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第1話

 鳥のさえずりと風に揺れる草木の音だけが響く、人気(ひとけ)のない森の中。唯一話し声が聞こえるのは、ひっそりと建つ貴族の隠れ家めいた屋敷の中だけ。

 歴史を感じさせる(おもむ)きであるにもかかわらず、日々使用人たちが丁寧に磨き上げ、どこもかしこも清潔に保たれている。

 太陽が心地良い昼下がり。薔薇の見事な中庭で日課のティータイムを楽しんでいたオフィーリアの耳に、家令(かれい)の足音とは別の初めて聞く足音が届いた。


「セルシアス侯爵様が、お嬢様にお会いしたいと」

「初めまして、私はアーヴィン・セルシアス。先触れもなしに訪問した無礼をお許しいただきたい」


 今まで聞いたことのない響きを持ったバリトンは、オフィーリアの鼓膜を甘く震わせた。

 椅子から立ち上がり、声の聞こえてきた方向を見つめる。


「貴方が、わたくしの王子様でいらっしゃいますか?」


 思わず口にしてしまったオフィーリアは、ポンと上気した顔を扇で慌てて隠し、姿勢を正した。


「…………王子、という(がら)ではない。貴女は目が見えないのだと聞いた。だから私がどれほど王子という単語から程遠いか分からないのだろう」

「まぁ、そんなこと」


 顔の熱はもう引いている。オフィーリアは扇をしまい、何度も練習してきた挨拶をした。


「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。オフィーリア・ベレスフォードと申します」


 手の角度も、首の角度も完璧なはずのカーテシーをしながら、目の前のアーヴィンがどんな表情をしているのかと緊張する。少しの間の後、アーヴィンが(ひざまず)くのが分かった。


「お手に触れることをお許しいただけるだろうか?」

「えぇ、もちろんです」


 オフィーリアの右手が、ごつごつとした大きな手によって軽く持ち上げられる。手袋越しに伝わる体温に、また顔に熱が集まるのを感じていた。優しく包まれた手に神経が集中しているみたいで、甲にそっと口づけられるのが分かる。


(やっぱり、わたくしの王子様なんだわ)


 オフィーリアは、いつか母と交わした会話を思い出していた。


『いつか貴女を、王子様が迎えに来てくれるわ。きっとその時、わたくしはそばにはいられないけれど、貴女は王子様と幸せになるのよ』

『おかあさま、いないのですか? どうして?』

『わたくしの命は期限付きなの。本当は二人で行うことを、一人きりで行っているから』

『オフィーリアがお手伝いします!』

『ふふ、ありがとう。その気持ちだけ受け取っておくわ』


 オフィーリアは大きな不安に包まれた。母に最後に会ったのはいつだったか。はしたないと思いながらもアーヴィンの手に(すが)り、母の安否を問うた。


「この屋敷に、誰かが訪ねてきたのは初めてなのです……もしかして、母になにかあったのでは……?」

「……君の、母というのは、リュミエール・ベレスフォードで相違ないな」

「えぇ、そうです」

「すまない。あの方は、お隠れになられた」


 母が、死んだ。その言葉を理解するより早く、オフィーリアの意識は闇に飲まれた。



◆◆◆



 女王が死んだ。その(しら)せを受けた時、アーヴィンは屋敷の庭でいつものように鍛錬をしていた。女王が即位するまで続いていた諸外国との戦争。そこで鍛え上げられた肉体は、兵士としての役目を一旦終えた今でも全く(おとろ)えていなかった。


『お前は、戦争を終結させてしまうわたくしを恨むかしら』


 そう言葉を掛けられた時のことを思い出す。常に顔の周囲をヴェールで隠し、誰も素顔を見たことがない女王。当時まだ第一王女であった彼女は、ヴェールに隠された向こう側でどんな表情をしていたのだろう。年若い侯爵子息のアーヴィンに、何を思って声を掛けたのだろう。


