待機
約二時間後、いかにもすっきり爽快と窓の近くで伸びをするサクラ、映画が終わってもまだ笑い転げているローズ、少し戸惑ったような表情でソファに座っている四十二番、そしてその隣でブランケットを被って震えているシャムロックの姿があった。
マイアミ、ココ・ホテルのスウィートルームである。開け放した窓からは涼しげな風が潮の香りとともに吹き込んでくる。外はすっかり暗くなっていたが、階下からプライベートプールではしゃぐ男女の声とパーティ・チューンが聞こえてくる。
本日のライブも盛況だった。SNSでの爆発的な話題の広まりが集客に影響するようになってきている。観客の年齢層は幅広く、男女比では女性の方がやや多い程度だ。
ここまで、ニューヨークから南下しながらのライブを重ねてきた。リッキーはこの動きを「ジャズを遡行している」と称した。ライブハウス、ダンスホール、ステージつきのレストラン、バーなど、リッキーはブッキング先の営業形態を問わずにスケジュールを組んでいった。
出演先では予めアナウンスをしない、サプライズゲストでの登場を貫いた。現場に「コールド・リップス」を知っている客が増えていくほどこれは効果的だった。
ローズはひとしきり笑い倒すと、「ああひどかったわ」と呟きながらダイニングテーブルへ歩いていく。シャムロックがブランケットの間から顔を覗かせた。
「終わった?」
四十二番が「うん、ちょっと前にね」と答えると、シャムロックは気の抜けたような、深く安堵するような表情を見せてソファに伸びた。
「明日はロスですね」
四十二番がローズに声をかけた。ローズはテーブルに腰掛けてワイングラスを傾けていた。
「ええ――久々に大きなステージね。きっと誰もがあっと驚くようなステージになるわ」
楽しみを抑えきれない、という様子でローズが言った。
次のステージは、彼女たちのスケジュールの中で唯一公式にアナウンスされているものであった。SNSではこのポストは何万回とシェアされており、チケットが恐ろしい額で取引されている。
それは同時に、既に十分な注目を集めつつあるということだった。当然、彼女たちが元所有者たちに捕捉される可能性も高くなってくる。
「シャムロック」
ブランケットから頭だけを出して放心しているシャムロックに、四十二番が声をかけた。
「なあに」
「あの短剣――まだそこにありますか?」
ああ、とシャムロックが顔を上げて、ブランケットの中からごそごそとそれを取り出して見せる。
「一応、肌身離さず持ってるよ。衝撃波が生成される銃器なんて滅多にないし――あと、なんとなくだけど、大事にしなきゃいけないと思って」
「トゥルーズ」
サクラが振り返った。
「また謎解きをしてくれるようね?」
「それは好都合」
ローズも機嫌の良い声を上げる。
「ええと――まだ分かりませんが」
と四十二番は前置きをして、少し考えた。そして、シャムロックの目をじっと見た。
「な、なんだよ、照れるなあ」
シャムロックがブランケットの中に半分顔を埋めた。
「シャムロック、あのベルファストでの戦いのとき、どんな気分でしたか?」
シャムロックはそのまま何度か首をかしげた。
「ううん、なんていうか、あんまりちゃんと覚えてないんだけど――君たちが来るまでは、あの部屋で拘束されて転がされてたんだよね。拘束自体は大したものじゃなかったけど、見張りも多いし、持ってた銃も取り上げられちゃってたし」
「武器が置かれていた部屋ですね?」
「うん――で、手錠とかロープとかは外して抜け出したんだけど、そこら辺に武器がないか探して、これを見つけたんだよね」
短剣をまたチラリと見せてくれる。
「でも、そのときは何もなかった――見張りが戻ってきて、撃たれそうになって、とっさにそれで応戦しようと思って構えたら、凄い勢いでそいつらが吹っ飛んでいっちゃった」
