第19話 百式の零とは何なのか?
ネテロの奥義“百式の零(零の掌)”は、
百式観音が“ものすごい叫び”を上げているように見える。一見放出系の技のようにも見える。
しかし、単なる放出系攻撃だとしたら、角度的にメルエムやネテロ本人が吹っ飛んでいかないのはおかしいし、百式観音の手のひらでメルエムを“包む”必要もない。
(百式の零使用中、百式観音は『敵の背後』、そして『ネテロの正面』に出現する。)
単なる“口からビーム”《《ではない》》気がする。
多分。
●筆者が思う“百式の零の正体”
【1】観音の手のひらで優しく敵を包む(モラウの“監獄ロック”みたいに、技が終わるまで《《脱出不可能》》)。
【2】観音の手のひらの内側で、“叫び”(=音の超振動)を限界まで『強化』する。
つまり、叫びは観音の口だけではなく、主として《《観音の手のひら》》から伝達されている。
【3】観音の手のひらの内側で反響・増幅された“叫び”が、手のひらの内側の空気を振動させることで超高熱を放つ“光弾”となる。
つまり、
『百式観音の手のひらをアンプとして増幅された、ものすごい叫び声の超振動』。
それが、筆者が思う“百式の零の正体”である。
このやり方だったら、
敵も自分も吹っ飛ばすことなく、叫びの振動の威力を余すところなく伝えることができる。
(地面が丸く刳れるのは振動の余波か)
百式観音の手の中のメルエムは
『全方位からの情け容赦ない超振動』と
『超高熱の空気』に絶え間なくさらされ続ける
ことになるのだろう。
……えげつない。
●メルエムは百式の零をどうやって防いだのか?
『“全身”からオーラを放出し続けて、
凄まじい叫びが終わるまで耐え続けた』。
シンプルだが、これが一番近いと筆者は思う。
百式観音の通常攻撃がノーダメージになるくらい、硬い表皮を持つメルエムにしか成し得ない防ぎ方だと筆者は思う。
そんなメルエムですら、
『百式観音の手のひら』からは逃れられなかった。
たらればの話にはなるが、
メルエムが百式観音の攻撃を見破る前に
初手で百式の零を使っていれば、誠に勝手ながら、『勝負は分からなかった』と筆者は思う。
●『なぜネテロは初手の不意打ちとして、百式の零を使わなかったのか?』
そういう“制約条件”なのかもしれない。
もしくは、
メルエムが戦い方に拘っていたように、
ネテロもまた『自身最後の戦い』に拘ったのかもしれない。
……正直、分からない。
【総括】
仏教的に、『合掌』には“感謝”という意味があるらしい。
右手が極楽浄土を表し、左手が衆生を表す。
その2つを重ね合わせることで、相手への感謝の気持ちや成仏してほしい気持ちを表すのだとか。
でも、百式の零を放つネテロの“指の印”は、感謝や成仏とは《《程遠い形》》をしている。
ネテロは立場上、
『絶対に負けられない』。
ネテロが負けた後もメルエムが存命している場合、ネテロの心臓に仕掛けた“貧者の薔薇”が作動する。
“貧者の薔薇”でメルエムを倒しきれなかった場合は、もっと強力な戦術核的な兵器が東ゴルトー共和国に対して使用されることになるのだろう。
いずれにしてもネテロには生き残る術はない。
つまり、キメラアントに対するネテロの立場は
『人類の勇者』であると同時に
『人身御供』でもある。
ネテロがメルエムに対して
百式観音のいろんな技を使って
愚直にまっすぐに立ち向かった理由は、
『人生賭けて得た己の力を試したい』。
それにプラスして、
・メルエムの強さと稚さ
・各国の国家元首たちの身勝手さ
・自分自身の現在の立場
などなど…に対する
『ネテロなりの最後の意地』
だったのかもしれない。
そう考えると、
「…もう退けねェのよ」や、
「それが出来れば 苦労はしねェ!!!」
などの場面がすこし違って見えてくる気がする。
『百式の零』は正しく、
ネテロ自身の『《《最後の叫び》》』だった。
そういう風に筆者は考える次第である。
心のなかには、感謝もあるけど“怒り”もある。
『それでも一生懸命戦う』。