第2話
『ねぇ、オフィーリア? これはとても大事なものよ』
『お母様、これ』
『貴女が使ってもいい、けれど、一人では使わないでほしい、わたくしのようにはならないで』
『これは、お母様の……! ぬ、抜けない……?』
『愛した人に渡すためにしか、抜けないのよ』
『お母様を愛しています!』
『それはね、一度渡したら、元の持ち主には戻れないの』
『そんな……どうして』
『もう、これを使う力は残っていないの。最後にやり残したことを片付けてくるから、いい子で待っているのよ』
『それが終わったら、ずっと一緒ですか?』
『えぇ、ずっと一緒よ。愛しているわ、わたくしのオフィーリア』
「お母様……ッ!」
叫んだオフィーリアの手を、暖かい誰かの手が握っている。ベッドに横たわっていることに気づいた後、自分の寝室の香りとは違うことを感じ取り、置かれた状況に混乱した。
「ベレスフォード嬢、落ち着くんだ。大丈夫。貴女は母上のことを聞いて気を失い、私がここへ運んだ。一番上等な客室だそうだ。いつもと違う場所に思えるかもしれないが、貴女の家だから安心してくれ」
パニックになりかけるオフィーリアの耳に飛び込んできたのは落ち着いたバリトンボイス。低く、それでいてオフィーリアを気遣う声色に、押し寄せていた不安の波が引いていく。安心したと同時に、母の死という事実がまた形を持ってオフィーリアの心に重くのしかかり、大粒の涙がほとほとと零れ落ちた。
「あ、……わたくし、すみませ……」
「謝らなくていい。涙を我慢すると貴女の心が溺れてしまうだろう。もし私がいて泣くのを遠慮してしまうなら、すぐに出ていく。手を離してくれたらの話だが」
そう言われて初めて、オフィーリアはアーヴィンの手を自分がしっかりと握りしめていることに気づいた。羞恥心に全身が沸騰しそうになる。けれど、その握りしめた手を優しく握り返してくれているアーヴィンの手が頼もしくて、離したくないと思ってしまった。
「貴方様の前で……泣いても……はしたないとお思いになりませんか……?」
「……思うはずがない。貴女の涙を、私が拭ってさしあげられたらと思っている」
「……ッ、う、うぅぅ、ああああぁぁ……ッ」
声を上げて泣いたオフィーリアを、アーヴィンは優しく受け入れてくれた。メイドから借りたのだろうハンカチでオフィーリアの止めどなく流れる涙を拭い、しゃくり上げる背中を撫でてくれた。
今まで、こんな風に感情を爆発させたことなどない。むしろ感情を制御できるようになりなさいと教わってきたし、その術をしっかりと身につけたはずだった。
アーヴィンと話した時間など一時間にも満たないであろうに、どうしてこんなにも曝け出してしまうのだろう。それは、アーヴィンが自分に対して好意を向けてくれているからかもしれなかった。
生まれつき目が見えなかったオフィーリアは、視力以外の感覚に優れていた。そして、相手から向けられている感情を読み取ることも。もちろんそれは目に見えるものではなく、声色や身体の動かし方、そういった雰囲気から読み取っているにすぎなかったが、使用人たちの具合があまり良くない時、一番最初に気づくのはオフィーリアだった。
(でも、お母様のことは分からなかった)
母は自身の感情や体調を決して外に出すことはなかった。オフィーリアが分かるのは、母が敢えて感じ取らせていることだけだった。せめて、少しでも心を許してほしかった。己の死の気配まで完全に隠し切った母に、真実を教えてくれていたらと願っても届かない。
オフィーリアは体内の水分を全て出し切ってしまうのではと思うくらいに泣き、そうしてようやく落ち着いた。落ち着いたところで自分の失態を振り返り震え、ひどい顔をしているに違いないからと慌ててアーヴィンに退出を願った。
くす、と、アーヴィンが笑いを漏らした音が小さく聞こえ、それからオフィーリアの髪が一束、持ち上げられる気配がした。
