青春ラブコメなんてあってもこんなもんでしょう
僕の備忘録的物語です。ノンフィクションをフィクションに織り交ぜて進めています。どこが実際にあったことなのかは質問されれば答えますが、基本的には想像にお任せします。
いつも通り、平坦で何の起伏もない物語ですが、お付き合いいただけると嬉しいです。
そんなことなんてあるはずはない。漫画で読むような、アニメで見るような、そんな都合の良いラブコメな展開なんてあるわけがない。起こってたまるか。
『事実は小説より奇なり』だと? バイロンもマークトウェインもいい加減なことを言いやがって。そんな言葉は信じない。騙されてたまるか。
有名私立進学高校の受験に失敗した僕は、府立の高校に通うことになった。親の金銭的な負担やら、通学にかかる時間、授業についていくために必要な日々の勉強など、自分自身にかかる負荷もかなり軽くなったことを考えると、それはそれで良かったのかもしれない。それにこの府立高校には、中学からの友達も多く入学したので、始まったばかりの高校生活が寂しくなることもない。また新しく友達を作り直す面倒もない。ポジティブに考えよう。これで良かったんだとして高校生活を満喫しよう。それが入学式までの間、自分に言い聞かせるように、内心を説得させてきた言葉達だった。
迎えた入学式は晴天。まさに晴れの入学式を迎えた。
校門をくぐり最初に目に入った建物の、歴史を感じると言うには築年数の浅い、ただの古ぼけたコンクリートの校舎にため息をついてしまった。それでも、まずやらなければいけないのは、その校舎前に張り出されたクラス分けの一覧表に、自分の名前を探す事だ。掲げられた模造紙には、クラスごとに苗字の順番、あいうえお順、所謂出席番号順に新入生の名前が並んでいる。自分の苗字は後ろから数えた方が早いのだけれど、何故だか一年一組の『あ』から見てしまうのはどうしてだろう。知っている名前を探したかったからなどではない。単純になんとなくそうしただけなのだけれど、それがいきなりとんでもない名前を見つけることになってしまった。
『相沢智美』
そりゃそうでしょう。張り出された紙の左の一番上、一組の出席番号一番、最初の最初に書いてあったのだから、自分の名前より先に見てしまうことになったのは、必然でしょう。
うちの家族は僕が小さい頃から何度も引っ越しを繰り返し、二度転校を経験してきた。引っ越しをしたのは、二歳・五歳・小学五年生・中学生入学時・中学三年生の時で、転居は五回。同じアパート内での部屋移動や、数百メートルの移動を含めるともっとある。そのうち転校を伴ったのは五年生に上がる時に一度と、これは転校とは言わないかもしれないけれど、中学生に上がるタイミングで学区が変わり、友達のリセットがなされた。
しかし、転居・転校と言っても、府県をまたぐどころか、市を超えることすらなく、全て同一市内での小さな移動だった。なので府立の高校に入学が決まったとき、市内を転々として、所々で作ってきた友達が集まることになるだろうとは想像していたが、思ってもいなかった名前を最初に目にすることになり、心のどこか片隅で、取って付けたような、もしかして起こるかもしれないあれやこれやの、あからさまな展開を、大いに期待してしまった。
これが漫画やアニメで見かける青春ラブコメのご都合主義でなくてなんなのか、と思ってしまった。
転居転校は子供にとっては、一大イベントになることは確かなのだけれど、これだけ繰り返されると慣れていくのも当然。引越した先の住まいに慣れてくると、また転居の話が出る。そしてまた引越し。大げさだけど日常茶飯事と表現したくなるほどだった。それ故に引越しに伴う小さな頃の記憶はほとんどない。当たり前に起こる出来事には、心に残るようなページを築くことができるほどの力はなかった。
転居というイベントとは別に、幼いころの出来事は、人並みにいろいろ覚えていることもあったりする。その中で幼稚園から小学四年生までの比較的長い間、住んでいた場所での記憶の中、回想の度、いつもいつも登場してくる名前がある。それが『相沢智美』だ。つまるところこの五年間は、彼女との思い出だけで、僕の歴史が構成されている、なんて表現も大げさではない。……ような気がする。
まずは出会いだけれど、さすがにそのころの記憶は遠い。同じ幼稚園に通っていたというだけで、詳細な出会い方などは覚えていない。毎日送迎バスの中では隣同士に座って通っていた。なんてことを親に聞かされても首をかしげる。母曰く、毎日とは言わないまでも多くの日々、幼稚園から戻り制服を脱ぎ捨てると、一目散に彼女の自宅へと向かっていたそうだ。
彼女の父は、大手自動車会社に勤めていて、住まいはその社宅だった。五階建ての同じデザインの建物が並ぶそのエリアは、なだらかな丘陵地を切り開いた場所のため坂が多く、行き道はずっと登り、帰り道は下るだけだった。これが逆だったなら、そうは続いていなかったかもしれない。
