逆襲
会場で、まっすぐにスマートデバイスを掲げ、全世界にその姿を晒した少女がいた。
CJ・フレイジャーである。
この小さな少女は、チケットと移動でほとんど底をついていた小遣いのほぼ全て、わずか十ドルを投資した。
CJはぶるぶると大きく震えている。しばらくの間があった。
そしてその直後に一万ドルもの大金が突如投資され、それを境に、雪崩を打つような出資の波が沸き起こった。
目標額に近づいていくほどに、紙幣が降り注ぐようなエフェクトが舞い始める。
会場では少しずつどよめきが大きくなっていく。やがてそれは波を打ち、生き物のように蠕動を始め、少しずつ大きくうねっていき、最後には歓声のように、しかし控えめに低く、響き渡った。
おおおおおお、という、どこか押し殺したような、地響きのような声が上がっていた。
その最中、ローズは、目を閉じていた。
その表情から怯えは少しずつ消えていく。
そしてその両手は、雨を受けるように広げられる。
降り注いでくる紙幣のエフェクトが画面をいっぱいに満たしていく。
ローズは、降り注ぐ紙幣の雨を受けて立っていた。
世界中から寄せられるクラウドファンディングの波が、秒単位で加速していく。
そして数値が、あっという間に目標に達した。MCが興奮気味にマイクに向かって叫ぶ。
「YO、YO! これだ、これだぜ! 見せてやろうぜ! なあ! カウンター・カルチャーの底力をなめてると、こうなるってことをよ――食らわせてやれ、見せつけてやれ――『プラチナ・ガール』!」
その瞬間、照明の全てが一気に回復する。
全ての照明が、最大出力でステージを照らした。
暗闇に慣れていた人々の目を、ローズの透き通った白い肌が撃った。
ローズはゆっくりと、目を開く。
そのまま――ローズは笑った。
そう、愉悦に満ちた、大きな、歪んだ、あの笑い顔で。
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スタンは怒りに狂っていた。
当局側から一方的に通告された「マッドアイランズへの上陸作戦の展開」によって、アンドロイドとの甘いひと時を邪魔されたからである。
「上陸は許可しない! 決定は覆らんぞ! 私の楽しみを絶対に邪魔するなと――」
しかし状況は、彼個人の権限で抑え込めるレベルをとうに超えていた。
連合政府は「デバイス」の起動について最大限の警戒を取るため、マッドアイランズで音楽ライブを行っている身元不明のアンドロイドの確保に向けて正式な意思決定を下した。
じきに待機中の部隊がステージを包囲する。
取り乱し、はげかかった頭を何度もかきむしりながら声を荒げるスタンを背にして、四十二番はステージを見つめていた。
ローズが、また歌い始めたようだ。
会場は一度静まり返ったが、また盛り上がり始めている。
うねりを取り戻しつつある観客席を見つめて、四十二番はその視界に違和感を覚えた。
ちら、ちら、と何かが揺れている。
四十二番は、打たれたように顔を上げた。
ステージよりももっと上――屋根の部分に、何かがうごめいている。
そして、見えた。
サクラだ。
サクラが、真っ直ぐに立っている。
身じろぎもせず、揺らめきもせず、ただ真っ直ぐに、四十二番を見つめている。
少しだけ吹く風に髪を揺らしながら、真剣な面持ちで、こちらを見ていた。
そして、その脇にもうひとりの人影が立った。
シャムロックだ。
シャムロックはいたずらっぽく笑った。何かを言う。
(トゥルーズ!)
四十二番はその目に涙をいっぱいにためて、それを見ていた。
窓に近づこうとした四十二番を、シャムロックは制するような動きを見せた。
そして、その手を下のほうへ何度か動かした。
(ふ、せ、て)
そう見えた。
その手には、短剣が握られている。
四十二番が脇に避け、小さく縮こまったのと、そのガラスが派手な音を立てて粉々になったのはほとんど同時だった。
スタンがこの衝撃波の余波を受け、部屋の奥へ吹き飛ばされていく。
シャムロックが短剣から衝撃波を飛ばしたのは間違いなかった。
四十二番はしばらく縮こまっていたが、恐る恐る窓の外を覗き込んだ。シャムロックが手を振っている。
その手には短剣ではなく、見覚えのあるハンドルがふたつ、握られている。
それはベルファストで戦略拠点侵入の際に使用した、ぶらさがるためのハンドルだった。
シャムロックはそのうちひとつを置き、数歩下がった。助走をつけて、思い切りそれを投擲する。
ハンドルは、傍目には見えづらいほど細く、しかし丈夫なワイヤーに乗って滑空した。あっという間に足元までやってきたそれを、四十二番はなんとかつかむことに成功した。
持ち上げてからまた向こうを見ると、シャムロックがもうひとつのハンドルを持ち上げていた。そして、もう片方の手をぐるぐると回している。
四十二番にはこの動作の意味が分からなかった――シャムロックはやがてその動作をやめ、「こっちへ来い」という動作へ切り替えた。
「おい――何をやってる」
四十二番は背後から声をかけられ、びくりとした。