「貴女は、泣き顔も美しいから安心してくれ」
ちゅ、とリップ音がして、アーヴィンの気配が離れていく。音を立てたのは、目の見えないオフィーリアに何をしたか知らせるためだろう。それでも男性から贈られたことのないその音は、オフィーリアには刺激が強すぎた。
「ゆっくり、支度をしてくれ。私は貴女ともう一度話をしてから帰るつもりだから」
「は、い……ありがとうございます、セルシアス侯爵様」
「アーヴィン、と呼んでくれ」
そう言ったアーヴィンは、返事を待たずに部屋から出て行ってしまった。これ以上話を長引かせては、オフィーリアの支度ができないと分かっていたのだろう。
「お嬢様、湯浴みのご用意もありますが、いかがされますか?」
「……あまり待たせたくないの。素早く、済ませられるかしら」
「はい、もちろんです」
今までのやりとりを全て見ていたメイドたちは、今までにない手際の良さでオフィーリアを磨き上げていった。
◆◆◆
オフィーリアを支えられていただろうか。彼女の部屋を後にして、アーヴィンは自問自答していた。あまりにも女性経験がなさすぎて、どうしたら女性が安心してくれるのか皆目見当も付かないのである。
己の欲望を満たしただけではないのか、と思う。オフィーリアの涙を拭ってやりたいと思ったのも、声を上げて震える彼女の背中を撫でたいと思ったのも、見苦しいと言うその顔ですら美しいと伝えたかったことも、全て自分がしたかったことで。それをオフィーリアがどう受け取ったのか、それが不安でならなかった。
一緒にオフィーリアの部屋を出たメイドに案内され、応接室に戻ってくる。王の指輪やこの屋敷の存在、ベルモントの動きなど考えなければならないことが沢山あったにもかかわらず、アーヴィンの脳内はオフィーリアのことで埋め尽くされていた。
結局、オフィーリアがお待たせしましたと部屋に入ってくるまで、ずっと彼女のことばかり考えてしまっていたのだった。
「いや、待ってなどいない。気分はどうだ」
「だいぶ良くなりました、あ、アーヴィン、さまのおかげですわ」
「そ、うか」
オフィーリアの口から発せられた己の名前を耳にしただけで、アーヴィンは天にも昇る気持ちになった。ただ名前を呼ばれるだけで、人というのはこうも幸福を感じられるものなのかと思ってしまったくらいで。
「よろしければ、わたくしのこともオフィーリアと」
「オフィーリア」
「は、はい……」
「あぁ、すまない。口にしたくなってしまっただけで、呼んだわけではないんだ。いや、オフィーリア、こちらへ座ってくれ。貴女の母上の話をしよう」
オフィーリアのすぐ隣にはメイドが付き従っていたが、自分の屋敷の中であれば何がどこに置いてあるのか大体記憶しているのだろう。手を借りることもなく椅子まで辿り着くと、静かに腰を降ろした。
「さて、どこから話すべきか」
「アーヴィン様は、お母様のご友人なのですか?」
「いや、臣下だ」
「臣下。あの、先ほどもお母様がお隠れになられたと仰っておられましたね? お母様は、まさか」
「あぁ、貴女の母君はこの国の女王陛下だった」
オフィーリアの瞳が大きく見開かれた。それはそうだろう、今までただ母親として慕ってきた相手が、一国の主であったというのだから。
「あの……わたくし、お母様の本当の子供ではありません」
「陛下はほとんど休まず国のために働いておられた。血の繋がりはないのではと考えていたが、そういう話はされていたのだな」
「はい。あの、国ということは、外にはたくさんの方がいらっしゃるのでしょうか」
「ん? そうだな戦争でだいぶ減ってしまったが、今は二百五十万人ほどだろうか」
「に、ひゃくごじゅう、まん」
目を白黒させるオフィーリアが可愛らしく、思わず表情が緩みそうになる。アーヴィンがどんな表情をしていようがオフィーリアには見えないだろうが、部屋にはハドリーもメイドたちもいるのだ。情けない顔を晒さないよう気を引き締めた。
