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 紅竜の神殿の食堂で、ここには似つかわしくもないドレスを纏いながら溜息を吐く。

 目の前に置かれたお茶から湯気が上がって、どうぞ飲んでくださいとばかりに芳しい香りが鼻腔をくすぐる。

「あーあ。めんどくさい」

 考えるよりも先にボヤキが口から湧き出してくる。ぎょっとした顔の神官たちが振り返るけれど、正直どうだっていいって感じ。だって、誰もわたしに文句なんて言えっこない。

 とてもとても優秀で伝説的な巫女で、現在は神官長として神殿を切り盛りする母の御意向を慮って、ううん御威光に逆らうなんてこと出来なくって、みーんなソッポを向く位しか出来ないんだもの。

 ばっかばかしい。

 今も昔も、そう思ってる。

 奇跡の巫女、そんなものどうだっていいのに。お母様の馬鹿っ。


 物心ついた時から、母はいなかった。

 死別したわけではなく、母は紅竜の神殿の神官長になっていたから、わたしの傍にはいなかった。

 溺愛してくれる父も、年の半分は王宮にはいなかった。

 お仕事だから忙しいんだよと言って兄は笑うけれど、わたしは二人に捨てられたんだってずっと思っていた。

 たまーに、たまに。ごくごく偶に、母の姿を見ることがあった。

 紅竜の大祭というお祭の時、父は兄とわたしを神殿に連れて行って母に会わせてくれた。

 豪奢な衣装を纏って祭事を取り仕切る巫女よりも、飾り気の無い紅色に染められた衣を纏った母のほうが威厳があるように見えたのは、多分子供ゆえの贔屓目だろう。

 いつもいつも、背中か横顔しか見せてくれない母が、その日だけは抱きしめてくれる。

「大きくなったわね」

 毎年同じ事を言う。小さかったわたしは、母が恋しいと思って当然なはずなのに、そうは思わなかった。

 生みの母より、育ての母。

 実際にわたしを慈しみ育ててくれた、王妃であり兄の義母。そして母の前の神官長である小母様。

 二人がいてくれたから、別に目の前の紅色の衣を身に纏った母のことを思って泣いた事もなかった。ただ、こんな風に威厳があって美しい人が母なんだって、それがすごく誇らしかった。

「元気そうだね」

 いつもは兄やわたしの事しか目に入らないといった様子の父が、母を前にすると全く違った顔を見せる。

「ええ。とっても元気よ。だから心配しないでね」

 母の言葉に、父は目を細めて愛おしそうに微笑む。

 子供ながらに、ああ、お父様はお母様の事がお好きなんだわと思ったくらいに。

 互いに互いを思いやり、離れていても深い絆で結ばれている両親の愛情が、とてもとても素敵だと思っていた、馬鹿なわたし。

 紅色の瞳。

 それがわたしが母から受け継いだもの。それが意味するものを理解する事は、実際にこの神殿に呼ばれるまで意識した事なんて無かった。ただの珍しい瞳くらいにしか思ってもいなかった。


 あの日は冬だった。

 雪が降り始めた火の山に呼ばれ、母の前に神官たちとともに頭を垂れる。

 これで母と同じ「巫女」になれるんだ。どれだけ心が躍ったことだろう。どれだけこの日を待った事だろう。

 奇跡の巫女と呼ばれる母と同じ「巫女」になれる。それがどれだけ嬉しかったことか。

「お待ちしておりました。次代の巫女よ。紅竜様のお召しにより、次の大祭よりあなたが紅竜の巫女となります。その為にこちらで事前に教育を施したいと思います。わからない事があれば、どのようなことでも構いませんから私でも神官でも質問して下さい」

 母の素っ気無い他人行儀な言葉に、夢に描いていた感動の場面は打ち砕かれる。

 左右に神官たちを侍らせ、まるで女王のように母は私を見下ろしている。

「今日からあなたの教育にあたっては、幾人かの神官を付けます。おそらく立ち居振る舞いなどの部分に関しては問題ないでしょうから、それ以外の巫女としての基本的な知識や神官としての基礎を叩き込む事になるかと思います。詳しくは後程指導係の神官より説明があるかと思います。今日は長旅で疲れているでしょうから、明日から研修を行いたいと思います」

