追憶 1
シャムロックの記憶の中で最も古いものは、少年に手を引かれて大麦畑を歩いているところである。背の低い、まだ幼さの残る少年だった。
二人は遠く旅をしてきたのだった。
二人はしばらく歩いて、石造りの古い民家に辿り着いた。白髪と薄いひげと深いしわのある老人が出迎えた。老人は顔をしかめたが、二人を迎え入れてくれた。
シャムロックは自分が何者なのか全くわからなかったし、少年は何かを知っているようでも、何も教えてくれなかった。
とにかく空腹だった。老人がふるまってくれたシチューを二人は無言で食べ続けた。
少年は年のころ十三歳ほどで、よく日焼けした肌に頑固そうな面構えをしていた。
老人は少年に尋ねた。
「この子をどうするつもりだ? お前一人では食わせていけまい!」
少年は答えなかった。黙って食事を続けていた。
シャワーを浴びてシャムロックは人心地ついた。なぜこんなに疲れているのか分からなかったし、自分がどこへ向かっているかも分からなかった。不意にドアを開けると、見渡す限りに金色の大麦畑が続いている。広い土地だった。涼しい風が通り抜けていく。収穫の頃だった。
シャムロックはゆっくりと歩きだしていた。遠くに汽船が出発するような低く長い音が響いている。ここはどこで、自分はなぜここにいるのか、分からないまま、あてもなく歩いていなければならない気がした。
ふらふらと歩いていくシャムロックの腕が掴まれた。少年だった。
「どこへ行くんだい? 僕を置いていかないで」
懇願する少年は、泣きそうな顔をしていた。シャムロックは立ち止まった。
「僕の故郷では、一生に心を許していい女性はたったひとりなんだ。君は、僕にとって最高の女性だと思った」
少年は肩を震わせた。シャムロックは何とも考えず、少年の頭に手を置いた。
「間違っているのも分かっているし、無謀なのも知っている――でもシャムロック、僕は君といたいんだ」
その時シャムロックは自分の名を知った。
「僕は――」
シャムロックは、少年の口調を真似て語りかけた。
「君の最高の女性?」
少年が顔を上げた。
「僕の名はルイ。君は僕にとっての、最高の女性だ」
シャムロックには何も分からなかったが、少なくともこの時、シャムロックにとって生きるための、存在するための理由は規定された。
ルイはシャムロックと、平穏に確かな暮らしを築きたいと強く誓った。
シャムロックはそれを受け入れた。
二人の長い逃避行が始まる。
********************************************************
荷馬車の後ろで、列車の荷台で進みながら、あちこちに捨てられた民家を使いながら、二人は先を目指した。ルイは日雇いの仕事をいくつもこなしながら、その日の食い扶持を得ていた。
「今日は良い日だったかい?」
ルイはよく、夕食の際にシャムロックにそう尋ねた。
シャムロックはあまりよく分からなかったので、否定も肯定もしなかった。
ルイはそれでも機嫌よく食事を続けた。ルイが笑うたび、少しだけ赤みかかった濃い茶色の細い髪が揺れた。
ルイは自分のことを何も話さなかった。シャムロックとどうしてこんな旅を続けているのかも、主体的な話は何一つしなかった。
二人はあまり深い会話をしなかったが、ルイはとても満足そうだった。日に日に日焼けは濃くなっていったが、毎日元気に仕事へ出て行った。
そんな旅も一か月が過ぎた頃――辿り着いたのは、ダブリンの街である。
二人は小さなフラットに身を置いた。ルイは朝から晩まで働いた。
夜に帰ってくると、じっと座って待っていたシャムロックのために食事を作り、ふるまった。ルイの作る料理は大味だったが、それでも温かみのある、優しい味だった。
シャムロックは、ルイに勧められてその炒め料理の大半を食べた。ルイは疲れ果てている顔をほころばせた。そしてシャムロックも笑った。
「ありがとう。明日もきっと頑張れるよ」
ルイはそう言った。
夜が寒くなくなってきていた。空気の乾きが少しだけましになっている。ざわざわと通る風に厳しさはなかった。二人は別々の部屋で静かに眠った。