そこで何をして遊んでいたかは、やっぱり思い出せない。もちろんどんな会話をしていたかなんて覚えているはずもない。
ただ、自分が覚えていなくても、確実に記憶をとどめている物がある。それは『写真』だ。卒園アルバムの中にある組ごとの集合写真。その一枚が全てを物語っていると言っていい。ページいっぱいに展開される集合写真に写る園児は、皆、硬い表情で背筋を伸ばし、カメラを見つめている。整然と並ぶ園児の中で特定の誰かを見つけ出すことは結構骨が折れる。今の姿から幼かった頃の面影を想像し、見つけ出すのだけれど、緊張した小さな顔には特徴を示す要素も少ない。そんな中、僕はすぐに簡単に見つけることができる。
さくら組で写る僕は、最前列、向かって左から二番目。固く握った手を膝に置き、椅子に座っている。それだけなら他の園児と何も変わらないのだけれど、表情こそは固く、口は一文字に結ばれているが、体は隣に座るツインテールの少女に寄りかかり、頭だけを真っ直ぐに立てている。
そう、その少女こそが『相沢智美』だ。その頃の僕がどれだけ彼女のことを好きだったかは、卒園アルバムを見れば誰だって容易く想像できてしまう。
小学校での四年間も同じクラスだった。彼女の両親は共働きのため、授業の終了後は、校門の隣に立つプレハブで、学童保育を受けていた。学校が終わってもまだ学校に居られる特別感と、そこでおやつが出るという羨ましい情報を彼女から聞き、僕も親に頼み学童保育に入れてもらった。うちは両親が自宅で飲食店を営んでいるので、帰宅すれば両親は居る。学童に通う必要なんて皆無だったけど、両親をどう説得したのか全く覚えていないが、彼女と一緒に学童に通うことになった。それは二年間続いた。
この学童でとても印象に残っている出来事がある。それは単純なお絵描きだ。この日も特に変わったこともなく普段通りに、スケッチブックを広げ、絵を描いていた。題材は動物図鑑の一ページ。それを見ながら象の絵を二人並んで描いていた。そろそろ出来上がる頃、彼女の描く画用紙を覗き込んだ僕は、自分の絵があまりにも極端に稚拙なことを思い知った。グレーのクレヨンで描いた僕の象は、楕円形の体に、長い鼻らしきものがついた丸い頭が乗り、四本の足のようなものと、尻尾が生えた、まぁ子供が描いたなら許されるが、象と言われなければそれとはわからない、地球上に生息しているとは思えない生物のような絵だった。それに比べ、彼女の絵は、見ていた図鑑の写真のように、草原で並び歩く象の親子そのものだった。
幼稚園に通う頃から彼女の家で一緒にお絵かきをしていたに違いない。描いた絵を、お互いに見せ合っていたはずだ。でも気がつけなかった。彼女がこんなに絵が上手いということに、僕は全く気付いていなかった。
その象の絵を見た衝撃は今でも鮮明に覚えている。まるで写真ではないかと思ってしまった。もちろん小学一年生が描く絵なので、そこまで詳細に繊細に表現されているわけではない。それでも、僕がそう思えるだけの要素は多分に含まれていた。
僕はクレヨンを置いて、彼女が描き進める手を追った。
「ヒロくん、そんな見んとって。恥ずかしいやん」
「トモちゃんって、絵を描くの上手やね」
「そんなことあらへんて」
「ほら、写真みたいやんか」
僕は図鑑と彼女の絵を交互に指差して見比べた。彼女は僕によって「ゾウ」と名付けられた異世界生物を見てこう言った。
「あんなぁ、ものには形があんねん。動物とかはな、どっから頭でどっからが胴体かわからんのが、ぎょうさんいんねん。蛇なんかもそうやんか。だからな、ようけ見て、その形のまんまに描くだけでええねん。ヒロくんにもできるって」
衝撃だった。動物なんて丸い体に丸い頭を乗せて、足を四本つけて尻尾を描いたら終わりだと思っていた。そこに特徴をつければ何にでもなると思っていた。鼻を長くすれば象だし、首を長くすればキリンになる。耳を立てヒゲをつければ猫だし、鼻を尖らせれば犬か狐になる。それで絵が描けたつもりになっていた。でも違うんだ。みんな違う形をしていて、それは「観察」することで、自分勝手に当たり前だと思っていたものが、本来の形になって認識される。そのことを知っている『相沢智美』がすごいと思った。
その後あった図画工作の授業で、教室に置かれた水槽で飼われている金魚や亀を描く課題が出た。僕は亀を描くことにして、彼女に言われた通り沢山観察した。動きの遅い亀でもいろんな体制をとるし、じっとしていない。どんな絵を描けばいいのかと、迷いつつ斜め後ろから見ていると、首を力いっぱいに伸ばし、水槽の外を覗き見ようとしている仕草が可愛くて、その体制の亀を描くことに決めた。
斜め後ろから見ているので、足は三本しか見えない。首は普段より長く伸ばしている。甲羅はただの丸ではなく複雑な形をしていた。下書きをしたのだけど、自信の無さから大きな画用紙の真ん中にポツンと、小さな亀になってしまった。
