Ⅴ
次の朝、杜一は鳴り響く目覚まし時計の音で目を覚ました。
昨日のような寝過ごしがなかったため、苫利は起こしに部屋には来ていなかった。
昨日寝たのは何時だっただろうか、いや、12時を過ぎていたとしたら寝たのは今日か、どちらにせよ、彼はよく寝たとは感じなかった。
窓からは冷たい秋風が金木犀の香りを連れて流れ込む。開けたたま寝ていたようだ。
肉が焼けるような匂いを嗅ぎつつ、一階へ下りる。
何があったのか、母と苫利が驚いた様子でテレビを見ていた。
気になる面持ちでそれを覗く。初めは何だかわからなかったが、よく思案すると、とんでもないことだ、そう感じた。
建武高校の校長が殺された。
うなじから血を流している状態で発見され、樹湖近辺を流れる間蘇川の川下に遺体が浮かんでいたらしい。
学校側は急遽臨時休校という形をとり、今後の事件の動きに即して、入試が見送りになる可能性がある、そう発表した。
光留にこれを見せるわけにはいかない、そう杜一は2人に訴えた。
しかし、彼はいずれこのことを知ることになる。ただの時間稼ぎにしかならない、杜一はそのことに心中気づいていながらも、しかしそうするしかなかった。
何食わぬ顔で光留が下りてきた。あまりに自然な日常を演じる家族の姿が、彼にはかえって不自然に思えた。
「そ、そういえば杜一。お父さん祭りには来れるらしいわよ、、。」
日常を装う母の言葉が飛んだ。
「来るんだ、なら一層頑張らないとな、、。」
日常を装う兄はそう答える。そして日常を装う執事は、小鳥を眺めるようにその家族を見守った。
兄はいつもと変わらない瞳で弟を見つめようとする。頭を不意によぎった情景を、何とかして粉砕しようとした。
その光景に何が写っていたのか、彼は思い出そうとはしなかった。
その日、杜一はいまいち学校の講義に集中できなかった。
何も光留の夢が完全に閉ざされた訳ではない、それはわかっていた。
何もやる気が起きない、不安だけを頭に居座らせていた彼は、具合が悪いから今日は休むと益弥に伝え、軽い足を歩かせて家へ帰っていった。
家に着いた時、光留はすでに帰ってきていた。
「ただいま。」
普段通りに接するが、彼からの「おかえり」は聞こえてこない。
学校で事件のことを聞いたのだろう。いつもより口数が少なく、腑抜けた顔をしていた。
1階に下りてこようともせず、夕飯も部屋で1人で食べていた。
慰めようとするも、そんな勇気が出ない自分に、兄は怒りを募らせていた。
昨日、弟の笑顔が目に焼き付いた理由、それが僅かにわかった気がした。
--------不安に暮れる一本の木を背景に、歪んだ物語に足を踏み入れた若き警察官とその上司は、事件現場である間蘇川に到着していた。
「黒崎さん、遅くなりました。」
2人は服装を正しつつ、薄赤く染まった川を眺める男性のもとへ駆け寄った。
黒崎厭は、一連の事件への対応策として、警視庁から県警捜査一課に派遣された刑事である。かつて、功労賞を授与されたこともあった。
「おう、四宮、寿都、来たか。」
ちょっと一礼した後、四宮が尋ねる。高槻にはメモをとる準備をさせている。
「遺体は?もう…」
「運んである。うなじがばっさりだ。犯人様は相当ナイフ使いが上手いようだ。」
ナイフ?高槻がつぶやく。
それを聞いた黒崎は、手に持っていた袋を2人に見せた。
刃先を赤く染めた一本のナイフが入っている。
「凶器と思われるブツだ、戻ったら鑑識に渡しといてくれ。」
高槻にそれを手渡す。彼の頭の中に、ある疑問が浮かんだ。
『凶器がある』それがその正体であった。
「犯人は今まで、凶器なんか1つも残さず犯行を繰り返してきました。犯人の不手際であったとしても、さすがに不可解すぎ…」
口を続けようとする彼を、四宮が咄嗟に黙らせる。前では黒崎がカラカラ笑っている。
「フハッ、じゃあよろしく頼む。寿都、一昨日の蕪が無駄にならないことを願ってるぞ。」
警視庁側での用があるらしく、黒崎はその場を去っていった。
高槻たちもパトカーに乗り込み、署へと帰り始める。
その最中、四宮は高槻には怒りつける。黒崎への軽率な発言はやめろ、だとか。
間違ったことは言ってないにしろ、少しでしゃばりすぎた、彼はそう自覚した。
-------------夜が明けた。-------------
土曜日だ。休日の日差しはいつもより痛々しく感じる。
杜一も光留も今日は学校が休みであった。
しかし杜一には祭りの運営の仕事がある。昨日休んだ分、今日はやらないと。
家を出る際、起きてきた光留と対面した。
「おはよう。」
弟は小声でそう言った。いや、呟いた。
慰めるなら今しかない。兄はそう感じた。
「光留、建武高校のことは残念だったけど、まだ行けないって決まった訳じゃないんだから、元気出せよな。何かあれば俺も何でも聞くから。」
自分としてはいい感じに労ったつもりだった。
「お兄ちゃんに何がわかるんだよ、夢が叶ったお兄ちゃんに…。」
光留は壁を一殴りする。棚に飾ってある鉢が揺れ、落ちそうになった。
彼はそのまま部屋へと戻っていってしまった。話を聞いていた苫利は、杜一に、「今はそっとしてあげましょう」そう告げる。
兄としてやった行動が、かえって弟を傷つけてしまった。そんな自分の情けなさに、再び杜一は怒りの矛先を自分に向けた。
苫利の言ったとおりに、彼はシャトーへと向かった。
一方光留も、兄は自分を宥めようとしてくれた、そのことはわかっていた。自分の中の苛立ちを兄にぶつけてしまった、そんな罪悪感にみまわれていた。
自分は何て馬鹿なんだ、気力を失った彼は再びベットに寝転がった。
彼が再び目覚めたのは朝10時。まだ気分は晴れない。
外に出て気分を晴らしに行こう、母にも告げずに、光留は家を出て行った。
太陽は雲に隠れていた。日光も当たらず、少し肌寒い。
中学への通学路を歩きながら、兄に何て謝ればいいか、彼は考えていた。考えすぎていた。
----サササササ----
狂気の香りを漂わせながら近づく影の存在に、光留は気づいていなかった。
その存在に気づいたと同時に、彼はアスファルトの上に倒れ込む。
彼が最後に見たものは、道の端に咲く、一輪のアザミだった。