ある時、ルイの留守中に来訪者があった。
「あんたたち、新しく来た人たちよね? ちょっとお邪魔するわね」
よく太った女性だった。若くはないが、とても威勢のいい人だった。シャムロックは、日中は誰も部屋に上げるなと言われていたので、排除すべきかどうか迷った。女性はあちこちを見聞していたが、シャムロックの様子に気付くと、大きな声で笑った。
「おや、すまないね! そんな目で見なくたっていいじゃないか、私は隣に住んでいるイーファだよ、名乗るのが遅れたね! あんた、見ない顔だけどどこから来たんだい」
イーファは自分がただのやじ馬で、隣にとても若い女性と少年がやってきたのを前々から気にしていたのだという。とうとう好奇心を抑えられなくなってやってきたのだが、何だかガッカリした様子だった。
「なんていうかもっとこう、人が生活している感じはないのかい? 昨日引っ越してきたばっかりみたいじゃないか」
部屋は確かに閑散としている。生活に最低限必要な衣類と食料しかない。
「あの、僕、まだよく分からなくて」
「分からない? 生活の仕方が分からない頓珍漢があるもんかね。訳はありそうだけど私ぁ聞かないよ。あの男の子は仕事かい?」
シャムロックはうなずいた。イーファは呆れたとばかりに首を振った。
「良いかい、あんたはもしかしたら分からないかもしれないが、一日働くというのは思ったよりもはるかに骨が折れるもんだ。ねぎらってやろうなんて気は起らないのかね」
シャムロックはイーファが何を言っているか分からなかった。イーファはわざとらしく長いため息をすると、勝手にキッチンへ入っていった。
「なんだいこりゃ! きったないったらありゃしない! こっちへおいで!」
シャムロックがキッチンへ入ったのは初めてだった。イーファの言った通り、汚れた食器がシンクを完全に埋めつくしていた。イーファはシャムロックに向き直ると、その鼻先に人差し指を突き出した。
「良いかい、男も女もない時代だが、こういう仕事は外へ出ていない奴がやるべきだね。家にいようがいまいが、働かざる者はなんとやらだ。手伝いな」
イーファは腕まくりをし、食器を勢いよく洗い始めた。シャムロックは始め戸惑いながらイーファが洗った食器を受け取って並べていたが、やがて慣れてくるとそれらを拭き、整頓して棚へ入れ始めた。
「おや」
イーファがその様子に気づき、ニヤッと笑った。
「やりゃ出来るじゃないか。うちの店で働くかい?」
イーファは首を傾げた。
「ま、気が向いたら声をかけとくれな。洗い物が終わったら次は料理の準備だよ」
イーファは手を拭き拭き、シャムロックの首根っこをつかまえて外へ出た。
春だった。空気がしっとりと濡れたように潤う、暖かな日だった。ダファデルの黄色い花弁が道いっぱいに広がっている。どこかから笛の音が聞こえてくる。とても高い声の鳥がせわしなく鳴いている。シャムロックはしばらく、ドアの前で立ち尽くしていた。
昼間に外に出るのが初めてだったのだ。
「――何やってるんだね? 行くよ、お嬢ちゃん」
少し先で待っていたイーファが訝しげに声をかけて、シャムロックは慌ててその後を追った。
街は何かに備えて、慌ただしく準備を始めていた。屋台の骨組みを運んだり、緑色の服や杖や飲み物を並べたり、チラシを配っている人が大勢いたり、看板を取り付けていたり、とにかくあちこちで人がせわしなく動いていた。
「あのう」
構わずどんどん進むイーファに、シャムロックが後ろから声をかけた。
「これはなに?」
イーファが肩を揺らして大きな笑い声をあげた。
「よっぽど田舎から来たんだねえ! この街で一番大きなお祭りさ、明日からみんな休みだろう、あの坊やと一緒に楽しんだらどうだね」
シャムロックはまた首を傾げた。
道を行く人々は忙しそうでも、みな一様に楽しげに、期待するように、目を輝かせていた。
何かが始まるくすぐったい予感を横目にみながらシャムロックは、もう歩き出していたイーファの後を慌てて追いかけていった。