 冷たい瞳。まるで感情なんて無い、氷の女王みたい。

 呆然と見上げるわたしに、いつものように微笑みかけてもくれない。

「以上です」

 そう言うと、ポンポンと書類を大きな(後に執務用の机と知ったけれど)机の上で音を立てて束ね、目を細めて口元を笑みの形に変える。

 笑ってなんか無い。その顔が怖かった。

「そう。今日からあなたは次代様と呼ばれます。この神殿において外での名を使う事は禁じられております。よろしいですね」

「はい」

 それ以外の答えなんて、母改め神官長は望んでいないようだった。

 初めての母からの拒絶に、わたしは王宮よりもずっと質素な神殿の部屋のベッドの中で悶々とした気持ちを持て余していた。

 どうしてあんな風に冷たいの。いつもなら笑って髪を撫でてくれるのに。

 どうしてもっと喜んでくれないの。これからはずっと一緒にここで暮らしていけるのに。

 悲しくて、ここに連れて来られたことを後悔した。

 母の幻想を抱えて生きていたほうが、ずっと幸せだった。現実の母は、わたしにはとっても冷たすぎたから。

 それからの日々、どこかで本当の母はこんな風にわたしに冷たくしたりしないっていう幻想と、現実の冷淡な母とのギャップに苦しめられた。

 冬の寒い日の雑巾絞りとはまた別の冷たさで、心が麻痺していくようだった。

 幾日も幾日も、果てなく繰り返される掃除修行。神殿史の勉強。それから巫女としての心得。

 わたしは王女なのよ。あなたの娘なのよ。

 顔色一つ変えずに窓枠を拭くわたしの姿を見つめる母に、何度言いたくなったことか。

 母だけじゃなかった。

 以前から知っていた神官たちも、皆一様に素っ気ない。

 手品をして見せてくれた片目だって、飴玉をくれたりした助手だって、みんなわたしと目が合っても目礼して去っていってしまう。どうして巫女になると決まった途端、みんな冷たくなってしまったのだろう。

 拒絶されているんじゃないだろうか。

 ふとそんな事が頭を過ぎり、いたたまれなくなった。

 紅竜から母へと、そして母からわたしへと受け継がれた紅の瞳。この世で誰一人持っていない紅の双眼。

 この神殿にとってわたしは特別なんじゃないかって思っていたけれど、それは驕りにしか過ぎなかったのね。他の巫女たちとわたしは何ら変わらない存在でしかなかったのね。

 特別なんかじゃない。

 それが母や神官たちの下した答だったんだ。だからみんな冷たいんだ。

 なんか、馬鹿みたい。浮かれて神殿にやってきて。

 誰にも涙なんて見られなくなかったから、こっそり夜中に布団を被って声を押し殺して泣いた。

 こんな無様なわたし。はっきり言ってみっともない以外の何者でもないわ。

 紅竜に選ばれたの。

 でも選ばれて当然だと思っていたの。

 王家の姫なんですもの。あの奇跡の巫女を母に持ち、紅竜と同じ紅を持つ唯一人の人間なのよ。選ばれないわけがないわ。わたしが年頃になるのを、紅竜は心待ちにしていたはずよ。

 ふふんっと鼻で笑って王宮で語ったのが遠い昔のようで、それでいてつい昨日のようで恥ずかしい。

 選ばれて当然のわたしに、どうして皆冷たいのだろう。どうしてまるで何も出来ない小娘のように扱うのだろう。

 たった一人の直系の姫として、どこに出しても恥ずかしくないよう教育されているのに、ここにいるとわたしはまるで無能な田舎娘のように扱われる。

 掃除なんてしたことなくて当たり前じゃない。そんなことはわたしがするような事ではないわ。

 理屈としては判る。

 他の誰も立ち入る事の出来ない場所に入る巫女だけしか、紅竜の鎮座ましますところを清める事が出来ないという事は。だけれど、今窓掃除や床掃除をさせられることが、どうして巫女としてのそれと繋がるっていうのかしら。

