祝福
ライブが始まって直後から、CJには記憶がない。
ローズが出てきて、すぐに曲が始まって、後ろから思いっきり押されて――
(あ、転ぶ)
そう妙に冷静に思っていて、そこから記憶がないのだ。
目を覚ましたのは、大きなベッドの上だった。真新しいシーツの硬い感触が、CJを少しずつ現実へ引き戻していく。
(ここ、どこだろう――)
見回すと、かなり広い部屋であることが分かった。
向こう側に大きな絵が飾られていて、テーブルとイスが一式置いてある。
複雑な模様の絨毯が敷かれていて、窓の周りには控えめだが細密な装飾が施されている。
その向こうに、見たこともないような景色が広がっていた。
これまで、ゴールドコーストを高いところから見たことなんて一度もなかった。
そこにあったのは、自分がこれまで暮らしてきた街の全景だった。
思わずCJはベッドから抜け出して、窓に駆け寄った。
(すごい、きれい――!)
とても高い場所からの景色だった。どの建物も見下ろせる最高の場所だった。埋め立てによって描かれた幾何学的な模様が、建物の明かりに沿って細かく描き出されていた。
街の明かりはとても多様な色を見せてくれた。大きな光、小さな光、動いている光、動かない光。あそこが私の家、あそこがビリーの家、あそこはお父さんの家、学校はあそこで――と、CJはその光景に夢中になった。
しばらく景色を眺めてから、CJは我に返った。
(ここ、どこだろう?)
改めて部屋を振り返る。ゴールドコーストで最も大きな建物、つまりここはセント・ヴィータス・タワーだ。最上部の数フロアは高級ホテルになっていると聞いたことがある。
(なんて私がそんなところにいるんだろう――もしかして、夢かな)
そう思ってCJは、部屋を出てみることにした。
CJはテーブルの前を横切って、ドアを恐る恐る開けてみた。ホテルの一室に廊下があるのを、CJは初めて見た。
廊下は暗いが、正面の部屋にこちらの明かりが差し込んで、少しだけ様子がうかがい知れた。
(これ!)
CJはほとんど反射的にその部屋に飛び込んだ。手探りで明かりのスイッチを付けると、そこに極彩色の世界が広がった。
CJは息を呑んで立ち尽くした。
さっきの部屋に比べればそこまで広いわけではない部屋だったが、そこに詰め込めるだけの衣装が詰め込まれていたのだ。
CJが憧れていた、しかし一度も手が届かなかったものが視界一面に吊り下げられ、重ねられ、箱に詰められ、はみ出している。
CJは思わず、すぐ近くのドレスに手を伸ばした。これまで触れたことのないような滑らかな手触りだった。縫い目がほとんど見えず、レースのひとつひとつに長い時間と経験が込められているのが分かった。
間違いなく最高の品だった。
(すごい――すごい!)
自分が夢の中の世界にいることは間違いなさそうだった。
CJはドレスやレオタードや制服やTシャツやブーツやブレスレットやネックレスが溢れるその部屋の中を夢中で検分し、それらを手に取った。
CJは学校では目立たないように気を遣っていた。変に目立つとミンディとイザベラや、その取り巻きたちに何を言われるか分かったものではなかった。ビリーから教えてもらったネイルアートをこっそり施して登校したときも、取り巻きの一人がそれを目ざとく見つけたのだ。
「CJのことをからかうのをやめなさい」
先生はそう言ったが、それにミンディはこう返した。
「でもミンディは原住民でしょ? 原住民はネイルアートをするの?」
意地悪な笑い声が続いた。先生は躍起になっていた。
「アボリジニにも同じように、生きる権利があるのよ、ミンディ」
その時クラスに沸き起こった笑い声を、CJは忘れることが出来ない。あんなに自分の出自を惨めだと思ったことはなかった。自分の浅黒い肌も、少し低い声も、どれも憎たらしくて仕方なかった。
そんなことを思い出していると、CJは途端に目の前の衣装たちが自分には不釣合いなものに見えてきて、むなしい気持ちが沸き起こってきた。こんなの、自分が来たって似合わないに決まっている。
CJは鼻の奥がツンとしてくるのを感じていた。ダメだ、泣いちゃう。
でももういいや、夢の中だし。なんで夢の中でもこんな嫌なこと考えちゃうんだろう? 私ってやっぱり生まれてこないほうが良かったのかな。
CJの後ろで、キイ、とドアが開く音がした
。
「チャオ、リトル・ガール。そんなに小さくなってどうしたのかしら」
CJは驚いて振り返って、そしてそれよりももっと驚いた。
(サクラ――?)