 確かに、アーヴィンは戦いが好きだった。剣と剣を交え、命を燃え上がらせている瞬間が、何よりもアーヴィンを輝かせた。

 最前線に立って、自分の流した血ではなく相手から噴き出した鮮血に染まるアーヴィンは、いつしか鮮血の獅子の名で呼ばれていた。戦うこと以外に取り柄も何もないと思ってはいたが、それでも戦争が続くより祖国に平和が(もたら)された方がいいということくらい理解していた。


『そこまでの(いくさ)馬鹿(ばか)ではありません。殿下が平和を(もたら)すというのなら、俺はその平和を護るために生きるまで』


 元々あまり深く物事を考える(たち)ではないアーヴィンの、自然と溢れ出た返事だった。父を探して一人歩いていた王城の片隅で偶然起きた、他に誰も聞くことのない私的な会話。女王が、戦争に明け暮れる当時の王、彼女の父親を玉座から引き摺り下ろそうとしていることを知ったのはその時だった。


『お前とわたくしは、きっとよく似ている。いずれ、わたくしの部屋の白薔薇をお前に与えよう。血に染まった赤薔薇を剪定し、国が落ち着いた時に』


 既に戦争によって直系の王子たちは全員が死亡しており、何もせずとも王位は彼女のものになるはずだった。けれど、彼女は黙って時が経つのを待つような女ではなかった。

 兵も、民も、限界だったのだろう。彼女は多くの味方を得て父王を討ち果たし、玉座に君臨したのだった。


 彼女が王位に就いてから、十七年が経過していた。しかしそれでも、まだ女王は四十歳にも満たないはずだ。あまりにも早すぎる死に、アーヴィンは報せを持ってきた男に尋ねた。


「誰かの手によるものか?」

「いえ、ここ数ヶ月、体調が思わしくなく医者にかかっていらっしゃったのです。ですが、陛下は精力的に治療をなさろうとせず……」

「そうか……。しかし、そうなると次の王はベルモント侯爵か」


 王位継承権一位のベルモント侯爵は先先代の王の姉の血を引いていた。二位のアーヴィンは妹の血筋であり、そういう意味ではかなり近しい親戚であるといえるだろう。しかし、戦時中から何かと自分の血を流したがらないベルモント侯爵を、どうにも好きになれなかったのである。

 今までは女王が全てを一手に引き受け、そのカリスマ性を持って国を治めてきた。

 それが、崩れる。

 アーヴィンは厄介ごとの気配を感じながら、支度をして王城に向かうのだった。


「来たか、アーヴィン。ベルモントのやつ、今すぐにでも王冠をかぶりそうな勢いだぜ」

「ジョシュ。あれは人を上手く使う才はあるからな、俺は好きではないが、王の器ではあるだろう」

「女王陛下がご自分で矢面に立つお方だったから反発は大きそうだがな」

「その辺りも、あれは上手くやるだろうさ」


 王位継承権を持つ者たちと国の主要な役職に就く者たちが、揃って議会の行われる藍の間に呼ばれていた。ジョシュも継承権を持つが、アーヴィンと同じく戦場に自ら率先して立つタイプの人間であった。円卓を囲んで会議だなんだと盛り上がる他の貴族たちにはあまり馴染(なじ)めず、アーヴィンを待っていたのだろう。


 二人で室内に足を踏み入れれば、(いく)つもの視線が飛んでくる。しかし、普段であれば自信に溢れた表情でこちらを見るベルモントの顔色は良くなかった。


「セルシアス(きょう)、ようやく来たか」

「到着が遅れてすまない。顔色が優れないようだが、何か問題でも起きたのか?」

「問題も問題だ、女王陛下のご遺体に、指輪がないのだ!」

「指輪が?」

「あぁ、死因に不審なところがないか医師たちが確かめたのだが、そこは問題がなかった。元々(わずら)っておられた心の臓の(やまい)が、想定より早いスピードで進行してしまったようだ。感染症の(たぐい)でもないから、葬儀は大々的に()り行える。それはいい、それはいいんだ。問題は、結界を維持するための指輪がどこにもないことなのだ」