「陛下にはお世継ぎがいないというのが我々の認識だった。王族の血筋が途絶えたわけではないから、王位を継ぐ者はいるんだ。だから、貴女に何かを強いるなどといったことはないだろう。もちろん貴女が望めば話は別だが」
「いえ、わたくしはこの屋敷で暮らしていけるのならそれで……」
「あぁ、ここでの暮らしは私が必ず守ると誓おう」
オフィーリアが屋敷での暮らしを望んだことで、酷く安心している自分にアーヴィンは驚いた。それが独占欲であると自覚できないまま、胸の内に灯った小さな火はじわじわと大きくなっていくのだった。
「この国は前王の元、長く戦争を行なってきた。貴族も平民も関係なく……もちろん私も戦場に立ち、周辺諸国と互いを削り合う戦いをしてきたのだ。長く続く戦争に終止符を打ったのが、貴女の母君だった。陛下はどこから手に入れたのか魔道具である指輪を使い、我が国を外部からの侵入を防ぐ結界で覆った」
「指輪……」
「その結界に民たちは喜び安堵して、陛下が即位されたのだ」
本当は、そんなに簡単な話ではない。前王の首を取るためにそれなりの犠牲はあったし、女王の即位までの道のりは血にまみれている。けれど、アーヴィンはそれをオフィーリアに伝えるつもりはなかった。
「お母様は、とてもすごい方だったのですね」
「あぁ、尊敬できる方だった。まさか、貴女のような存在を隠し続けているとは思っていなかったが」
「わたくし、知識として色々なことを教わりはしたのですが、屋敷の外のことをほとんど知らないのです。よろしければ、お話を聞かせていただけませんか」
「私でよければ、喜んで」
願ってもない申し出だった。再びオフィーリアと話せる機会が得られたことに舞い上がり、返事があまりにも早すぎたのではないかと我に返った。だが目の前のオフィーリアは嬉しそうに微笑んでいるばかりで、アーヴィンは内心で胸を撫で下ろした。
それから、アーヴィンは隙を見ては屋敷に通う日々を送ることになった。王の指輪は未だに見つからないまま、女王の葬儀の準備だけが進められている。
アーヴィンは葬儀を取り仕切るベルモントの配下の者たちを眺め、悩んでいた。オフィーリアを連れてくるべきだろうか。
「アーヴィン、眉間に皺が寄ってとんでもないことになってる」
「ん? あぁ、すまん。考え事をしていた」
「ずいぶん悩んでるんだな。あまりに恐い顔をしてるから、お前の前を通る人たちが可哀想だったぞ。で? 何に悩んでるんだよ」
ジョシュに打ち明けるかアーヴィンはしばし考え、場所を移すことにした。王城内の一室、周囲に人がいないことを確認してから入室し、抑えた声で話す。
「…………今まで屋敷を出たことのない人間が、女王の葬儀に参列しても大丈夫だろうか」
「なに? ちびっ子に懐かれたとか?」
「いや、御令嬢だ」
「令嬢!?」
ジョシュが大声を上げ、アーヴィンは慌ててその口を塞ぐ。思わず鼻まで一緒に押さえ込んでしまい、顔を真っ赤にしたジョシュが腕を叩いた。
「殺す気か!」
「お前が大声を出すのが悪い」
「いや、そうだけど……ったく、まさかお前の口から女の話が出ると思わなかったよ」
「俺もだ」
「で? 屋敷を出たことがないって、病気とか?」
「目が見えないんだ」
なるほど、とジョシュが腕を組む。考えながら首を傾けると、結んでいる長い髪がさらりと揺れた。銀の髪に薄い青の瞳、ジョシュは美しい男だったから女性経験もさぞかし豊富なことだろう。アーヴィンはその手の話題を口にすることはなかったし、そんなアーヴィンにわざわざ話してくるような男でもなかったから、こうして一人の女性に対して二人で話すというのは初めてのことだった。
「貴族だけの参列日の方が危険はないと思うけど、バレたくない感じだろ?」
「あぁ、できれば。ただ、平民に開放されているところに連れて行ってもいいものかと」