「ヒロくん、上手」
そう言ってくれたのは相沢智美だった。それがとても嬉しかったのだろう。同じ仕草で同じ方向を向く小さな亀を、画用紙いっぱいにスタンプを押したように数十匹描いた。次に色を塗ることになるのだけど、小学一年生の僕には、透明な水を表現することができなかった。そこで、僕は何を思ったか、画用紙全体を紫色に塗り潰し、その上に茶色と紫色が混ざった、かなり不思議な、ある意味汚い色で亀を塗り仕上げた。
後にこの絵が教師陣の間で物議を醸し出すことになる。「紫」という色は、子供の心理状態を示す微妙な色だそうだ。その色で塗り潰した絵を描くというのは、精神的に大きなショックを受けているか、頭のおかしな子に見られる現象だという。その上、一匹しか存在しない亀が画用紙いっぱいに何十匹と描かれている。その絵から僕に精神異常が見受けられるとのことで、両親が揃って学校に呼び出されたそうだ。この亀の絵は未だに大事に保管してある。確かに今になって冷静に見ると、かなり怪しく危なく怖い。不気味だ。
月日は流れて、小学四年生の二学期。ちょっとした事件が起きた。起きたというか、僕が起こした。
クラスの水槽で飼っていたカマキリが卵を産んだ。僕はそれがとても嬉しく愛おしく、毎日いつ孵るかわからない卵を眺めるのが好きになった。しかし孵化するのは半年以上先のことで、それまでこの水槽を占有することができないと判断した誰かがいたのだろう。卵だけでも草むらに放つことができたはずなのに、水槽の中にあった枯れた草と一緒に、カマキリの卵までもを、ゴミとして焼却炉で燃やしてしまったのだ。
僕は激怒して怒鳴り散らし、泣き喚き、誰彼構わず当たり散らした。体を張って止めようとするものには殴りかかり、口で静止を促すものには暴言を吐きまくった。もうそこには居たくなかった。命を軽んじる奴らと一緒には居たくなかった。そんな奴らと同じクラスだということが耐えられなかった。僕は教室から逃げ出そうと思ったが、クラスメイトが僕の周りを何重にも取り囲み、廊下に出ることはできそうにない。次に考えたのは、窓の外にある雨水の排水管を伝い、下に降りて逃げることだった。ここは二階、できないことはないと判断した。落ちても大したことはないと思った。そんな思案をしている時の僕は、少し落ち着いたように見えたのだろう。腕を掴んでいたクラスメイトの力が弱くなったと同時に、それを振り払い、開かれていた窓の手すりに手をかけ、乗り越えようとした。片足と体半分以上が外に出たぐらいだっただろうか、その声が頭に突き刺さった。
「ヒロくん、やめてぇ!!」
教室の入り口近くから響いたその声は、騒ぎを聞きつけ教室に戻ってきた相沢智美だった。彼女は騒つく人垣をかき分け、手すりを乗り越えようとする僕の前に立った。
「お願い。やめて」
先ほどの叫びとは違い、優しく語りかけてきた彼女の目はフルフルと揺れている。僕は窓の外に出ることを阻止しようとするクラスメイトから抵抗をやめ動きを止めた。
「なんや、痴話喧嘩か」
「うるさい。黙れ」
彼女の口から初めて聞く低いドスの利いた声が、ザワつく教室を静まらせる。
僕は「わかった」と小さく言って、乗り出した体と足を教室の中に戻した。それを見た彼女は膝から崩れ落ち、両手で顔を覆うと大声で泣き出した。僕は何もできなかった。謝ることも、もうしないと約束の言葉をかけることも、ましてや慰めることなんてできなかった。蹲り肩を揺らす彼女は、幾人かの友人に抱えられ、彼女の席に座らされ、女子数人に囲まれ慰められているようだった。僕も腕を掴んでいたクラスメイトに引きずられ自分の席に押し付けられるように座らされた。
この日は彼女から誘われ二人で下校することになった。お節介な誰かが、また僕が、変な真似をしないようにと、監視をつけたようだった。少し時間が経ち落ち着いてはいたが、真っすぐに家には帰りたくなかった。少しの遠回りを提案したものの、会話が続かなかった。
「ごめん」
「ううん」
「もうせぇへんから」
「うん。でもなんで死のうと思ったん?」
「へ?」
「飛び降り自殺しようとしたんやろ? 命を粗末にしたらあかへんやん」
「ちょっと待って。なんでそうなるん? 命を軽く見てるんは他のやつらやん」
首をかしげる彼女に、僕はカマキリの一件を話した。
「ヒロくん優しすぎ。それでもし怪我でもしたら大変やん。それに逃げたらあかんえ。絶対に味方がいるさかい。誰もいいひんでも、私が味方になってあげるから」
そう言って彼女は寄り添うように、並び歩く僕との間をほんの少し詰めた。今までにない肩が触れ合うほどの距離に、緊張と恥ずかしさで頭が真っ白になり、その後のことは全く覚えていない。