 既に女王の遺体が(あらた)められているという発言に、アーヴィンは驚きを隠せなかった。この国を治めるには必須ともいえる王の指輪がなく、動転してしまったのだろうが、ベルモントにしては珍しいミスだった。

 彼が女王の死を知りながら箝口令(かんこうれい)を敷き、内々に話を進めてしまうつもりだったのは明らかだろう。

 ベルモントの動揺を見るに、彼が女王を害したわけではないと分かる。しかし王の指輪が失われたというのはどういうことなのだろうか。城の警備は厳重で、賊に入られたという報告もない。女王の遺体から盗み出した者がいるとも思えなかった。


 民の支持を得るため、そして国を守るため、女王は魔道具である指輪を手にした。どのように手に入れたのか誰も知らないその指輪は、国の周囲をぐるりと覆う結界を生み出した。

 結界によって外部からの干渉を制限できたことは、戦後の復興に大いに影響した。そして、今の平和もその結界に支えられている。


「陛下の葬儀を行ったのち、戴冠式(たいかんしき)を行う予定であったが……女王陛下の戴冠式の時のように、結界を張るところを見せねば民は疑問を抱くであろうな。くそっ、なんとしても王の指輪を見つけ出さねば……!」


 その後、主要な人間が全て集まったところで女王の葬儀の詳細が話し合われ、そしてベルモントが暫定的に王位に就くことも決定した。民の前で大々的に戴冠式を行うのは王の指輪が見つかるか、民の心を掴む何かが他に見つかった時にしようと。

 国のトップが曖昧なままでは問題だろうという声も多かったが、ならば早く指輪を見つけろと、話し合いは幾度となく同じ場所を行ったり来たりしていた。


 アーヴィンとジョシュは早々に部屋を後にした。主人を(うしな)い沈んでいるようにも思える王城の廊下で、窓の外に広がる王都を見下ろす。


「民はまだ、何も気付いていないのだな」

「あぁ、恐らく女王陛下がお隠れになったのは数日は前のことなんだろうが、結界は変わらず役目を果たしている」

「半年に一度程度の祈りでいいという話だったな。期限は短くはないが長くもない」

「俺は兵や使用人たちに話を聞きながら当たってみるよ。お前は陛下の居住エリアから見たらどうだ」

「その辺りはベルモントが既に手を付けていそうだがな」

「あいつが俺たちの隠した物を見つけられた試しがあるか?」

「それもそうだ」


 二人はそれぞれ別れ、目的地へと向かった。王城中層の日当たりの良い区画が女王の居住エリアとなっている。彼女のプライベートを(あば)くようで気乗りはしなかったが、王の指輪が見つからずに困るのはこの国だ。国のために動くアーヴィンを咎めるような人ではない。

 そう言い聞かせ、女王の私室の扉を開いた。


 見るからに高級そうな織物(おりもの)がふんだんにあしらわれ、至る所に金の装飾が施された柱や調度品、それでいて品のある室内には女王の気配がまだ息付いているようだった。アーヴィンは一度深く礼をし、それから足を踏み入れる。


 そこかしこに違和感をおぼえ、やはりこの部屋には女王以外の誰かが既に入っていると確信する。その人物がベルモント本人かは分からないが、無遠慮に室内を探し回る人物でなかったのは幸いだ。アーヴィンはまだ誰も手を付けていなさそうな箇所を探ることにした。


「薔薇……」


 部屋を見回した時、薔薇の彫られたチェストが目に入った。かつての言葉を思い出す。あの時、女王は一体何をアーヴィンに与えようとしていたのだろう。チェストには赤薔薇が彫られていたが、近付いてよくよく見れば、一輪だけ他の薔薇にはない継ぎ目があった。

 アーヴィンはその継ぎ目にそっと指を這わせた。浮き彫りになっている薔薇を摘んで回すように軽く力を込めてみれば、どうやら動きそうだ。壊さないように丁寧にカタカタと揺らすと、ある一点でカチリと(はま)った感触がした。右に左に、慎重に動かしては正解の位置を探る。しばらくその作業に熱中し、ついに赤薔薇がアーヴィンの手のひらに落ちてきた。