スタンだった。頭から血を流しており、ふらふらと歩み寄ってくる。
「なぜ窓が壊されている? リスクに備えて特殊な素材で作ったものだ。どうやって破壊した」
スタンは低く、うなるような声で四十二番に問いかけた。四十二番は振り返る。
「そして何をしようとしている――シャムロック?」
スタンはスマートデバイスを手にした。それを見せ付けるように掲げる。
「お前に自由があるか? 当然、ない――だのにどこへ行こうというんだ? この私にすら与えられないものが、お前のような作り物に与えられると思うか?」
スタンはスマートデバイスにもう片方の手で触れた。
そこには四十二番のアバターが表示されている。「行動制限」「行動指定」「無力化」――そのようないくつものメニューが表示されている。そのうちスタンは「行動制限」を選択した。四十二番の動きを停止させるためのものだ。アンドロイドの首元に埋め込まれたパルス・コンバーターがそれを実現させるため、人工大脳に対しプロセスの停止を命じる――はずであった。
もったいぶってスタンが画面をタップした。しかし、何も起きなかった。
むしろ四十二番は、かがんでいた姿勢からゆっくりと立ち上がった。
スタンは訝しげに片眉を上げると、もう一度「行動制限」のボタンをタップした。
しかし、四十二番のそわそわとした細かい動きが止まることはなかった。本来であれば、行動制限を受けたアンドロイドはそのままの姿勢で固まるか、その場に倒れて動かなくなるはずだ。
それを見たスタンの顔に明らかな動揺が生まれた。スマートデバイスを覗き込み、何度もボタンをタップする。
「おじさん!」
四十二番がそう呼びかけた。おじさん? スタンは顔を上げた。四十二番は申し訳なさそうに手を後ろに組んでそわそわと揺れながら、そしてスタンを直視せず伏目がちに立っている。
「ええと、その――短い間だったけど、お世話になりました」
そして小さなお辞儀をした。
スタンはスマートデバイスのあらゆるボタンを押したが、何ひとつとして上手く機能しなかった。発信自体は問題ない。ラグでもない――だとすれば原因はひとつ。
「貴様――」
命令を受信している側に、それを受ける環境が存在しない。
いつの間に破壊したのか? スタンは思いを巡らせる。しかし、あれはアンドロイドの人工神経組織内側の奥深くに埋め込まれており、おいそれと取り出せるものではない。
だとしたら――と考えて、スタンは硬直した。
「あ、ごめんなさい――気付きましたか?」
本当に申し訳なさそうに、四十二番が答えた。
「私、アンドロイドじゃなかったみたいなんです」
スタンは動けなかった。目の前の少女が、アンドロイドではない。ではついさっきまでの従順な態度はどこだ? 熱い抱擁と接吻は何だったのだ?
「あの、騙すつもりではなかったんですけど、ええと、いや、でも騙すつもりだったかもしれません、ごめんなさい」
また四十二番が頭を下げた。そして、意を決したように言った。
「でもおじさん、あの、これだけは言わせてください――すごく気持ち悪かったです」
ためらいながら四十二番は言った。
「自分ではない誰かの名前をつけられたり、ヒゲもそらないでキスされたり、モノやお金で満足させようとしたり――すごく、気持ち悪かったです」
スタンは動けないままでいた。口をあんぐりと開け、だらりと両手を下げていた。それが、四十二番の見たスタンの最後の姿だった。
四十二番はもう一度深々と礼をして、そのまま振り返り、駆け出し、窓の外へ飛び出していった。
目には見えない、極細のワイヤーが彼女を支え、まっすぐに向こう側へ滑空させていく――。
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四十二番が飛び出していった部屋で、スタンは束の間、呆けていた。
何が起こっている?
あの子がアンドロイドではなかった?
部屋がめちゃめちゃだ、誰の責任だ?
誰かを呼ばねばならない。
大金をはたいて手に入れたあのアンドロイドが逃げ出してしまった。
しかしそうして思いを巡らせる時間も、彼には長く与えられなかった。
四十二番の滑り落ちるエネルギーを利用し、ワイヤーを滑りあがって来たものがいた。
VIPルームに、鮮やかな緑のドレスをまとった少女が飛び込む。
シャムロックは水たまりを飛び越えるような軽々とした動作で、スタンの前に躍り出た。
「やっぱり、口で説明するよりやってみたほうが早いよね――あ、こんにちは」
スタンは腰を抜かして床にはいつくばっていた。
何かを言おうとし、何度か口を開くが、何も言えない。
シャムロックはいたずらっぽく、人差し指を自分の唇に当てた。
「ちょっと静かにしててね。君はこれから最後まで、一言もしゃべっちゃだめ。いい?」
それは問いかけや提案ではない。命令であった。スタンはガクガクと、何度もうなずく。
「よろしい。じゃ、はじめるね」
冷たい、機械のように冷たい声だった。スタンの全身が、冷や水を浴びせられたように縮み上がるような迫力を持った声だった。
シャムロックは笑っている――とても、楽しそうに。