カマキリの日以来、僕はそれまで以上に『おかしな奴』のレッテルを貼られ、冷たい目で見られるようになったのだけれど、それは些細なことだった。なぜなら、それ以上に相沢智美との関係を冷やかされることの方が多かったからだ。
小学生のやることは時として容赦ない。初めのうちは適当にあしらっていたが、一緒に下校すると、「手を繋いで帰ってた」とか、廊下ですれ違っただけなのに、「そのアイコンタクトは何の合図?」とか、どん小さなことでもネタにされるようになり。僕も彼女もお互い少しずつ離れるようになっていった。
距離を置くようになったのは、ただ冷やかされたことだけが原因ではない。おそらく早熟な女子は思春期に差し掛かり、異性をそれなりに意識するようになったからなのだろう。四年生の冬休みに入る頃には、彼女と殆ど会話らしい会話をしなくなっていた。
その頃、また引っ越しの話が出た。今回は転校を伴う転居になることを母親から告げられた。引っ越しは二月頃だったのだが、新しい学校に登校を開始するのはキリのいい時に、ということで、五年生になる始業式からということになった。それまでの約一ヶ月間は今通う学校にバスで通学することになった。学校近くのバス停は、それまでの自宅とは逆方向にある。校門を出て右に帰っていたのが、バス停は左に向かうことになる。今まで一緒に下校してきた友人とは反対方向のため、一人で学校を出ることが多くなった。
引っ越しのことは、殆ど誰にも話さなかった。僕にとっては日常茶飯事。いつものことで、ありきたりの日常の一ページに過ぎない。だから話す必要もないと勝手に思い込んでいた。なので、引っ越し先の住所や電話番号はどんなに仲の良かった友達にも、伝えないままに春休みになり、いつものように三月末の誕生日も誰にも祝われないまま、四年間通った学校を後にした。
そうやってなし崩しにというか、フェードアウトするように相沢智美とも別れることになった。
そんな思い出いっぱいの女子の名前を自分の名前より先に見つけてしまったのだから、正直冷静ではいられない。
高校受験の失敗なんて何処へやら、モテない男子の頭の中は想像と妄想で脳みそが溢れ出る勢いだ。まずはどんな女の子になっているだろう? から始まり、顔を見たら分かるだろうか? 僕がわからなくても彼女が僕のことに気づくかな? 僕が最初に彼女を見つけたとしたら、なんて声をかけようか? 「久しぶり、元気にしてた?」でいいかな? 声をかけて邪険に扱われたらどうしよう。待てよ、本当にその名前の主は彼女だろうか? 同姓同名の可能性もある。あまり浮かれている場合ではない。平常心でいないと、と浮つく心に言い聞かせ、やっと自分の名前を、一年間在籍するクラスに見つけることができた。でも御都合主義もここまで。彼女とは別のクラスになった。
入学式が終わりホームルームも終了し、帰宅する時間になったが、気になることはやっぱり気になる。よせばいいのに一組の教室に足を向けてしまった。覗きに行こうとしてしまった。でも結果、そこまでの必要は無かった。一組の教室に着く前に、廊下で事は足りた。そう彼女と廊下ですれ違ったのだ。
相沢智美は一人で帰宅するところだったようで、カバンを手にしている。彼女に気がつくも何も、顔を見て絶対に本人であることは確信できたのだけれど、その佇まいに僕は足が止まり声も出せず、金縛りにでもあったように硬直してしまった。
女子にしては、少し高めの身長で、僕よりちょっと低いくらい。小さい頃、トレードマークにしていたツインテールだった髪は、束ねられることなく下ろされ、決して手入れが行き届いてるとは言えず、女子らしくなくボサボサな上、中途半端なセミロングが野暮ったい印象を助長する。鼻の上にはメガネが乗っているが、それはオシャレをしようなんて考えたこともない子が、親に言われるがまま使っているような、機能だけしか考えない厚いレンズの代物だ。制服は全員新調されたものを着ているのだけれど、どことなく服をかぶっているだけに見えてしまったのは、彼女の体型がそう思わせたのだろうか。厳しい校則の中で特に制限されているわけではないカバンにも特徴はなく、学校から提示された見本をそのまま形にした黒いカバンと、教科書や配布物が多いので、用意してくるよう言われていた予備のカバンは、シワだらけの紙袋だった。その二つを両手に下げ、少し猫背の俯き加減で人を避けるように廊下の隅を歩く姿は、どう見ても異性の友人がいないのは想像できてしまうどころか、ここ最近男子と喋ったことないのではないか、もしかして異性だけではなく、誰からも好かれることなく、除け者にされているでは、もっと言うと、皆から嫌われる存在なのではないかとも想像してしまった。
そんな彼女に声をかけることなんて出来ず、僕は歩みを止め、ハッと息を飲んで中途半端に開けてしまった間抜けな口を閉じるのを忘れ、教室の入り口上にかかる一組と書かれたプレートを呆然と見上げた。
ほら、アニメみたいな青春ラブコメな展開なんてなかったでしょ。
