追憶 5
日ごとに、情勢は悪くなっていった。
街に紛れていた影は、より明確に「憲兵然とした男による尋問」という形で表れるようになっていた。シャムロックのことを嗅ぎまわっていた。
国の中にも外にも、前線が伸びていた。あちこちで事件が起こっていた。北アイルランドでは大規模な戦闘が起こっている。ダブリンのすぐ近くに、敵側が上陸したとの情報もあった。
閉鎖に追い込まれる店が増えた。支度をして出て行く者もあった。
そんな中、あの酒場に集まった者たちは誰一人、変わらぬように日常を送り続けた。
違うのは、それぞれ思い思いの方法で武装を始めたことだった。
戦線はダブリンに向かって伸びている。それがシャムロック一人のためかどうかは定かではなかったが、それに伴って街にうろついている憲兵然とした男たちの数は増えていった。
「あれは連合政府派の警察官なのだそうだ」
ある男が言った。酒場は作戦会議の場になっていた。
「元々はユニオニストだ。だが時代は変わった――もっと恐ろしい何かに変わったんだ」
シャムロックにはそれが何なのか、分からなかった。この国には、昔から続く因縁があることは何となく理解していても、それが今になってどう変わったのかはよく理解できなかった。ただ、とても良くない状況なのは分かった。
そしてある日、それは起こった。
酒場に、ある男が駆けこんできた。
「ジェームズが捕まった」
雨の日だった。ジェームズは移民だった。靴屋を営んでいる男だった――営業中に尋問を受け、カウンターの下に隠していた拳銃に気付かれてしまった。
「その場で何発かの発砲があった。連中は法律なんて気にしちゃいないぞ」
ジェームズは帰ってこなかった。何人かがこのタイミングでリタイアし、街を出て行ったが、大多数は気丈に残った。
テレビでは、スタン・フィールドという政治家が弁舌を振るっている。
『現実を受け入れ、現実的に対処する――我々に必要な理性とは、忍耐だ』
はげかかった醜い男だった。つい数ヶ月前まで、自国民の味方の様な振る舞いをしていたにも関わらず、今ではすっかり「連合政府」の弁をなぞるだけになってしまっていた。
彼はむしろ、ダブリンに流入している連合政府側の勢力に加担した。公民を問わず、ダブリンに武装した者が出入りをしはじめる。
「ここに気付かれるのも時間の問題だ」
それでも誰も動じなかった。
ニュースではダブリンにテロリストが潜んでいるという報道がされていた。誰もその意味を深く考えようとはしなかった。考えなくてもわかったからだ――それは、自分たちのことだった。
イーファは変わらず、ほとんど注文の来なくなった洗濯屋を開けつづけた。曇りの日だった。イーファは店の外を眺めていた。
「暇になったねえ」
平気なようにそう言ったが、平気ではいられない状況のはずだった。イーファの夫はとっくの昔に行方不明になっていた。ルイは毎日、あちこちを飛び回っている。
「やっぱり、僕たちだけで行くべきだったんじゃないかな」
落ち込んだように、シャムロックが言った。
ふふ、とイーファは店の外を眺めたまま笑った。
「これは私たちのわがままだよ、シャムロック――あんたたちは私の、本当の息子娘だと思ってるよ。あんたたちはどんなことがあっても、守ってみせるさ」
シャムロックは心強さと、申し訳なさの混じった、いわく言い難い気持ちでいた。
このまま自分たちがこっそりいなくなったとしても、彼らは自分たちの故郷を懸けて戦うかもしれない。でもほんの少しでも、重荷がなくなれば――と思っていた。
店の外を見ていた。
赤い線が、斜めにまっすぐに伸びている。
「――?」
シャムロックが立ち上がる。
「どうした」
赤い線が濃くなっていく。誰も気づいていない。瞬間、強烈な焦燥感が走った。
「イーファ、伏せて!」
シャムロックがイーファに飛びかかり、床に倒れ込んだ。
直後に、耳をつんざく爆裂音が発生した。
びりびりと店の窓が揺れ、割れた。ガラスが飛び散る。
シャムロックは立ち上がって、さっき赤い線が走っていた場所を覗き込んだ。
燃えていた。
抉られたように向かいのビルの中央の内部が露出している。あちこちで火の手が上がっている。人が伏せているのと、逃げているのと、動けなくなっているのが見えた。
イーファが立ち上がってきた。
「何てことだい――」
シャムロックには直感で理解出来た。爆弾だ。しかも、空から投下されたものだ。