 角に汚れが残っているとか、指紋がついているとか。

 そんな事、巫女になった後に必要なことではないでしょう。

 本当にこの紅竜の神殿っていうのは古臭くて堅苦しくて、母とわたしをいつも切り離そうとする。

「失礼します」

 我慢出来なくて、夜が更けてから母の私室を訪れる。

 私室だというのに中にはまだ神官たちも女官たちもいて、執務室の中にいるのと全く変わらないかのように母は書類を開いている。

「どうしましたか」

 パタンと机の上の書物を閉じ、書類をその上に置いてわたしを見つめる。

 もしかしたら私室の中だったら、素っ気無い態度を取ったりしないかもしれないっていう一縷の望みはあっという間に砕かれた。

 わたしを見ているのに、わたしのことなんてこれっぽっちも見ていない。それどころか、脇にいる神官を見上げて指示を出していてわたしなんか見もしない。

「何かありましたか」

 苛々を抱えるわたしの心中なんてお構いなしの問い掛けに、知らず知らず両手の拳を握り締める。

 ここにいるよ。わたしを見てよ。わたしはあなたの娘なんでしょう。

 声に出せない本音が、ぎゅっと胸を締め付ける。

「何でもありません。失礼致しました」

 回れ右をして母に背を向けて扉に手を掛ける。

 何か言ってくれるかもしれないなんて、まだ期待していたわたしは父流に言えば「どあほう」だ。

「そう。何か不安に思うことがあれば、何でも言って下さいね」

 どこまでも他人行儀な母は、決してわたしを「娘」としては見てくれないようだ。どこまでもわたしは「次代の巫女」なんだ。

 それからは何かを期待することは止めた。

 淡々と、与えられた課題を片付ける事に集中し続けた。手が荒れるのも厭わず冷水で雑巾を絞り、今は眠っているらしい水竜の神殿のあらましからの歴史を頭に叩き込み、巫女らしく巫女らしくなろうと努力し続けた。

 それだけが求められていることであって、母は娘との時間を持とうなんて思ってはいない。

 割り切ればなんてことはない。母は物心ついた時から傍にはいなかった。今もそれは変わらないんだ。そう思えばいい。

 時々、紅竜の姿を火の山の麓である神殿の中央の広場や、大空で見かける。

 その姿を見る度に、目で追いかけ続けずにはいられない。

 どうしてわたしに紅を寄越したのよ。こんな瞳、いらなかったのに。本当にあなたにはわたしが必要なの? 母みたいに本当は必要としてないんじゃないの?

 問い掛けたって答えなんて返ってくるわけもない。

 ただただ、空を自由に翔ける竜が恨めしかった。


「いいわね、あなたは」

 わたしの前の紅竜の巫女であり今巫女と呼ばれる人が、溜息交じりに呟いた。

「どういう意味ですか」

 問いかけたわたしに、今巫女様は更に深い溜息を吐く。

「あなたは皆に求められて、生まれた日からずっと神官たちにも紅竜にも愛されて巫女になるのだもの」

 咄嗟に首を左右に強く振ると、今巫女様は眉をひそめる。

「そんな事ありません。たまたま瞳が紅かっただけで、別にみんなに愛されているなんて事ありません。寧ろ掃除一つ満足に出来ない不出来な巫女候補だと思われています」

「そうかしら。あなたが私の次の巫女ではなければ会わなくて済んだのにと思うくらい、私はあなたに嫉妬しているのに」

 嫉妬?