CJが憧れていたあのアーティストにそっくりな女の子が立っていた。どのVTRでも見たことがない、シャープなシルエットのスーツだった。髪を下ろしていて、どことなくオフのようなリラックスした印象があった。
(そっか、夢だったんだ)
CJは思い直した。そう思うと心が軽くなって、何でも話せるような気がした。
「あの、サクラ、あの、私」
でもやっぱり、思ったより言葉は出てこなかった。リアルな夢だった。サクラがドアの枠にもたれさせていた体を起こして、座り込んでいるCJのところまでゆっくりと近づいてきた。
「私のことを知ってくれていたのね。嬉しいわ――どうして泣いているの?」
サクラがCJの頬に優しく触れた。サクラの指は温かくも冷たくもない、不思議な温度だった。CJは触れられて初めて、自分が泣いていることに気付いた。
「あの、サクラ、私ね」
CJはなんとか話し始めることが出来た。
「お父さんとお母さんが喧嘩していなくなって、それから何がいけなかったのかずっと考えてた。私がちゃんと良い子にしていなかったからいけなかったんだって。お母さんは自分の生まれを誇れって言ってた、でもお父さんはそれが怖くなってお母さんにいつも文句を言ってた。お母さんは隣のおじさんにいつも怒鳴られてて、おじさんは夜中にいつも私の部屋に入ってきた――私、生まれてきて良かったの? サクラ、教えて。どうして私はこんなに苦しいの?」
一息に言い切ってから、CJはサクラを見上げた。
サクラはじっと、CJの目を見返した。柔らかく、優しく、何もかも受け入れるような目だった。
少しだけサクラは笑って、CJの手をとった。導くようにCJを立たせると、部屋の奥へと歩き出した。
「そうね、私はあまり悩んでいる誰かの相談に乗るのはうまくなかったわ。あの時も、あの子はきっと、私の思うよりもっと苦しんでいたはずだけど――何も出来なかった」
そしてサクラは、部屋の奥に下げられていた衣装を手に取り、握っていたCJの手にそれを渡した。
「でももし貴方にそれが分かるなら、聞いて欲しいの」
サクラは真剣な表情でCJの目を見つめた。
「貴方はこの世に生まれてくるべきで、それだけでたくさんの人を幸せにしたわ。このドレスを着たら、この廊下から外に出て向かいの部屋へおいでなさい――涙なんて似合わないわよ」
サクラは片目を閉じた。ゆっくりとしたウインクだった。長いまつげが揺れるのがスローモーションのように見えた。サクラは身を翻して、部屋を出て行ってしまった。
CJは、その手に残されたドレスを広げた。
長いドレスだった。エスニックなドットペインティングが施されている特殊なデザインだった。赤茶けた色彩は、それを握っている自分の手と確かに、よく合っているような気がした。
(夢だし、なんでもいっか)
そんな軽い気持ちだった。泣いていたのもなんだか昔のことのような気がして、CJは着ているものを脱ぎ捨ててそのドレスに袖を通した。
しっとりと体になじむ不思議な感覚があった。まるで自分のために作られたようだ。くるりと回ってみると、重い裾が静かに宙に舞った。装飾はいずれも、どれもCJにとって懐かしく感じられた。
裾を引きずりながらクローゼットを出て、廊下から外を目指した。これまで味わったことのない上気した感覚がCJを包み込んでいた。
体は軽いが、一歩一歩に何か自分だけではない重みが乗っているような気がした。ドレスが醸すしっかりとした質感が、彼女の動きを導いている。その厚手の生地は、CJの動きを規定している。
廊下の突き当たりのドアを開けて、より大きな廊下が現れた。そしてその正面に、これまでで最も大きな扉があった。
ドアの向こうで、ざわざわとした気配が聞こえる。笑い声や楽器の音が、遮音材を介してわずかに漏れてくる。
CJは躊躇した。こんな格好、笑われやしないだろうか。すぐに夢は覚めてしまうんじゃないだろうか――。
CJは祈るように、膝を折った。どうか、この夢がいつまでも覚めませんように。あんな惨めな現実に帰りませんように。
そんな折に、ひとりでにドアが開いた。CJはドアにまだ触れていなかったのに。
「あら、そんなところに立って何かしら――」
CJはそこに立っていた少女を見上げた。
「貴方待ちになってるわ。あんまり時間がないんだから早くして頂戴」
ぶっきらぼうに手を引かれたCJは、夢の中とはいえその状況をすぐには飲み込めなかった。
口をあけてその少女を見上げる。
(ローズ――)
少女が最も憧れたディーヴァがそこにはいた。
「貴方、あの襲撃の一番最初にやられたわね。ということは、ライブを全然見られなかったってことでしょう? それは不憫だからって、サクラがここまで連れてきて、引き払うまでの五時間の間は貴方のためにパーティにすることにしたの――あの子も酔狂よね」
CJはローズの言う言葉のほとんどを理解できなかった。ひとつ分かったのは、彼女たちが自分のためにパーティを開いてくれるということだった。
(夢とはいえ――最高だ)
CJは立ち上がった。自分よりもローズが小さいのが意外だった。
部屋の中にはジプシー・バンドと踊る女の子がたくさんと、肉料理を中心としたビュッフェ、チョコケーキやティラミス、クリームブリュレ、レースの飾りつけ、シャンパンタワー、剣を飲んでいる男、道化師、他にもたくさんの人で満たされていた。
「レイディース・エンド・ジェントルメン――どこの子か分からないけど、綺麗な子が来たわ。ここは拍手。よろしい?」
一瞬静寂があった後、拍手と歓待の声が上がった。ローズの手に引かれ、CJは部屋の中央を横切った。
「これから私たちが特別にステージを踏むわ、有難く思いなさい」
真ん中に設えられた小さなステージにローズが向かった。ステージには既にサクラとシャムロックが立っていた。割れんばかりの喝采が沸き起こる。
「ミズ・アンノウンに祝福あれ! サンキュー・ゴールドコースト」
ローズがそう叫んで、歪んだ大きな笑いを見せた。
それはCJが、何度も繰り返し再生した「Bleeding Flowers」の冒頭でローズが見せた笑顔と、寸分違わぬものだった。
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『――現地で当局の調査が――現在も行方不明――』
CJはひどい頭痛で目を覚ました。体を起こそうとすると、どこもかしこも痛くて身じろぎ一つ出来ない。
(なんだろう――昨日、何があったんだっけ――)
『――爆発が発生――人質に取られた――』
耳障りなラジオの音が聞こえる。部屋のどこかで鳴っている。昨日パソコンをつけっぱなしで寝たせいだ。昨日、どうやって帰ってきたんだっけ?