「うーん、アーヴィンがぴったり横に付き添ってればなんとかイケるんじゃないか? 二人で平民の格好してさ」
「ぴ、ぴったり、というのは、まずいんじゃないか」
「なんでだよ。確実に人でごった返してるぞ? そんなとこ、手を繋いでたって危ないに決まってんだろ。なんならお前の懐に抱え込んでてもいいくらいだと思うぜ?」
「か、抱え込む……」
平民の格好に身を包んだ自分が、オフィーリアを腕に収めるように抱え込んで歩く姿を想像し、アーヴィンは頭を振った。口元の緩んだジョシュに肩をポンと叩かれ、現実に引き戻される。
「はいはい、からかって悪かったよ。お前、その子に相当惚れてるんだな」
「いや! そんなことは」
「ないか?」
「…………そばにいて、守りたいと思うのは、惚れているということなんだろうか」
「お前のそんな顔、初めて見るっつーの。俺が言うんだから間違いない。お前はその子に惚れてるね」
「……そう、なのかもしれない」
「かもじゃなくてそうなの」
いつになく強い語気で迫るジョシュに、アーヴィンは珍しく一歩後ずさってしまった。この友人は、面白がっているのか真剣なのかどちらなのだろう。
「分かった、分かったから離れろ、近い」
「ていうか、そんな令嬢いたか? 俺が知らないって少しショックだな」
「陛下が魔道具で隠していたからな」
「は?」
「報告しなくて悪い。お前と手分けして探し回ったあの日、実は指輪とは別の魔道具を見つけていたんだ」
「言えよ!」
実際、アーヴィンはあの日ジョシュに全てを報告しようとした。したが、ジョシュを前にしていざ口を開こうとするとオフィーリアの笑顔がちらついて言えなかったのだ。
どうして言えなかったのか。少し考えれば分かることだった。
何のことはない、目の前のこの美丈夫にオフィーリアを取られてしまうかもしれないと思ったのだ。戦時中に出会い、時に背中を預けて戦ったこの男がアーヴィンの恋敵になるかもしれないと、そう想像してしまったのだった。
「すまん……彼女を、俺だけのものにしておきたくて……」
「ちょ、おま……それ反則だろ、っく、ははは!」
正直に話すと、ジョシュは腹を抱えて笑い出した。瞳から涙を流してまで笑い続ける友人に、アーヴィンの眉が寄って深い皺が刻まれた。
「なぜ笑う」
「それで惚れてないと思ってたのがヤバい。面白すぎる」
「悪かったな」
「いやいや、俺は嬉しいよ。お前にもついに春が来たんだな」
バシバシと更に肩を叩かれ、嬉しそうに微笑まれればそれ以上文句をいう気も失せる。アーヴィンは気を取り直し、葬儀にオフィーリアを連れてくるための計画を相談することにした。
「連れてくるとなると、問題がある。彼女の屋敷とは城の地下にあるワインセラーでしか繋がっていなくてな。まずは城から連れ出さないと」
「それなら、城のメイドと同じ格好をさせて裏手に回れ、馬車を待機させておくから」
「分かった」
それから細部について打ち合わせ、実行できることが確実になった。
ジョシュと話した次の日、アーヴィンは少し緊張しながら、オフィーリアの意志を確認するために屋敷を訪れていた。
最初に会った中庭で、今は向かい合って座っている。小ぶりなケーキや焼き菓子の乗った皿と紅茶が並ぶが、アーヴィンはいつも紅茶を飲むだけだった。
オフィーリアは相変わらず美しく、深い青色の瞳はアーヴィンの鼻辺りに向けられている。
「オフィーリア、母君の葬儀に出たくはないか」
「で……出られるのですか?」
アーヴィンの予想通り、オフィーリアは目を輝かせてそう言った。声に出して肯定の返事をし、それから条件を提示していく。
「君の素性を可能な限り隠したい。だからメイドの格好や、平民の格好をしてもらう必要があるし、平民に開放されている時を狙うから負担は大きいと思う」
「わたくし、大丈夫です! お母様にお別れをしたい……!」