 どうしてそんな風に思うのだろう。わたしは疎まれているのに。誰にもここにいることを求められていないのに。

 本当に何故嫉妬するのかわからないのに、今巫女様は苦笑して悲しそうな顔をする。

「全てにおいて恵まれているあなたには私の気持ちなんてわからないわね」

 言い捨てられた言葉だけが、心に深く刻み込まれた。

 驕り高ぶっているように見えるのだろうか。謙虚な気持ちが足りないのだろうか。信心が足りないのだろうか。何故巫女たる人物にそのように思われてしまうのだろうか。

 それに巫女である人がそのように思うという事は、神官たちも、神官長である母もそんな風に思っているのかもしれない。

 わたしがここにいなければいいのに、と。


 巫女になる為に、一度王宮へと帰らなくてはならないその日、母はわたしには向けない笑顔を父に向かって投げかける。

「後はよろしくお願いしますね」

「ええ。お預かり致します」

 わたしにも他人行儀な母は、父にもやっぱり他人行儀だった。

 けれどその笑顔は父への溢れんばかりの愛情に満ちていた。言葉にも態度にも出さないけれど、瞳だけはどんな時よりも優しく蕩けそうだった。

 父もまた、手に触れる事さえ叶わない母を、視線だけで抱きしめているかのように、子供であるわたしにも見せないような甘ったるい顔をしていた。

 ふと神官たちの様子に目を向けると、神官長である母の腹心の部下たちは全く気にする素振りもなく、それぞれの役目をこなしていたり、無表情を決め込んでいた。

 王宮へと戻る馬車に乗り込むと、父が祭宮ではない父の顔へと表情を崩してわたしの頭を撫でる。

「大変だったか?」

「いいえと言えば嘘になります」

「そうか。お疲れ様と言ってやりたいが、これからのほうがもっと大変だろう。王宮に戻ったら少し息抜きが出来るといいな」

 ポンポンと頭を軽く撫でるようにしてから、父が微笑む。

「お母さんの仕事っぷりはどうだった」

 お母さん、ね。お父様はそんな風にお母様よりももっと親しみを籠めてお母さんと母を呼ぶけれど、わたしの中ではやっぱりあの人は母親っぽいところなんて一つもない。

 期待に添った答をしたほうがいいのかしら。

 そう思って父の顔を窺い見ると、父はくくくっと声を上げて笑う。

「ま、何となくわかった。その複雑そうな顔で」

「何がわかったの?」

「相変わらず仕事の鬼だったんだろうなと」

 ははっと声を上げて笑う父は、何がそんなに楽しいと言うのだろう。

「何も面白いことなんてありません」

 むっとしたわたしの頭にポンっと手を置いて、反対の手で自分の口元を押さえて父が笑う。

「彼女も大概不器用だからな」

 母のことを彼女と呼んだ父は一人得心がいった様子で、わたしの問い掛けには答えてはくれなかった。


 王宮に戻ると盛大に歓迎され、これでもかっていうくらい贅を尽くした儀式が行われ、そしてまた紅竜の神殿へと向かう。

 今度は神官と二人きりだ。

 長い道中ずっと無言というわけにもいかず、モヤモヤと滞留していた疑問が口をついて出てきてしまう。

「神官長って、どんな人なの?」

 問われた神官は目を丸くしてわたしを見つめる。それはそうよね、一応実の娘なのですから。

 けれど神官は何か疑問を投げかけたりする事もなく、少し考えてからゆっくりと口を開く。

「最後の水竜の巫女で、最初の紅竜の巫女。そして奇跡の巫女で類稀なる方。祭宮様の宮妃。そういった肩書きをお持ちの方です」

 そんな事知っているわ。水竜の巫女だったという事、紅竜の巫女としてこの神殿を作り上げた事。そして様々な奇跡を起こした事。お父様のたった一人の妃だっていう事。そんな事今更改めて言われるようなことではないわ。