……偶然同じ高校に通うことになった幼馴染とは数年ぶりの再会。可愛く成長した彼女は、明るくオシャレで活発で、誰からも好かれている人気者。言い寄る男子も少なくないが、特定の彼氏は存在しない。理由は「私には心に決めた人がいるから」とか「まだ彼のことが忘れられなくて」とか。そんな彼女が入学式の日、廊下で僕を見つけると、人目もはばからず、我を忘れて駆け寄りハグ。その光景に男子達は僕に羨望の眼ざしを向ける。楽しい学園生活の始まり始まり。
ハハハハ、ないない。あるわけない。青空の下、真っ白いシーツが沢山干された病院の屋上や、まるで他に生徒がいないのかと思わせるような、学校の屋上で二人きりで食べる昼食シーンくらいに、ありえない。
高校生活に慣れてくると、相沢智美のことも少しずつわかってきた。とりたてて調べたわけではないが、結構有名ということで彼女のことは自ずと耳に入ってきた。相沢智美は、言うところの腐女子になっていた。彼女はいつからか、二次元に魅了され、人間界から身を引き、ある意味殻に閉じこもったようで、同好の士以外とは関わりを持たない奴になったと、彼女と中学が同じだった古い友人から教えられた。なるほど言われてみれば入学式の日に見た彼女は、腐女子の見た目そのものだったじゃないか。納得すると同時に美化されていた思い出が崩れ去った気がした。
夏休みも残り一週間を切ったある日、たまたま幼稚園から小学四年生の頃まで住んでいたアパートの最寄駅で降りることがあった。駅の周りは五年以上も経つとかなり様変わりしていた。ホームが狭く駅舎が小さく感じるのは、自分が少しだけ成長したからなのだろう。改札を抜け真っ先に目に入ったのは、その頃は無かった大きなマンションだ。一階はスーパーマーケット。二階に目を向けると一面ガラス張りで、室内にはトレーニングマシンが並ぶジムになっていた。
そのジムの入り口へ登る階段を軽い足取りで一人の女性が降りてきた。ピンクの靴紐が可愛く印象的な有名ブランドのスニーカーを履き、白い三本のストライプが入った黒いレギンスに、ブルーグレーの丈の長いサマーニットのカーディガンを羽織って、ブランドロゴが大きくあしらわれたトートバックを肩から掛けたその女性は、紛れもなく相沢智美だった。彼女は階段の最後の一段をピョンと飛んで両足でアスファルトに着地した。
僕は目を疑うと同時に見開き彼女を凝視してしまった。学校で見る彼女とまるで違う。髪は一つにまとめられ、メガネもかけていない。驚いた僕の視線を感じたのだろうか、彼女と一瞬視線が交わるも、二人の間をゆっくり通り過ぎて行くトラックに阻まれ、彼女の姿を見失った。すぐに視界は開けたけれど、そこには彼女の姿は無かった。
見間違い? そんなことは絶対にない。だからこそ、彼女の息を呑むような表情と、一瞬取った挙動の不審さが、見てはいけないものを見てしまった気がした。
夏休みが明け、二学期が始まり、校内で相沢智美を見かけたが、似たようなテイストを持ついつもの幾人かに混じり、他を寄せ付けようとしない雰囲気は、入学式の時に受けた印象と何も変わらず、下を向いていることが似合う、暗いとの表現に違わない女子だった。
あの夏休みの彼女はなんだったのか。僕の中でちょっとした謎にはなったのだけれど、そんな疑問も多忙な高校生活には邪魔になるだけ。自然と考えることも減り、体育祭や文化祭と続く行事にすっかり忙殺され、気に留めることも少なくなり、一年が終わる頃には、記憶からさっぱり消されていた。
それは突然訪れた。まぁどんな出来事も起こる時は基本的に突然なのだけれど、意表をつかれたというか、不意打ちというか、思いもよらないことには、やっぱりびっくりした。二年生の夏休み明けの直後の木曜日、下校時に開けた下駄箱に手紙が一通入っていた。これも学園ラブコメのお約束。でもそれは今まで女子と付き合ったことの無い僕にはふさわしくないイベントだった。だからこそスニーカーの上に置かれた、場所にそぐわないパステルカラーの便箋を見たときは正直にやけてしまった。僕は周りをさっと見渡し、誰もいないことを確認し、その封筒を宛名や差出人を見ないままカバンに落とし入れ、何事もなかったように汚れたスニーカーを取り出し上履きから履き替えると、早足で学校を出た。
さて、どこでカバンの中にある手紙を出そうか。家に帰ってからかな? それより誰からなのだろう? 最近よく話すようになった北村さんかな? 一年の時から仲の良かった川端かな? それとも遠くから僕を見ていた誰かさんとか。モテない男子が故、膨らむ妄想は果てしない。もしかして男子のいたずらかもしれない。からかわれている可能性も捨てきれない。本当に女子からの手紙だったとしても、ヘラヘラした顔で手紙を読んでいるところを見られると、後々冷やかされる材料になってしまう。そう考えるとやっぱり開くところは誰にも見られるわけにいかない。でも、気になる。早く確かめたい。足取りは益々速くなり、下校時たまに立ち寄る旦椋神社の境内に入った。