「当日は私が常に君を支えることになるが……その、それも大丈夫だろうか」
「え? あの、支える、というのは」
オフィーリアの瞳が揺れる。拒絶されるかと危惧したが、どうやら大丈夫らしいと安堵した。彼女に出会ってからというもの、自分に対する彼女の反応に一喜一憂してしまうのだ。惚れた相手にはそうなることもあるとジョシュは言っていたが、こうも毎回心臓が煩くはねるものなのだろうか。
出来る限りその動揺が外に漏れないように、アーヴィンは努めて真面目な声で返した。
「文字通りの意味だ。友人の話では、手を繋いだくらいでは危険だと」
「だ、大丈夫です……アーヴィン様こそ、よろしいのですか? わたくしなどと一緒にいて、誤解されでもしたら」
「オフィーリア。私には君しかいない」
思わずオフィーリアの発言を飲み込むように言葉を発してしまい、我に返った。息を飲んだオフィーリアが、アーヴィンの方を窺っている。その顔はいつになく紅潮していた。
ここまで言うつもりはなかったが、彼女を不安にさせたままでいたくはない。アーヴィンは己の心の内を打ち明けることにした。
「君の素性を隠したいというのは、他の男にオフィーリアを知られたくないということだ。……君を、私だけのものにしておきたいと、そんな風に思う私を、軽蔑するか?」
「いえ! いえ……わたくしも、アーヴィン様さえお隣にいてくださったらそれだけで……」
アーヴィンの顔も、オフィーリアに負けず劣らず真っ赤に染まっていることを、少し離れたところに待機するメイドたちだけが知っていた。
◆◆◆
葬儀当日、迎えに来たアーヴィンの前にメイド服を身につけたオフィーリアが立った。自分ではどんな格好になっているのか分からないが、いつもと違う着心地に不思議な感覚がした。
玄関ポーチにやってきたまま言葉を発さないアーヴィンに不安になったオフィーリアは、おずおずと尋ねる。
「わたくしの格好、変ではありませんか?」
「あ、いや、大丈夫だ。メイド服も似合っていて、見惚れていた」
「アーヴィン様……」
アーヴィンはいつもこうだ。オフィーリアを喜ばせる言葉ばかりを与えてくれる。そっと右手の指先に触れてきたアーヴィンの手を、しっかりと握った。メイド服を着ているとは言え、手袋はしたままだったが、アーヴィンは何も言わなかった。
「外では誰に話を聞かれるか分からない。敬語はやめて、私……俺のことはニックと呼んでくれ」
「ニック?」
「そうだ。俺は君をリアと呼ぶ、いいね」
「はい。ニック、リアですね……と、敬語、なくすのって難しい……わ?」
繋いでいる手に力がこもった気がして、オフィーリアはアーヴィンの顔の方を見た。
「し、しっかり掴まれ。じゃあ、行くぞ。屋敷から洞窟までは慣れるためにも歩いてもらうが、洞窟の中は抱えていくからそのつもりで」
「はいっ!」
屋敷を出てからの道のりは酷く緊張した。屋敷の中と違い、歩きやすい地面ではないのだ。オフィーリアはなるべく普段と同じ速度で歩こうと努力したが、そう上手くはいかなかった。
洞窟に入ったと教えられ、確かに空気が変わったなと思う。そして覚悟を決めたとはいえ、長い間アーヴィンに抱えられて移動するというのはとても恥ずかしかった。心臓がドクドクと煩く、どう頑張っても赤らんでしまっているだろう顔を隠すためアーヴィンの胸に顔を押し付ける。
すると、同じくらい早く鳴るアーヴィンの鼓動が聞こえ、オフィーリアは安心した。
(アーヴィン様も、緊張しているのかしら)
城の中に着いたと教えられ、アーヴィンの導くままに外へ出る。しばらくするとアーヴィンではない男性の声が聞こえ、オフィーリアは顔を上げた。
「おいおい、とんでもなく可愛いんだが」
「やめろ、見るな、リアが減る」
「減らないっつーの。あ、ごめんねリアちゃん。俺はニックの唯一のお友達のジョシュ」