 同い年くらいの神官は、巫女だった時の母がどのような巫女だったのかを目の当たりにはしていない。

 そして神官長である現在も、傍にはごくごく僅かな神官しか置かない人だから、人となりを知る事もないのだろう。

 聞いて馬鹿だったわ。

「そう」

 素っ気無く答え、移ろいゆく車窓を眺める。

 同じ道を馬車で通った数ヶ月前は、もっと楽しくてうきうきして心が弾むようだったのに、今は世界が灰色に変わってしまったようで溜息しか出てこない。

 紅竜の巫女になれる事が嬉しいなんて思った事もない。だってなるのが「当然」だと思っていたのだもの。

 母と同じ世界に足を踏み入れる事が嬉しくてしょうがなかった、あの日の自分の頭を殴りつけてやりたいわ。

「冷酷にして冷淡。完璧主義で秘密主義。そんな風に思う人も多いのではないかと思います。生きる伝説なんて呼ばれるくらいですし、近寄りがたいのは事実です」

 わたしの心中なんて全く気にならないようで、神官は話を続ける。

「けれどあの方に近い先輩たちはそのようには思っていらっしゃらないようです。特に巫女だった時をご存知の方々は」

 神官の話に興味を引かれ、視線を神官のほうに戻すと目が合う。

 何を思ったのかこくりと首を小さく縦に振り、神官は更に話を続ける。

「物事の表面だけをなぞるだけでは本質は見えてこない。そう神官長様ご自身もおっしゃっておられました。目に見えない部分にこそ、真実は隠れているのだと思います」

 母の姿がわたしにはちゃんと見えていないとでも言うのだろうか。

 腹を立てたりはしなかったが、あの冷たい母の横顔の反対側の顔が一体どんなものなのか、諦めきれない母への思慕が考えろとわたしに詰め寄ってくる。

 本当の母の姿。それは一体どのようなものなのだろう。

 決して答は出してくれない神官の謎掛けのような言葉に、今までよりもずっと母に会いたい気持ちが募っていった。


 炎の山の眼前で受け渡された一つの指輪。

 あっという間に霧散してしまったソレは、紅竜の力の証だという。

 けれど「紅竜の巫女」になったという変化はまるで無い。竜の声など聴こえず、何か力がみなぎってくるといった類の事もない。

 本当に巫女になったのだろうか。もしも巫女を辞退したりその能力が受け継がれなかった場合には神官長へとその力は継承されると聞いているけれど、もしかして母のところに「巫女の力」が移ってしまったのでは無いだろうか。

 振り返り、母の姿を探す。

 けれどどこにも母の姿は見えない。もしかしたら今も執務室の中で書類を眺めているのだろうか。それとも窓辺からわたしの姿を見つめているのだろうか。もしくは紅竜の声を聴き、空を翔けているのだろうか。