お社の陰で丹念に周りを見渡し、誰もいないことを確認する。カバンのファスナーは開いたままだった。持ち手を左右に開くと、教科書の間に封筒が見えた。それをほんのちょっと震える手で摘まみ上げる。表には『ヒロくんへ』と書かれていた。転校する度にあだ名が変わってるので、そう呼ぶ友達は限られる。だとすると、北村さんや川端ではない。頭を過ぎったそんな思考も封筒を裏返し、差出人を見るまでの一瞬だった。
差出人は、そう『相沢智美』だったのだ。
一枚のシールで封をされていた薄い水色の封筒のフラップに指をかけゆっくりと剥がす。シールの跡も残らず綺麗に剥がれ開かれた中には、一通の手紙が入っていた。
『おまたせ。今度の日曜日、時間空いてる? 090-xxxx-xxxx』
おまたせって、どういう意味だ? 僕はなにか待っていたか? 人違いか? でも宛先は僕のようだ。この番号は彼女の携帯なのか? 今度の日曜って空いてはいるけど、なんだっていうのか。返事は携帯によこせってことなのか? 疑問だらけで頭が混乱している。便箋にはそれだけしか書かれていない。裏返しても何も書かれていない。もう一度封筒を覗き込むが、中は空だ。途方にくれるには差出人が衝撃的すぎた。一晩頭を整理すると決め、旦椋神社を後にした。
次の日、隣の教室の隅に集まるいつもの数人の中に、いつもと同じように相沢智美を見つけた。相変わらずこの集団には近づきづらい。手紙のことを直接聞いてみようかとも思ったが、入学以来一言も話していない、七年以上会話の無い相手に対して、なんと声をかければいいのかも迷う。一人でいるところを見つけようとしたが、それもうまくいかなかった。放課後、昇降口で待ってみたが、彼女の方が先に帰ったのか、会えなかった。でも、それは何となく気付いていた。何故なら、また下駄箱に手紙が入っていたからだ。やっぱり宛先は間違ってなかったようだ。
『日曜日の午後一時に京阪丹波橋駅の改札中で待ってるね』
苦手な電話をするくらいなら、他に予定も無いことだし、時間も場所も指定されているのだから、日曜日に直接そこに行って確かめればいい。この件は日曜日まで保留だ。
日曜日の午後、昼食を済ませ一方的な通達の待ち合わせ場所に向かう。電車が遅れたせいで、十分ほど遅刻した。指定された丹波橋駅は他社線との乗り換え駅だけあり、行き交う人は多く待ち合わせにもよく使われる。改札内ということでホームからの階段を登り、コンコースを見渡す。その中に見つけた。あのいつもの相沢智美ではない、ジム前で見た相沢智美。彼女も僕に気づき手を振り駆け寄ってきた。
「お待たせー!!」
「待たせたのは僕の方なんですけど」
最初の手紙の意味不明な一文を口にした彼女は、僕の返した言葉に「そういう意味と違うくて」と学校では見たことのない笑みをこぼした。
先に言っておく。めっちゃ可愛い!! 普通に可愛い。いや、普通以上に可愛い。可愛かったからこそ、この状況を知りたかった。僕の頭の混乱に収拾をつけたくなった。
今日の彼女は今の僕の好みを知っているかのように着飾り、自分を作って現れている。あのボサボサ髪は、トリートメントしてサラサラになり、一つに束ねられている。コンタクトにしたのか、瓶底メガネも今日は掛けていない。薄く塗られたグロスが、健康的な印象を放つ。猫背気味に見えていた姿勢も今日は全く感じられない。紺色に近い青のミニスカートから覗く足は引き締まって真っ直ぐ伸びている。袖やボタンホールにレースがあしらわれた白いブラウスには、身体の線がくっきりと出ているが、こんなにスタイルが良かったのに、なぜ今まで気がつかなかったのだろう。
「いろいろ聞きたいことがあるんやけど……」
「そやね。ほな、いこ」
そう言って彼女は京都方面のホームへ降りる階段に向かった。僕は優しく揺れるテールクリップでまとめられた髪を追う。出町柳行きの急行がすぐに到着し、それに乗った。車内は二人並んで座れる席が無いくらいの乗車率だったため、二人はドアを挟んで、それぞれ向かい合うよう手すりにもたれ掛かった。流れる車窓を、口元を緩め眺めている彼女は、どこからどう見ても学校にいた俯き加減の相沢智美ではない。
「この駅覚えてる?」
過ぎ去る車窓からホームを目で追って、徐に彼女はそんな質問をした。
「藤森やろ? なんかあったっけ?」
彼女は、僕に視線を移し、フフと小さく含みを持って意味ありげに笑うと、また車窓に目を戻した。彼女はそれ以上話すことなく、自分の記憶にある出来事を、僕が全く覚えていないことを責めることもしなかった。
電車が地下に入ると程なく下車駅の四条に到着した。
「どこ行くのか、聞いてへんねんけど」
「今日はいっぱいお話ししたいから、まずは語り合う定番の場所ね」
