解は
常に進化していくのだと
筆者は思う次第である。
大事なのは、
『形じゃなく、その心』。