唯一に力を込めて話す相手に思わず笑ってしまう。自分とアーヴィンが偽名で呼び合っていることを思い出し、オフィーリアはジョシュに尋ねた。
「ジョシュ様は、本名?」
「うん、俺がいるのは今と帰る時だけだからね」
「私のためにありがとう」
「リア、こいつに礼を言う必要はない。リアと話しているだけで釣りがくる」
「アーヴィン、お前ホント愉快なやつになったわ」
普段は聞かないアーヴィンの口調や声色に、目の前の二人が本当に仲の良い友人なのだと分かる。いつか、自分たちもこれくらい気安く会話を交わす仲になれるのだろうか。
馬車の中に待機してくれていたメイドに着替えを手伝ってもらい、平民の服に着替える。手袋は外されることなく、上から何か布が巻き付けられたようだった。
もう一つの馬車の中で着替えたアーヴィンと再び手を繋ぎ、女王の遺体が安置されている礼拝堂まで向かう。徐々に人の気配が伝わってきて、自然と力が入ってしまっていたらしい。アーヴィンに深呼吸をしろと促され、何度か大きく息をした。
「これから礼拝堂に入る。人がかなり多いから、しっかり掴まっていてくれ」
「はい……!」
言われる前から、周囲にとんでもなく大勢の人間がいることは分かっていた。母は、それほどまで国民に愛されていたのだ。何よりも肌に感じる熱気が、そのことをオフィーリアに教えてくれていた。
アーヴィンにほとんど抱きしめられるような形でゆっくりと前に進んでいく。とはいえ、彼は可能な限り自分に触れないように守ってくれていた。こういう気遣いをされる度、もっと触れてほしいと思ってしまうのはいけないことなのだろうか。
「着いたぞ、階段を三段のぼる。いち、に、さん。目の前に棺があり、陛下が横たわっておられる。感じるか?」
そう言われ、目の前を見つめる。そこには、闇だけがあった。母の姿が見えるわけでも、母の魂が見えるわけでもない。けれど、そこに母はいるのだろう。自らの役目を全うし、しかし自分との最後の約束を叶えてはくれなかった母が。
目から涙が零れ落ちる。周囲からもたくさんのすすり泣く声が聞こえていた。
「……あの、手を伸ばしてもいいの?」
「少しなら。ちょっと待て、俺が一緒に出してやる」
「…………」
アーヴィンの手が右手に重なり、前方に伸ばされる。何か柔らかなものに触れて反応すると、アーヴィンが母のドレスの布地だと教えてくれた。幼い頃、家から出ていく母のドレスの裾を掴み、行かないでと我儘を言った時のことを思い出す。
あの時も、母はオフィーリアを置いて行ってしまった。その時の必ず帰るという言葉に、嘘はなかったけれど。
(お母様、まだ上手く飲み込めないけれど、わたくし、お母様の分まで幸せになりたい。だから見守っていてね。いつか笑顔で会いに行きます)
オフィーリアは重ねられたアーヴィンの手をくいくいと引いた。
「祈りは、挨拶はもういいのか?」
「はい……ニック、本当にありがとう……」
「これくらい何でもない。さ、帰るまで気を抜くなよ」
再び馬車まで戻ってくると、待っていたらしいジョシュの声が聞こえる。馬の吐息も聞こえて、オフィーリアはいつか馬にも乗ってみたいと思った。
「お、その顔は無事にお別れできたみたいだな」
「えぇ、ジョシュも本当にありがとう」
「どういたしまして。おいアーヴィン、これくらいのことで俺を睨むなよ。心が狭い男は嫌われるぞ。なぁ、リアちゃん?」
「えっ? いえ、あの、私は嬉しい、です!」
反射的にそう答えてしまって、顔に熱が集まる。アーヴィンとのことになるとどんどん自分が令嬢としてダメになっていく気がした。しかし、オフィーリアが唯一嫌われたくない相手であるアーヴィンは嬉しそうにオフィーリアの名前を呼ぶだけだ。
握ったままの手に力がこもり、アーヴィンの体温が近付いてきた時、ジョシュが手を叩いて二人の着替えを急かし、慌てて馬車に乗るのだった。