Chapter96.the nice boat
タイトル【ナイス・ボート】
ところで、舞台を一旦学術旅団に移そう。戦ってばかりでは神経がすり減り、視野が狭くなってしまうもの。
バイオテックはハリソンで発見された「案件」の実験に追われているし、戦闘部隊は言うまでもない。
Soyuz部隊が新たな地につけば其処で調査するのが旅団の定め。次なる放浪地は例の水上市場に定められた。
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ゲンツー市街は占領したとは言え依然情勢が安定しないことはSoyuzが赴く地では良くあること。
問題は、スタッフが長時間滞在すると確実に健康被害が出る段階にまで大気が汚染されていることだった。
よってシルベー最初の調査はゲンツーの街ではなく湿原に浮かぶ市場から始められることになったのである。
商魂たくましい将軍カナリスがPRに使えると思ったのか一筆書いたことも後を押した。
ハリソンのプレハブ小屋には多くの人員がジャルニエ城やシルベーなどで回収された書物の解析で忙しく、来ることができたのはチームリーダーの海原とフィールドワークチーフことガリーの二人だけ。
それと潜入作戦の際に使用したモーターボートを動かすコノヴァレンコくらいか。
「——早くバイオテックの人間を送り込んでくれ、鉄鋼の町にしては度が過ぎている。どうみたって調査が必要だろう」
ヘリポートの併設の船着き場に降り立つなり、海原はこう言った。
彼が振り向くと摩天楼の如くレンガの煙突が立ち並び、現代の工業地帯めいて煙を濛々と出しているゲンツーの姿があった。産業革命後のロンドンはまさにこう言った光景なのだろう。
そんな空気に染まったのか、チーフの顔も晴れない。
「…地元はいつもこうだ。前にも言っただろう、こんな陽気じゃ白い布が染まるって」
仮にも征服された地に足を踏み入れる。そんな最悪な形で帰郷することになったのである。
離れていても大気はよどみ、空は鉛色の曇天。幸先の良いスタートは切れそうにはないが、モーターボート手であるコノヴァレンコだけが普段通りであるのが救いだろうか。
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「畜生、どこまで行っても日影がありゃしない。煮えちまう」
出発早々コノヴァレンコが口にした言葉といえばこれ以外にない。
風景こそ夏のロシアめいた湿原なのだが、気温が30度を超えている。
いくら極寒に慣れている人間でも真逆の暑さには強くない。北海道の人間が東京の暑さに耐えられるわけがなかった。
チーフは気を紛らわそうと、船べりで頬杖を付いて湿原を見つめていた。
普段着用している深紅の鎧ではなく、ハリソン調査時に購入した私服を着ていることもありはたから見ると軍人とは思えない。
簡素なボートだとエンジンを直接操作しなければならず、必然的に日光に晒される。中尉の頭長温度を上げるのには十分すぎた。
日陰でいても茹だるような暑さに海原の額にもじんわりと汗がにじむほどで、時折首にかけたタオルで拭っていると、肘に何かが触れた。
「クーラーが欲しくなるな、日影でも堪えるぞ…ちょっと、なんだこれ!」
そこにあったのは釣り竿だった。
作戦に使っていたモーターボートにこんなもの積載されていないはず。
まぎれもなくコノヴァレンコの私物である。
一般的な釣り具のほか、フライフィッシングに使うものまで持ち込んでいるあたり気合が入っている。
生き餌を使うものでは出入りに引っかかるものの、物体である疑似餌だからこそ通り抜けてきたのだろう。
「ああそれか。ちょっと水辺に行くってんで、暇つぶしのために持ってきた。全部分解されてたがな。まぁいいさ、——アテなんてないが何かしらがつれりゃいい。にしてもこんだけ澱んでりゃいるだろ、なんかが。」
確かに彼には我々を送り届けた後、待機するよう指示を受けているらしい。こんな炎天下に何時間と待つのは訓練を受けていようが暇極まりない。
せっかく水辺に来たのだから、といった魂胆なのだろうか。
「…あんた軍人じゃなくて自由人じゃないのか?」
あまりの力の入れように海原は困惑するばかり。
出発からはや数時間、ようやく水上市場の全貌が見えてきた。
西欧の鉄鋼街から湿原を進むとベトナム調の市場がぷかりと島のように浮かんでいる。
頭に笠をかぶった船頭とすれ違う機会も増えてきたこともあり、異国情緒があるというもの。
流石に突然写真を撮るわけにもいかないため、まず海原はA3ノートを取り出した。
そこで観察眼を全開にし、すれ違う僅かな時間で詳細記録を取っていたのである。
【市場ヴァリテオン】
小さなイカダの上に掲げられた帝国文字、それが此処の名だ。