「赤薔薇の下に白薔薇、そして鍵、か」


 指輪があるかと思われた隠し場所には、一本の古びた鍵があった。白薔薇の花弁に包まれるように。アーヴィンは鍵を取り出し、逆の手順で再び赤薔薇を嵌め直した。


 手の中に収まる大きさの鍵はシンプルなものだったが、部屋をあらかた探しても鍵穴らしきものは見つからなかった。アーヴィンは鍵を胸ポケットに入れ、女王の私室を後にした。

 鍵を探しているような話は誰の口からも出ていなかった。普通に目に付くような場所には、この鍵を使うような物はないということだ。

 アーヴィンは普段であれば目を向けないような箇所を重点的に見て回った。しかしそれらしき物は見つからず、城内には存在していないのかもしれないと思い始めた時だった。


「鍵が、震えている」


 布越しにも分かるくらい、鍵が振動していた。その震えは城の地下に降りる階段の前で一層強まる。地下には貯蔵庫と、女王のためのワインセラーがあった。アーヴィンは周囲に人がいないのを確認してから階段を降りていった。

 ワインセラーの中には女王と、限られた人間しか入れないとされていたが、鍵が示すのだから仕方ない。ワインセラーの中を歩くと、壁に魔法陣が浮かび上がっていた。鍵に反応しているようであったので、おそらく女王にしかこの魔法陣は視認できなかったのだろう。


「指輪だけでなく、鍵までも魔道具だったとはな」


 鍵を手に持って魔法陣に近づくと、光と共に扉が現れた。鍵穴はピッタリと鍵を飲み込み、重厚な木製の扉が自然と開いていく。扉の向こうは洞窟のようになっていて、かなり薄暗い。夜目が利くとはいえ、流石に暗すぎるとアーヴィンが逡巡すると、早く歩き出せと言わんばかりに鍵が光り出した。

 アーヴィンは鍵を前方に向け、先へ進んだ。かなり入り組んでいるように見える洞窟だったが、鍵は更に道案内を続けるつもりらしい。右へ、左へ、器用に振動しながらアーヴィンを導いた。


 魔法を行使する(すべ)を失った人間が、唯一魔法の一端に触れることのできる魔道具。遺跡から出土したり、海に沈んだ船から回収されたりといった話を伝え聞くことはある。だがいずれも国宝級の代物であり、まさかこうして自分が使うことになるとは思いもよらなかった。


 自発的に魔法を使えずとも、未だ体内に魔力が流れ続けていることはアーヴィンが魔道具を使えていることから窺える。しかし、魔力もいつまで持ち続けられるかは分からない。退化なのか、進化なのか、多くの人間にとって無用である魔力は、いつか人間の中から完全に姿を消すのではないだろうか。


 そんなことを考えながら二十分ほど歩いていると洞窟の出口が見え、アーヴィンの足は自然と早まった。太陽の光が見えてしまえば、暗くて湿っぽい洞窟からは早く出たかった。


「こんなところが……」


 洞窟から出た先は、静かな森だった。人が一人通れるくらいの砂利道を、木々の隙間から差し込む木漏れ日が照らしている。王都の周辺に、こんな美しい森があっただろうか。アーヴィンは周囲を見渡しながら、砂利道を進んでいった。もう、鍵は光を放ってはいなかったし、震えてもいなかった。


 しばらく歩くと森が開け、屋敷が建っているのが見えた。こんな森の中に一軒だけ屋敷があるのは違和感でしかない。アーヴィンが警戒しながら門に近づくと、屋敷の中から家令(かれい)が姿を現した。