そうか。ここまで来れば言わずもがなだ。駅の自動販売機でペットボトルのドリンクを買って、そこへ向かった。
橋を渡り、短い階段を降りると到着するそこは『鴨川土手』。恋人たちが寄り添い語り合う場所の定番。適当な場所に二人ならび腰を下ろした。
「私から話す? それよりヒロくんが質問する方がいいよね。頭の中ごちゃごちゃなんやろから、聞きたいとこから、どうぞ」
まるで僕の心を読んでるみたいで、ちょっと怖い。
「ほな、聞くけど」
相沢智美はこれからの僕の問いに真摯に答える準備でもしているように、覚悟を決めたように、正面を向いて対岸を見詰めたまま、うんと、小さく首を縦に振った。
「おまたせって?」
「へ? まずそこ? そうきたか。でも、もっと聞くことあるんちゃうん?」
「そうかもしれんけど……」
相沢智美はキョトンとした顔をすぐに笑みに変え、僕の中でバラバラになって存在する疑問を紡ぐように、散らかったパズルを合わせるように、話してくれた。
まず僕は彼女と約束をしていたと告げられた。幼い頃の他愛ない約束なんて覚えているわけがない。でも、彼女は覚えていた。またその約束が絶対に守られない、叶えられないと諦めてもいた。しかしそれは高校の入学式に覆される。そう僕が目の前に現れたからだ。
約束は二つあったと言う。一つは幼稚園に通っていた頃、僕が将来、相沢智美をお嫁さんにするというもの。これは誰にでもよくある話で、ちっちゃな子供の微笑ましいエピソードだ。「パパのお嫁さんになる」と言うくらいの戯言だ。覚えている方がおかしい。
もう一つは、小学校の四年生の時、冷やかしがピークを過ぎた頃だったそうだ。中学生か高校生になったらちゃんと付き合おうねと、彼女から言われ、僕は恥ずかしさを誤魔化すようように、はにかみながら、可愛くなってたらと答えたそうだ。その時彼女が、初デートはここがいいと言ったらしい。その後僕は転校したわけだけど、彼女にも引っ越すことを伝えずに学校を去った。五年生に進級し、新しいクラス分けが発表された中に、僕がいないことを知った時から、彼女は徐々に変わり始めたそうだ。一人でいることを望むようになり、本を読んだり得意だった絵を描いたりと、仲のよかったクラスメイトも遠ざけるようになり、中学生に上がると漫画の世界にハマり、自分でも漫画を描くようになった。得意なジャンルがあったわけではなかったらしいが、『類は友を呼ぶ』の言葉通り、自然と彼女の周りにはアニメ好き、漫画好きが集まるようになり、うっすらとあった自暴自棄も重なり、あの集団の一員となっていったそうだ。
そして高校の入学式の日に僕を見つけるわけだけど、約束は守られない、絶対に一生会うことがないと思って、ある意味女性を放棄して、自分の身なりを構っていなかったことを後悔し、その日から女子力を高める日々が始まったのだとか。
それでも、数年間築いてきたコミュニティーを抜け出すことができない。居心地が良かったことは確かで、その中で過ごす日々は、それなりに楽しかった。すぐにそこを離れるなんて考えられなかった。女子のグループというのは面倒で、個人の変化を嫌うらしい。またその異物を排除することも容易にしてしまう。それでも意を決して夏休みにはジムに通い始め、メガネからコンタクトに変え、普段着も流行りの情報を集め、学校以外では女の子らしくする努力を続けたそうだ。去年の夏休みにジムの前で見た彼女はやっぱり本人だった。あの日はトレーナーに成果を褒められ嬉しくてはしゃぎ気味に階段を降りたところ、まさかの僕の目撃に、思わずスーパーに駆け込んだそうだ。
相沢智美は僕が言った「可愛くなってたら」をなんとか叶えようと努力し続けた。並行して、それとなく僕のことを耳に入れることもしていたという。好きな女の子のタイプや、好きな食べ物、得意な教科や、苦手な教師などを少しずつ蓄積していった。それと特別な異性の友達のことなども…… でもそれは稀有に終わったと言われた。しかも去年の早い段階で、考えなくても良さそうとの判断をしたと笑って言われた。事実だけど、わかってもいるけど、なんだかちょっと悔しい。そうやって一年半、やっと自分の納得できるレベルまでになり、状況、環境が整い、あの手紙を書いた。なので「おまたせ」だそうだ。
ここまで一途に思われていたのは正直嬉しい。だが、決して異性にモテるとは言えない僕が、彼女にはそれだけの努力に値する男だと見えたことが信じられない。
今の相沢智美は入学式の日、廊下で彼女とすれ違う前に僕が想像していた以上に可愛い。スタイルも良く、すごく明るい。友達のことを気遣いながら、それでも、楽しそうに話す彼女は優しく素敵だ。その上、僕のことを一途に想い、努力を惜しまなかった相沢智美は、理想をはるかに超えてここにいる。今日の相沢智美に一目惚れしてしまった僕は、小四の時にしたと言われる約束を守る。
「えっと、こんな僕だけど付き合ってくれる?」