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航空偵察の報告通り、この市場には必要最低限の陸地しかない。何よりも流動を最優先にして作られているということが良く分かる。
あたりには人通りの代わりに丸太船のような簡素な船舶がゆったりと行きかい、船頭は皆ベトナムで見られるようなノンラーを被っていた。
日光を遮るため、湿原に自生しているヨシに類似した植物の茎を加工して作られたものだと考えて良いだろう。
今回調査するのは食文化。食い物の歴史はその国の歴史、皿上の料理一つを紐解くだけでもありとあらゆることがわかる。
コノヴァレンコはベトコンみたいだと言って突っぱねたが、海原たちはとりあえず笠を購入して調査を開始した。
ここではカナリスとの提携で現地通貨ゴールドと円が共通化されている。
つまり1円が1ゴールドに相当するのだが、我々にはいささか物価がやや高く思えてならない。
だがSoyuzの出す潤沢な活動資金がかき消してくれる。
やはりここの責任者と話をつけておくと調査は楽だ。
ハリソンの時とは違い他者から注がれる視線がいくらかマシに思える。自分らがよそ者として入る分、注目からは避けられないがコレくらいどうってことはない。
その代わり、チーフの言いようのない暗さが気がかりだ。
探査が終わるまで顔が晴れることはないだろう。あとで山ほどチョコを渡しておこうか。
と海原が考えていると
「学術旅団の皆様で間違いありませんか?」
向こう側からボートに乗った青年がこちらにむけて声をかけてきた。
差し詰め案内人と言ったところだろう。
あの将軍、いかにもハプスブルク家に居そうな顔つきの割に打てる手を全て打ってある辺り心底頭の回転が速い男だと気が付かされる。
「ええ、そうです。学術旅団のマスターをしてます海原です。耳慣れない名前をしておりますがどうか贔屓に。」
「…現地調査長のガリーシアです」
こうして私たちの調査が始められた。
「俺ですか、タルベっていいます。ただ奴隷ってやつです。…これ以上どう話せばいいんだ。そんなもんか。んじゃあ飯屋とか紹介しますんで。」
海原はタルベと名乗る青年の一言に対し思わず耳を疑った。
過去の歴史では奴隷やそれに対応する人間はローマなどを除き酷い扱いを受けているはずである。当然名乗りで上げるわけがない。ハリソンにも少数ながら居たのだが、いまだに慣れる気がしない。
チーフは興味がないあたり、この世界では普遍的なモノなのだろう。
そんなことは兎も角。
船頭をコノヴァレンコからオールを持った彼に交代し市場を進む。最初に労働者向けと思われる大衆食堂に案内してくれるそうなので、暇つぶしにインタビューを試みることにした。
「不躾ですがどこで働いているんです?」
「それを聞いてくるなんてお目が高い、おたくらがしてる笠、あるだろう。俺はそれを編んでる。なかなかいいモンだろう、俺が作ったものは全部そうだ。だから雇い主に大切にしてもらってる、そもそも俺らを大切にしないとこなんて全員逃げ出されてるさ。」
まるで雇い主とアルバイトのように話してくれた。
それ以上に日本の奴らは彼の爪垢を煎じて飲んでほしいものである。私情を抜きにして貴重な証言であるため、海原はノートに記していく。
「——実に興味深い。おっと失礼。」
彼は関心事が出てきた際、つい夢中になって口走ってしまった。学者の性というべきか。
「いいや、俺だって嫌で編み物してるわけじゃあない。ただ胸張って言えることがそれくらいなもんでね。物心ついた時からやってるからな、そういえばこの仕事は——」
しかしタルベは話せたこと自体がうれしいらしく、次第に話のつぼみが開いてきた。
ボートは進む。
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例の場所に到着すると船を止めた。
やはりと言うべきかイカダめいてフロートが括り付けられ、その上に建築物が作られていた。
店の外からは香ばしい空気が漏れ出ている辺り、火を使っているのには違いない。
魔法が存在するからこそできる芸当である。
目的地に着いた以上、この店に入らない訳にはいかない。中尉にここに立ち寄る旨を伝えるとこう返ってきた。
「じゃあ俺はここいらで仕事に励んでるからな。——此処じゃあ流石にルアーは投げれやしねぇな、まぁそのためにこいつがあるわけだ。全く最高だ。」
果たしてこんなところで釣れるのかという疑問はさておき、海原はタルベに連れられその門をくぐる。どの国でもそうだが店の入り口は外の世界を隔てており、一足踏み込めばそこは歴史が広がっている。
此処には外は西欧、入れば東洋の神秘がそこにあった。