なんだかとても、幸せな夢を見ていた気がする。でもよく覚えていないし、それよりも前に昨日が何の日で今日が何の日かを思い出すのが先だ。
そう、昨日はコールド・リップスのライブだった。忌々しいことに、昨日のライブの記憶がほとんどない。ビリーと一緒にいたのに、もしかして羽目を外しすぎたのかもしれない。
立ち上がって、ぐらっと大きく視界が揺れた。アルコールのそれだ。またいけないことをしたんだ、お母さんに怒られるな――。
顔を洗おうと思った。ふらふらと部屋を出て行こうとして、目の端に何か異質なものが見えた。
それは姿見だった。大きな鏡に映ったのは、赤茶けたドレスだ。
(あれ、これ)
ドレスには細かいドットペインティングが施されていて、細身のシルエットが体にぴったりとフィットしている。
(私――?)
いつもより心なしか背中をそらせて真っ直ぐに立っているのは、紛れもなく自分だった。
裾に重めの当て布があって、歩こうとするとそれが衣擦れを起こすようになっている不思議なドレスだった。そしてさらに不思議なことに、それは自分の体にとてもよく似合っていたのだ。
(こんなの、どこで――?)
もやもやと、昨日の記憶が見えなくなっている。
その一方で、夢の光景は少しずつ明らかになってくる。
シャンパンやダンスミュージックの感覚が蘇ってくる。
不意に、スマートデバイスに通知があった。ビリーからの電話だ。
「CJ? 心配したんだよ! どこいたの?」
「分かんない、今起きた」
電話の向こうでビリーが苛立たしげに息を吐き出すのが聞こえた。
「あのね、CJ。あんたは楽しんでて知らなかったかもだけど、あのライブハウス、吹っ飛んじゃったんだからね!」
「えっ」
鳴り響いていたラジオがどこか遠くから聞こえてくるように感じた。それは先程から同じニュースを伝えていた。
『老舗ダンシング・クラブのシューターズが〝コールド・リップス〟のパフォーマンス中に何者かによって爆破され――7名が死亡、行方不明が三名』
「聞こえてるじゃん。その三名のうちの一人、あんたなんだからね。すぐ学校に連絡してよ! 私、あんたのせいで寝てないんだから!」
CJは唖然として、立ち上がっている小さなホログラムを眺めていた。
『事件の実行犯は数回に渡り客席の一般人を襲撃、継続されたライブに対し爆破が敢行され――実行犯グループも被害者に含まれており』
昨日の記憶が、夢の光景と重なって蘇ってくる。
(貴方、あの襲撃の一番最初にやられたわね)
ライブパフォーマンスの一番最初から記憶がない。
その後から、あの夢の記憶に切り替わっている。
(何が起こっているんだろう――)
「もしもし? CJ、聞いてる? 早く学校に来て!」
CJは上の空で、姿見に映っている自分を眺めていた。頭の上でまとめられた髪は、乱れていても昨日までの自分とは全く異なる姿だった。
『なお、コールド・リップスはこの件に一切責任はなく、一連の犯行は全て運営やアーティストと関わりのない政治的な主張によって引き起こされたものと発表されており――』
(あれ)
ホログラムに映し出されたパフォーマンス中のローズは、CJが夢の中で見た衣装と同じものを着ていた。
(私、ローズが出てきたのを見てないはずなのに)
『また、マッドアイランズでのフェスティバルにも予定通り出演するとコメントがあり――』
(そうだ、フェスいかなきゃ)
ぼうっと立ち尽くすCJの頭に、そのことだけが何度もこだましていた。