「もちろん。喜んで」
彼女は二人の間にあったペットボトルを摘み上げると、
「よっこいしょっと」
そう言って腰を少し浮かせ、肩が触れ合うほど近づいた。
約束をしたと言われる通り、可愛くなった相沢智美と付き合うことになった。でもこれって一目惚れになるのかな。
「そうや。さっきの藤森駅はなんやったん? 覚えてる?とか訊いてたやん」
「大事な二つの記憶が無いのに覚えてるわけ無いわなぁ」
冗談ぽく僕をからかいながら、話を進めた。
「堀江先生は覚えてるやろ。担任やった先生。三年の時、先生の住んでたアパートに行ったの覚えてるかな?」
そこまで聞いて少し思い出した。みんなで行こうと話し合い、十人ほどで伺う予定をしていたのに、日が近づくにつれ参加人数が減り、当日になって行けないと言い出す奴もいて、結局彼女と二人でお邪魔することになった。
「そういえば、最終的に二人になったよな」
また、彼女はフフフと笑って、そうそうと相槌を打った。
「それしか覚えてない?」
何か他にあっただろうか。記憶のツボに手を突っ込んで引っ掻き回したが、指先に絡むほどのものも見つけられなかった。
「あの日先生は、私らのためにカレー作ってくれてたやん」
……そうだったっけか。
「でも結局二人しかけぇへんかったから、余るのもったいないからって、先生の彼氏呼んだやんか。みんなには内緒とか言うて」
……うーん。覚えてない。
「そん時、うちらが幼馴染で、幼稚園の時にヒロくんが私のことお嫁さんにしてくれるって約束してくれてん。とか言うたら」
「そんな恥ずかしい会話してたんか、よう覚えてるな。で、言うたら?」
「うん。ほしたらな、彼氏さんが、俺も先生をお嫁さにするって、その場でプロポーーズ!!」
「そんなことあったんや。ほんまに覚えてへんわ。それはそうと、えらい楽しそうやな」
「うん。だって、二人はめでたく結婚しましたー。おめでとうー、パチパチ」
彼女は嬉しそうに擬音を交え、手を叩くと、両手を大きく上げた。
本当に細かいことまでよく覚えている。すごい記憶力だと感心する。
「先生と彼氏さん、あ、もう旦那さんか、が私ら二人にお礼言いたいって言うてたから、今度遊びに行ってみよ」
堀江先生は現在、僕がかつて住んでいたアパートの近くで、その旦那と三歳になる男の子と三人で暮らしているそうだ。
この日二人は時間を忘れ、話をした。離れていた約七年を一気に埋めるのではないかと思うくらいに夢中になった。とは言うものの、喋っているのは彼女の方が圧倒的に多い。身振り手振りを交え、時には大声で笑いながら話す彼女は、学校で見るあのグループの中にいる俯き加減の暗い女子からは、全く想像ができない別人だった。そんな話の中、小学生の頃のように冷やかされない様に、二人が付き合っていることはしばらく内緒にしようと、意見は一致した。
月曜日、学校では、あのいつものメンバーがいつものように集まっている。もちろん相沢智美もそこにいる。昨日と違い、髪の毛は束ねられることなく下ろされ、あのメガネをかけ、そこにいる。先週と何も変わることなく、そこにいる。もちろん僕は声をかけない。彼女とは校内で口を聞くことはない。なるべく目も合わさないように心がけた。
ある日、ずっと彼女が「恥かしいから」と言って見せてくれなかった作品を、ひょんなきっかけでネットの中に見つけ、読む機会を得た。その内容は、度を越した優しさしか取り柄の無いお人好しが、自分の意思とは無関係に、クラスの女の子を救ってしまうヒーローものだった。
というわけで、前言撤回。ご都合主義は存在した。奇跡は起こった。こんなことってあるんだね。小説より奇だった事実。それよりも、もっと希な出来事を経験した僕は、一生分の幸運を使い切ったのではないかと今でも思っている。そんな感じに振り返った約十年前の物語。それ以上に奇と言える出来事は、その後は起こっていない。起伏なく至って普通に時間は流れている。
「みゆきー、パパのアイフォン借りてきてぇー!! 早く早く!!」
今日も、庭にある日曜日の午後の賑やかさが、やっぱり日常だ。ママに言われ、僕のアトリエに入ってきた幼稚園に通うようになった娘に、アイフォンを手渡した。
二人の楽しそうな声が、春の柔らかな風に乗って、大きく開かれた窓から部屋に流れ込む。
庭からの声が聞こえなくなり、廊下をパタパタと急ぎ足な音が近づいた。
「見て見て」と言いながら飛び込んで来た智美が手にするアイフォンには、孵ったばかりの小さな沢山のカマキリの子供が、その卵と一緒に写っていた。
表現力の無さが如実に表れていますが、しょうがないです。諦めています。
そんなものをお読み頂き有難うございました。
「お前の妄想やろ」はい、その通りです。
そういう物語もここでは許されると勝手に思っています。
沢山の助言を下さった方々には本当に感謝しております。
今後とも宜しくお願いいたします。