 屋敷を囲む塀にも門にも、ツタはおろかコケすら付いていなかった。ずいぶんと丁寧に手入れの施された屋敷だと感心していると、家令が流れるような手つきで門を開ける。


「私はこの屋敷の家令を務めております、ハドリーと申します。貴方様は……鍵の新たな持ち主であられますか。すると、女王陛下は……」

「陛下は、お隠れになった。私はアーヴィン・セルシアス、侯爵の位を賜っている」

「覚悟はしておりました。セルシアス様は、それを伝えにきてくださったのですか? あぁ、大変失礼いたしました、まずは中へどうぞ」


 多少の遊び心がありつつも丁寧に作られた庭を通り、ハドリーの開けた玄関から屋敷の中に入る。王都の貴族の屋敷はほとんど戦争が終わった後に急拵(きゅうごしら)えで建てられたものであったから、天井の高い玄関ホールを見上げてアーヴィンは溜息を吐いた。


「見事な屋敷だな。手入れが行き届いていて……こんな屋敷に住んでみたいものだ」

「恐縮です。使用人たちも喜ぶことでしょう」


 応接間に通され、座り心地のいい椅子に腰掛ける。メイドが運んできた紅茶を前に、アーヴィンはハドリーを見た。


「陛下は、結界を張るための、指輪の形をした魔道具を持っていた。しかし、今その指輪が見つからずに王位継承者たちの間で騒ぎになっているのだ」

「この屋敷の主人は、オフィーリア・ベレスフォード様。お嬢様に、お()いになっていただけますか?」


 目の前の家令は、愚か者ではない。ましてや礼儀知らずでも。そのハドリーがアーヴィンの話をほとんど遮るようにそう言ったのには、おそらく理由があるのだろう。元来、口より先に身体が動くアーヴィンである。すぐに立ち上がり、オフィーリアの元に案内するよう言った。

 

「お嬢様は、目が不自由なのです」

「目が? 見えないということか?」

「はい。ですので、目が合わないとお感じになられても、故意にそうしている訳ではございません」

「分かった」

「それともう一つ」

「まだ何かあるのか」

「お嬢様は、リュミエール様が女王陛下であらせられることをご存知ありません」

「なに?」

「あの方は、この屋敷ではただのリュミエールでいたいのだと仰せでした」

「…………分かった」


 とんだ面倒ごとに巻き込まれた、とアーヴィンは思った。もっと単純な贈り物の類かと思っていたのに、誰も知らない娘に逢うことになるとは。


(それにしても、陛下に子供がいたなんて話は聞いたことがない。そもそも三日と公務を休んだことのない方だった。その状態で子供を産むなど不可能だ)


「彼女は、オフィーリアは陛下の子供なのか?」

「それは私の口から申し上げられることではございません」


 ハドリーはそれきり口を閉ざしたまま、長い廊下を抜けて中庭へとアーヴィンを案内した。中庭も見事なもので、色とりどりの花が咲き乱れ、それでいて乱雑さを感じない。庭師の腕がよほどいいのだろう。


「セルシアス侯爵様が、お嬢様にお会いしたいと」

「初めまして、私はアーヴィン・セルシアス。先触れもなしに訪問した無礼をお許しいただきたい」


 ハドリーとアーヴィンが声を掛けると、パラソルの下に置かれた白いガーデンチェアに座っていた女性がゆっくりと立ち上がり、アーヴィンたちの方を向いた。

 瞬間、アーヴィンは呼吸の仕方を忘れてしまったように固まった。


 絹糸のような柔らかい金の髪は太陽の光に当たってきらめき、グリーンのドレスが彼女の白い肌を際立たせていた。胸元やグローブ、髪飾りやドレスにあしらわれたレースの至る所にパールが散りばめられ、その一粒一粒がオフィーリアを輝かせていた。

 目鼻立ちのはっきりとした顔でありながら、少し垂れた目尻が可愛らしく、しっかりと交わらない青い瞳が庇護欲を掻き立てる。


(俺は、いったいどうしたと言うんだ)


 戦場でも感じたことのない高揚感だった。鼓動が早まり、逃げ出してしまいたくなる。けれど、アーヴィンの視線はオフィーリアに釘付けだったし、身体はむしろ彼女に近づこうと一歩踏み出さんばかりであった。