一発目の衝撃波が発生したというタイミングだ。ちょうどローズやサクラが侵入した頃である。
「そのとき、どんな気持ちでしたか? 恐い、とか、悲しい、とか」
四十二番の問いに、シャムロックはしばらく思案した。
「ううん、あんまり覚えてないんだけど――『ヤバイ、死ぬ!』とかかな。凄くドキドキしたよ。君たちが出てきて、それまでの奴らよりもずっと慎重に事を進めるから、もっと焦った覚えがあるなあ」
「私たちが味方で良かったわね」
いたずらっぽくローズが笑う。シャムロックも苦笑いで返した。「まったくだよ」
「じゃあ、ローズ、サクラ」
四十二番が二人に水を向けた。
「その直後の戦闘で、どういう気持ちでいましたか?」
ローズが面白そうに鼻をならした。
「トゥルーズ、中々ユニークで素敵なアプローチだわ。この拡張機能のトリガーは私たちの精神状態ではないか、という仮説ね?」
四十二番は素直にうなずいた。ローズがグラスを持ってソファまでやってきて、背もたれの辺りに腰を下ろした。
「それでいうと、中々興味深い返答を返せそうね――『無』よ。戦うとき、私たちドールズは一切感情が揺れないように訓練を受け、今でもその通りに事を進めるわ」
「お姉様に同じく、私も一切何も考えていないわね。正直に言って、この間の戦闘は退屈ですらあったわ」
「Genau!」
ローズがサクラを指差した。同意、ということらしい。
「十分に警戒をしたうえでの退屈や虚無は、戦場においてはあればあるだけありがたいものよ。それから、何より重要なことがひとつ」
ローズが身を乗り出して、四十二番の近くに顔を突き出した。
「貴方の言うとおりだ、という根拠のない自信が私の中に起こっているわ――『そういう気がする』『私が昂ぶったとき、このSMGは見たこともない力を発揮する』――そう言われればそんな気がしてならないの」
ローズの恐ろしく整った顔を四十二番は真っ直ぐに見据えて、「やっぱり凄く綺麗だなあ」とぼんやり考えた。
「ありがとう、私もそう思うようにしているけれど、人からそう言われると自信になるわ」
ローズが身を引いた。また考えを読まれて、四十二番は顔を赤くした。
「私も異論ないわ、トゥルーズ。何よりこれまでの貴方の類推の力を見るに、おそらく様々な要素を繋ぎ合わせた結論でしょうからね――」
サクラも同意した。ローズは部屋の隅に固めて置かれている武器のうち、自分のものである短機関銃を手に取った。
「さて、問題は――」
ローズがグラスを大きく傾け、ワインを一気に飲み干した。そして空になったグラスを見つめる。
「私たちの戦いが、まるで心の躍らない、取るに足らないものだったというところかしらね」
「そうかもしれませんわね」
サクラもローズの隣にやってきた。脇差を手に取る。
「こんな短い得物で事足りるような立ち合いしかないんですものね」
二人はそれぞれの武器をしばらく調べてから、顔を見合わせた。
「ねえねえ」
シャムロックがブランケットからスマートデバイスを出していた。ホログラムが浮かび上がっている。
「すごくない、これ」
中空に浮いているのはピザだった。とてもクオリティの高い映像で、取り上げられたピースから柔らかいチーズが伸びている。
「匂いも再現可能だってさ。すごいね」
シャムロックがデバイスに触れると、四十二番の鼻梁を焼きたてのピザの香りがくすぐった。
「シャムロック、すぐにそれを注文しなさい。今すぐに」
ローズが叫んだ。
「肉増しよ! それから掲示されているサイドメニューも全てひとつずつ!」
「緑茶もお願いね」
サクラも続いた。
「ごめん、ウーロン茶? しかないや」
サクラは落胆しかかったが、
「サクラ、後でお部屋で緑茶入れてあげますから」
という四十二番の申し出に、すっかり機嫌を取り戻した。