 母から受け継いだ紅の瞳があっても、所詮は母の娘でしかない。真に紅竜に愛されていたのは母なのだ。不出来な娘よりも、母のほうが紅竜もいいのかもしれない。

 炎を噴き上げる山を見つめ、そこにいない主へと心の中で問いかける。本当にわたしでいいの? と。

「変なところが似ているな。そなたは」

 澄んだ声が急に耳に響きわたる。至近距離で、まるで囁くように告げられた言葉に周囲を見回すけれど誰もいない。

「誰?」

 ふっと鼻で笑う声がして、その声がする方向へと目を向ける。

「あなた、誰?」

 今まで出会った誰よりも美しい女性に声を掛ける。ここは巫女以外は禁制の場所。どうして一般人がここに入り込んでいるのかしら。

 長い睫。切れ長の瞳。そして腰まで伸びた漆黒のウェーブ掛かった髪。妖艶ともいえるような色気のある体つき。

 神殿の中にいたのなら、絶対に気が付かないはずがない。それどころか、一度見かけたら一生忘れないような美女。そんな人がどうしてこんなところに紛れ込んでいるの。

「紛れ込んでいるとは言葉が悪い。我の愛し子でなければ雷の一つも落としてやるところだが」

 腰掛けていた岩から立ち上がり、美女はわたしの頬を撫でる。頭一つ高いスラっとした体型で、女性なのだけれどどことなく中性的な雰囲気を醸し出している。

 細くて形のいい指が頬をなぞり、ゆっくりと唇に触れる。

 不思議とそうされても恥ずかしいとかいった負の感情は浮かばず、その指先から瞳を逸らすことが出来ない。

「類稀なる者。そう呼ばれることになるな、我が愛し子よ」

「たぐいまれなるもの?」

「そうだ。我を視ることの出来る貴重な人材だ」

 クスクスと声を上げて笑う相手に小首を傾げる。何を言っているのかさっぱり意味を理解する事が出来ない。

 この女の人、一体誰なんだろう。

「すっとぼけてるのも大概にしろ。我こそはこの炎の山を統べる紅竜。今日よりそなたは我の巫女だ、アンジェリン」

 ん?

 竜って視えるものではないわよね。何が視えているというの。これが紅竜なの?

「これ呼ばわりは好かんな」

 自称紅竜はぎゅっとわたしを抱きしめたかと思うと、両手で軽々とまるで子供をたかいたかいするかのようにわたしを持ち上げて空へと掲げる。

「待っていた。アンジェリン。そなたが生まれた日からずっと、この日を待っていた」

 そしてまた二本の腕の中に捕らわれる。

「呼んでも呼んでもそなたは我の声に気付いてくれなかった。否、ある時から耳を塞いでしまったかのように、我の事を拒絶していた。やっとこの腕に抱きしめられる。アンジェリン」

 甘い愛の告白のような言葉に、耳が熱くなっていく。

 どうしてそんな風にわたしを抱きしめるの? どうして心から愛しているかのように優しい瞳でわたしを見るの?

「そなたは子を為す事の出来ぬ我にとって、たった一人の娘のようなものだ。そなたの母が我に遺してくれた奇跡。まだそのことに誰も気付いてはおらぬが、そなたには我の血が流れておる」

