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山爺が反撃も防御もせず袈裟斬りにされた件について

火は、いずれ燃え尽きる。

それがおそらくこたえなのだろう。


この連載の第7話の中で卍解のカタチについて書かせて頂いた際に、卍解はその死神にとっての『世界(こころ)の形』だという自説を申し上げた。


本稿では、山爺の卍解『残火の太刀』をカタチから解明し、抗うことなくユーハバッハに袈裟斬りにされた山爺の内面を推察してみたい。



●名前

熱と爆炎の斬魄刀『流刃若火(りゅうじんじゃっか)』。

ながれる刃、火のごとし”。

とでも、読むのだろうか。

それとも、“刃の上に流れゆく、若い火”だろうか。


そのどちらでもあり、どちらでもないように筆者には感じられる。


“質流れ”という表現がある。

質屋に預けられた品物が、期限内に持ち主が引き取りに来なかった為、品物の所有権が所有者から質屋の方に移ることを言う。

“預かりもの”から“売りもの”の方に“流れる”。

『質流れ品の側』からしたら、それはどうしょうもない。


・千年前の戦いの際、“不意討ち”でユーハバッハを討ち取った山爺(アニメ版千年血戦篇の描写)。

・多くの部下たちを犠牲にし、誇り高き腹心『雀部長次郎』を“不意打ちの実行者”にしてしまった山爺。

・そこまでしておいて、ユーハバッハを取り逃がしてしまった山爺。

山爺の心のなかには、“返済できない様々な借り”があったことと思う。


メタファーとして考えた場合、『流刃若火(りゅうじんじゃっか)』という斬魄刀の名前には様々な意味が込められているように、筆者には感じられる。

『山本元柳斎重國』という名前も同様である。


流刃若火(りゅうじんじゃっか)』。

そして、卍解『残火(ざんか)太刀(たち)』……

名前そのものが、無敵のはずの山爺の苦悩を暗示しているかのように筆者には感じられる。



●残火の太刀と山爺の人生

ユーハバッハによると、千年前の山爺の卍解は『爆炎の卍解』だったらしい。

見た目はただの焼け焦げた刀。しかし、刀身に込められた熱は斬るものすべてを爆炎で焼き尽くす業火の剣。


千年血戦篇に出てくる残火の太刀は、“東西南北(様々な方位)に分かれ”、最後には“雨が降る”。

これも山爺(あるいは雀部長次郎や亡くなった若い隊士たち)の哀しみを表すメタファーのように、筆者には感じられる。


特に山爺の卍解、『残火の太刀 “南” “火火(かか)十万(じゅうまん)億死(おくし)大葬陣(だいそうじん)”』の描写のなかにそれは如実に顕れる。


火火十万億死大葬陣は、己が屠ってきた死者の灰を残火の太刀でねつを与えて、一時的に復活させる。

この卍解の顕れ方は、表面上には決して出さない“山爺の内心の悔恨”のように筆者には感じられる。


流刃若火の炎に焼き尽くされたものは、“敵だけ”とは限らないからである。


もし、残火の太刀を奪ったユーハバッハが火火十万億死大葬陣を使用した場合、“犠牲にしてきた若者たち”の姿と、山爺自身が直接向かい合うことになるのだろう。

それは山爺にとって最もつらいことのように、筆者には感じられる。


残火の太刀のカタチが、山爺の人生そのものを顕すかのように筆者には感じられる。



●山爺について

・二千年以上前に真央霊術院(死神統学院)を設立し、数多くの優秀な死神、鬼道衆、隠密機動を輩出してきた。

・千年前に自分が卍解を使った際、世界を滅ぼしかけたことを戒めとして、『卍解中の己の姿の絵』を床の間に貼り付けている。

・織姫に頼めば治せるのに『左腕』を治さない。

・自分が全責任を負ってでも、『一護の死神の力』を取り戻させている(尸魂界において、死神の力の譲渡は重罪である)。


これらの行動から察せられる山爺の性格は、

『滅私』と『奉仕』。

そして、『その責任をすべて一身に背負う』。


山爺は自分を語らない(雀部長次郎がそうであったように)。

しかし、山爺は尸魂界において『責任を背負わされすぎている』、というのは確かなことのようだ。


山爺のこの性格を知るからこそ、雀部長次郎は『山爺の片腕』になろうとしたのかもしれない。



【余談】

突然だが、“屈原”という人のことをご存知だろうか?紀元前340年頃の中国の政治家であり、詩人でもある人である。

様々な苦い経験を経た屈原(諸説ある)が現実の世界でも詩の世界でも流浪し、そして屈原は様々なことを経験し、己の苦しみを天に問う。


山爺の卍解、『残火の太刀』が東西南北に分かれている理由にも屈原の故事と近しい哀しみを、筆者は感じる次第である。



…しかし、哀しみは哀しみとして実際の行動の是非とは別問題だと思う。


最後の最後まで抵抗することが正解。

山爺は最後の最後、選択を間違えた。

それが筆者の解釈である。


本日、急に思い立って本稿を書かせて頂いた。

所々、乱暴な表現になってしまうことお詫び申し上げる。

負ける理由を自ら探さない。

あらがう』。


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