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四十二番は部屋で待っていたが、サクラがやってこなかったので、何かに勘付いたように部屋を出て行った。
向かった先はエレベーターである。最上階まで上がると、あちこち探し回ってようやく、さらに上へ登る階段を発見した。
案の定、鍵は開いていた。サクラが毎回、どうやって屋上に続くドアを開錠しているのかは不明だったが、まるで最初から開いていたかのように何の痕跡もなく、ドアは開かれている。
「サクラ」
まばゆい夜景が眼前に広がる屋上で、サクラは体を伏せている。
大型のスナイパーライフルに身を寄せていた。スコープを覗き込んでいる。
四十二番も注意深く体をかがめている。
「トゥルーズ――ごめんなさい。もう少し部屋で待っていてくれる?」
「ううん、ここで待ってます」
サクラが少し身を起こして、四十二番の方を振り向いた。
「何かあったらいけないわ、危険よ」
「ううん――大丈夫」
四十二番はそう言いきった。サクラはやれやれとばかりに身を起こして、その場にあぐらをかくように座った。
「サクラ、もう何日も寝ていませんね?」
四十二番とサクラは少し離れた場所に座っていたが、もう真夜中で、小さな声でも十分届く静けさになっていた。
港を挟んで、大仰なビル街が見えている。青、紫、赤、黄、浮かび上がる光は、春の上気したような空気に揺らめいて、少しぼやけたように広がっている。それなりに距離があるが、街全体が放つ通奏低音のような音が薄く聞こえてくる。きっとあの街は眠らない。
「仕方ないことよ、トゥルーズ――誰かが警戒していなくてはね」
「でも、今は大丈夫ですよ」
四十二番は優しく語りかけた。サクラはにわかに言葉を失って、顔を伏せた。
「サクラ――無理はいけませんよ」
四十二番が続けた。屋上に出る小さな段差に腰掛けて、膝に肘を立てる形で、頬杖をついている。
「そう躍起にならなくても、ローズはサクラを必要だと思っていますから――」
四十二番が率直に言うのを聞いて、サクラは少し身を固くした。顔を上げると、少し困ったように笑っている四十二番がいた。小柄な少女だ――でもサクラには、その姿が少し頼もしく映った。
「トゥルーズ、もしかして貴方、記憶が戻ってきているの?」
サクラの問いに、四十二番は首を振った。
「少しずつ、思い出しています。だけどそんなのと関係なく、サクラのことは心配です」
確かに、サクラは自分の行動に無理があると認めなければならなかった。
シカゴでのステージのあと、襲撃があった――酔った暴漢の犯行と見せかけたものだったが、近寄ってきてからの身のこなしから、ローズは後に「訓練を受けた陸軍の出身者」であると判じた。
それ以降、サクラはこのように、夜を通して狙撃に備えていた。気配が在り次第反撃できるように、一秒も気を緩めず、目の前の景色に神経を尖らせ続けている。
今日のように、狙撃の恐れがない日でも同じだった――サクラは自分の中にある焦りを隠しきれなかった。それは、ある種の無力感に似たものである。
そしてその原因とも言える自身の姉について、四十二番に言い当てられてしまったことを、サクラは「申し訳ない」という風に感じた。
「心配、ありがとう――もう少ししたら降りるわ。部屋で待っていて頂戴」
サクラが言うと、四十二番は何かを言いたげに、唇を震わせた。
しかしそれをぎゅっと閉じると、静かに立ち上がった。
「――待ってますね」
四十二番はそう静かに言い残して、屋上から去っていった。
サクラは四十二番のいなくなった階段の方を眺めていた。
そしてしばらくしてから、天を仰いで、ごろりとその場に寝転がった。
「全く――何ていうザマかしら」
独り言は誰にも届かない。
車の音が近づいてきて、ホテルの近くを通り過ぎ、やがて聞こえなくなった。