「竜の?」

「そうじゃ、嫌か?」

「そう言われても、ちょっと想像がつかないわ。だってわたしの母は神官長で、父は祭宮で、どこにあなたの血が混ざっているというの」

 ふふっと紅竜が声を上げて笑う。

「それは内緒じゃ。何から何まで種明かしをしてはつまらぬだろう。そなたはそなたの母だけが恋しいのだろうが、我は我でそなたを形成するものの一つである事には変わらぬ」

 言っている意味がさっぱりわからない。でも、紅竜はとっても嬉しそうだ。わたしを抱きしめ、何度も何度も撫でるように髪に触れる。

「ずっとそなたに会ったら謝ろうと思っていた。そなたから母を奪って済まなかったな」

 突然の謝罪に頭を殴られたような衝撃を受ける。

「そんなこと、別に紅竜のせいじゃないわ」

「いや。サーシャもサーシャで大概強情だから本心など言わぬであろう。あれはあれで本当に全くもう……」

 はあっと溜息を吐く紅竜の様子がおかしい。まるでお父様が母のことを言う時のようで。

 けれど本当に紅竜が何かをしたわけじゃないもの。だから、謝られるようなことじゃないわ。

「見せてやる。真実を」

 大きな掌で塞がれた目の中に、様々な光景が浮かんでは消える。

「あの子、大丈夫かしら。紅竜の姿は見えないけれど」

 不安そうな顔で背後に控える神官へと声を掛け、そしてぎゅっとレースのカーテンを握ったままこちらを見つめている。

 今まで見たことがないような母の姿。

「やっぱりもう少しそばで見守っていてはいけないかしら」

「それをしてしまっては、今までの全てが台無しになりますよ、神官長様」

「そうよね」

 落胆の声を漏らす姿は、紅の衣を翻して冷徹な表情を浮かべている母とは全く別の、もう一つの本当の顔。

 場面は忙しなく切り替わる。

 今よりもずっとずっと若い母がわたしへと手を差し伸べる。それはもしかしたら赤ん坊だったわたしへと伸ばされている手なのかもしれない。

「アンジェリン。リン。愛しているわ」

 抱きしめて頬ずりして、そして頬にキスを落とした母の顔は幸福に満ち溢れている。

 最後に見たその場面に、知らず知らず涙が零れる。

 都合のいい幻なのかもしれない。それでも、ずっとずっとその光景を渇望していた自分がいたことを思い知る。

「我はそなたたちをここに縫い付けて離したくない。アン、お前の人生を我にくれるか」

 アンと、まるで父や兄が呼ぶように紅竜がわたしの事を呼ぶ。母だけがわたしのことをリンと呼ぶ。もう何年もその名で呼ばれてはいないけれど。

「わたしは百人子供を産まなくてもいいの?」

 クスっと紅竜が笑い、そしてくしゃっと頭を撫でる。

「それはいつか必ず生んでもらわなくては困る。そしてサーシャやアンの血が世界中に広がっていってくれなくては我が困るからな。だが、母のようにここに縛られる事は変わりない。それでも構わないか」

 真摯な瞳から目を逸らし、紅竜から一歩下がり、紅竜の神殿へと目を向ける。

「わたしね、ずっと巫女になるのだと思っていたの。そしていつか神官長になるんだろうと思って育ってきたの。実際そのように教育されてきたわ。だからそうやって生きていくのだと思うわ」

 出来る限り感情を排し答えると、紅竜は一瞬眉をひそめる。

「そうやってしかお母様の事を知ることは出来ないでしょう」

「悪かったな」

「いいの。わたしはわたし。わたしなりの人生を歩むわ。けれどこの紅がある限り、わたしはずっと紅竜の神殿と繋がって生きていくの。けれどそれが当たり前だと思っていたから、今更疑問にも思わないわ」

「そうか。いつかそなたを救う恋に出会える事を、我は望む。サーシャが祭宮に助けられたようにな」

 お父様が母を助けた。そうなのかしら。恋が人を変えるなんて、今のわたしには全くわからないことだけれど。

 一体二人の間にどれだけの物語があったのだろう。どのような人生を二人は選んできたのだろう。いつかそれを知る日がくるのかしら。



「で、恋は出来たのか?」

 頭の中には聞き覚えのある声が響く。

 この声が聴こえ続けている事は紅竜とわたしだけの秘密。

「まーだ。だから早く誰か王家に連なる巫女を選んでよ。そうしないと子供産めないわよ」

 くくくっと笑い声が響く。

 やっぱり紅竜の神殿にいる時は、普段よりも鮮明にその声が聴こえるわ。

「とりあえずお父様に恋物語を聞いて、事前にイメージトレーニングしているの。一体二人の間にどんな歴史があるのかしら。あの鉄の女とさえ呼ばれたお母様があんな風に甘える姿を見る日が来るとは思わなかったわ。超楽しいっ」

 あははははと笑い声が大きくなる。

「よっぽどアンにはいいところを見せたかったのだろうな。恐らくサーシャの周りの人間はあれのことを鉄の女などとは思っていないぞ。総評するとびっくり箱だからな」

「そうなの? えー、全然そんなところ知らないわ。寧ろ今回の事でだいぶびっくりしているのよ。まあ執事も片目も助手もみんな平然としているから、あれが本性なのかもしれないけれど」

 ぶっと紅竜が噴き出す。

「本性、か。いい機会だから過去を聞いてみるといい。大分印象が変わると思うぞ」

「そうなんだ。じゃあ楽しみだから、お父様に話の続きを聞いてくるわ」

 頭の中の回路を切り、食堂の椅子から立ち上がる。

 本当のお母様って一体どんな人なのかしら。いつもの冷たい表情の裏にあるものってどんなものなのかしら。

 それにお母様を毒殺しようとしたっていうお父様の疑惑。それの真相も気になるわ。

 あの夫婦、ただの年甲斐も無くベタベタしている夫婦ってだけじゃなさそうなのよね。すっごい興味をそそるわ。お父様とお母様の恋、か。実の両親のコイバナ聞くのってちょっと微妙に恥ずかしいけれどね。

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