「貴方が、わたくしの王子様でいらっしゃいますか?」


 オフィーリアの口から放たれた想定外の言葉に、アーヴィンは先ほどまでとは別の意味で固まった。若い頃に無茶をした結果、アーヴィンの全身には傷跡が残っている。顔面にももちろん数カ所の傷が残っていて、そのお陰で侯爵という身分でありながらもアーヴィンに言い寄る女は誰一人としていなかった。

 戦争が終わった後も、様々な厄介ごとを裏で始末する役目を自ら請け負ったこともあり、未だに通り名は変わらず、鮮血の獅子から今は鮮血侯爵である。香水の匂いを振りまく女たちが苦手なアーヴィンにとっては、むしろありがたいことであったが。


「…………王子、という(がら)ではない。貴女は目が見えないのだと聞いた。だから私がどれほど王子という単語から程遠いか分からないのだろう」

「まぁ、そんなこと」


 静かに首を振ったオフィーリアは、ハッとしたように姿勢を正して優雅にカーテシーをした。


「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。オフィーリア・ベレスフォードと申します」


 今まで見たどの令嬢よりも美しい挨拶に、アーヴィンの身体はほとんど勝手に動いていた。彼女の前までゆっくりと歩み寄り、(ひざまず)く。


「お手に触れることをお許しいただけるだろうか?」

「えぇ、もちろんです」


 オフィーリアの小さな手に自分の無骨な手が触れてしまったら、それだけで壊れてしまうのではないか。出来るだけ慎重に、優しく持ち上げる。彼女の体温が手袋越しに感じられて、アーヴィンの熱も上がった気がした。

 その手にずっと触れていたいと思ったが、変に思われるわけにはいかない。アーヴィンは手の甲に一つ口づけを落とした。


 手を離すと、それだけで名残惜しくなる。もっと近づきたい。


(さっきから、おかしい)


 初めての感情が次から次へとアーヴィンを翻弄(ほんろう)する。勝てるか分からないような格上の相手にさえ、ここまで心を乱されたことなどなかった。

 オフィーリアのどんな些細(ささい)な変化も見過ごしたくないと思っていたアーヴィンは、すぐに気づいた。オフィーリアの思考が一瞬自分以外の何かに移り、そして嫌なことに思い至ってしまったような表情を浮かべたことを。


「この屋敷に、誰かが訪ねてきたのは初めてなのです……もしかして、母になにかあったのでは……?」


 彼女の手が、アーヴィンの方へと伸ばされる。オフィーリアが数歩踏み出す前に、アーヴィンはその手を両手で受け止めた。


「……君の、母というのは、リュミエール・ベレスフォードで相違ないな」

「えぇ、そうです」

「すまない。あの方は、お隠れになられた」


 アーヴィンがそう告げると、オフィーリアの顔は見る間に血の気を失くし、そして身体から力が抜けた。きっと気を失ってしまうだろうと予想していたアーヴィンは彼女の身体をしっかりと支え、足を掬って抱き上げた。

 嫁入り前の女性にする行為ではないと思ったが、ハドリーにもメイドにも任せてはおけなかった。


「ハドリー、彼女の気の休まる部屋へ案内してくれ。私が寝室へ足を踏み入れてもいいのなら、それが一番だとは思うが」

「お嬢様がお気になさるでしょう、一番上等な客室へお願いいたします」

「分かった」


 案内された客室のベッドへオフィーリアを寝かせる。室内にあった椅子をベッドの横へ移動し、そこに腰掛けた。オフィーリアの額に浮かぶ汗を、メイドが優しく拭っている。閉じられた瞳から伝う涙も。

 嫌な夢を見ているのか眉を寄せ、不安げに宙を彷徨(さまよ)ったオフィーリアの手を、咄嗟(とっさ)に取る。力をなるべく込めないようにそっと握ってやると、乱れていた呼吸が安心したように治まった。

 オフィーリアの方から強く握って離さなくなってしまったその手を、どうしたらいいのか困ってアーヴィンはメイドたちを見た。


「そのまま、握っていてさしあげてください」


 囁くように言われた言葉に、アーヴィンは頷くことしかできなかった。

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