「イーファ! 逃げるよ!」
シャムロックは何が何だか分かっていないイーファの手を引いて、店を飛び出した。
上空から町に向かって、何本も赤い線が伸びている。
「みんな! 逃げて! 早く!」
呆然としている往来の者たちにシャムロックは叫んだ。腰を抜かしているものもいる。
「シャムロック、こいつは一体――」
イーファが気の抜けたような声を上げた。
シャムロックは振り返った。イーファは、シャムロックの瞳の奥が妖しく光るのを目の当たりにした。
「イーファ、走って!」
シャムロックはそう言いながら、イーファの手を引いた。
いくつかの爆発が遠くで聞こえた。どよめきのような、うなりのような音が空を満たしている。赤い線は現れたり消えたりを繰り返して、時折濃くなり、そしてまた腹を打つような重い爆発音が沸きあがる。
シャムロックとイーファは駆けた。酒場に向かって、爆撃を避けながら、一心に走り続けた。
酒場にはもうかなりの人が集まっていた。
シャムロックを見て、一同が息を飲み込むのが聞こえた。そして、大きなため息をついた。安堵のため息だった。
「良かった、シャムロック」
「お前がやられていたらと、みんな心配していたんだよ」
続々と人が集まってきた。そこには、これまで酒場に来たことのない人が混じっていた。この酒場は決して、安全な場所ではない。誰かが呼んでいるのだ。
「団長さん、どうしてこんなに人がたくさん来てるの?」
「シャムロック。終わりが近い。私には分かる。まずは集まってみんなで話をするんだ。さあ、座って」
いつの間にか、集まった人々はこれまでの何倍にもなっていた。子供や老人もいた。歌劇団の昔の仲間もいた。彼らは、この街から逃げられなかった人々だ。
団長が立ち上がって宣言した。
「我々はこれまで、地上で抗戦を続けてきた、しかしもう時間が無い。対空の火器を我々は持っていない。明日は晴れだ――夜明けを待って、ここは恐らく破壊される」
シャムロックは絶句した。
ここに残っている人々は残らず、シャムロックとこの街のために戦ったのだ。それはすなわち、シャムロックの知らない戦いがいくつもあったことを意味していた。そして、いなくなった人々の中には、恐らく戦闘で命を落としたものがあったはずだ。
「逃げるなら今だ。夜明けまで恐らく空襲はない。子供や老人は特に、ここから脱出してほしい」
これに、すぐ答えたものがあった。子供を抱えていた女性だった。
「無理よ。この子たちは全員、連中に顔を覚えられてる」
「みんなといっしょがいい」
子供のうちのひとりがそう言った。
実際、逃げようもなかった。シャムロックは周囲を見渡した。彼女には、街の周囲に何者か、それも強い敵意を持った何者かが数えきれないほど潜んでいるのが見えた。
「そうか」
団長がそう言い、また酒場を見渡した。
「では――踊ろう」
彼はそう宣言した。
少しだけ一同にざわめきがあった。団長はざわめきを制した。
「もし可能であれば、各々好きなだけ楽器と飲み物と食べ物を持ち寄ってくれ。いますぐに。出来るだけたくさんだ」
ある男が手を挙げて立ち上がった。
「なぜそうするんだ? 最後まで戦う方法はないのか」
団長は目を閉じて、少しだけ沈痛に面持ちを歪ませた。
「ない。だから踊るんだ」
男は力なく座り込んだ。
団長は言葉により力を込めて続けた。
「私の好きな話がある。戦争中の芸術の話だ。戦争の中に芸術はあるか? どう思う、君」
指されたのは歌劇団の元メンバーの少女だった。少女は立ち上がって答えた。
「あります」
「そうとも!」
より大きな、力強い声で団長は言った。
「ある包囲された街があった――明日の朝早くにその町は占領され、中の人々は残らず捕縛されるか殺されるかするだろう。その街の真ん中で催された舞台があったのだ」
団長の声は少しずつ揺れ始めていた。
「その舞台は意味があったか――もちろん、あった! なぜなら、芸術とは絶望の中でこそ美しく輝くからだ」
一同がうなずいていた。そう信じようとしているのかもしれない。
「芸術とは、最も絶望しているものにこそ最も価値のあるものでなくてはならない――シャムロック」
「はい」
シャムロックは答えた。団長の表情は、とても優しく、安らかだった。
「歌ってくれ。我々の為に。この街の為に」
「――はい」
シャムロックも、力強くうなずいた。