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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。

霧の中で咲いた花。

作者: 童の簪
掲載日:2026/06/01

カクヨムにも投稿しております。

お手柔らかに。



 人隠しの森。

 今は昔、そう名付けられ、恐れられた森林地帯があった。


 年中濃い霧が立ち込めて、足を踏み入れれば日中すらも日と方角を見失い、縦横無尽に走る獣道、急峻な地形と相まって、遭難者が後を立たない事に由来する。


 さらに、その森には奇妙な噂もあった。


 曰く、魔女が出る、と。


 人食い、人買い、人攫い。

 かの者に隠された末路の噂が尾びれ背びれを生やし、まことしやかに囁かれ、町の者たちはその魔女を大層恐れた。

 故に、町の者は誰一人として、豊かな恵を持つはずのその森へは決して近づく事がなかった。


 時は過ぎ、ある出来事を境に、突如として森を覆っていた霧が晴れた。


 それは吉兆か凶兆か。

 色めく町民達は、未だに誰1人として知らない。


 森の奥。

 木々に隠れ、寂れた庵。

 崩れかけの屋根を覆うほど咲き狂う。

 誇り高く美しくも、儚げに揺れる白銀の花畑を。


 これは、もはや誰も語らぬ物語。







 それは、未だ森が霧で閉ざされていた時代の話。


 人の住まう町から、無数の木々と丘、幾つも崖と川、そして濃霧に隠された窪地にて、その風変わりな家はあった。

 もし、町の者たちが見れたのなら、それは凝った木組みの平たいログハウスと評するであろう建築物。


 そこには1人の魔女が住んでいた。


 日没が近づく薄暗い時分。

 板張りの床上にその魔女は居た。

 硬い床に何も敷かず、足を畳んで姿勢良く座す姿形は若い女性の輪郭を取るものの、やはりその出で立ちは異端と言える。


 幾枚もの布を張り合わせて作った、外套の様に大きな布地を纏い、腰紐で余った布地を縛り抑える異聞の格好。

 ユリの花弁を連想させる、淑やかな白銀の髪を無造作に流すかんばせは、しかし怪しげな黒い布の仮面で隠されている。


 彼女の奇妙さは外見だけに留まらず、その行動にも現れていた。


 ふらりと立ち上がると腕を捲り上げ、明かりとして灯していたロウソクの火に歩み寄る。

 そして、不意に己の腕を焼いた。


 炙られた皮膚はたちまち赤黒く染まり、代わりに立ち上るは白煙。

 辺りに漂うは肌を焼く煙の臭い、ではなく、生木を熱したような燻の臭い。


 家中を燻すほど煙を焼き出した魔女は、処置もせず腕を服の下に仕舞い、引き戸を開ける。


 天井を悠々と泳いでいた白煙は、逃げ場を得た魚のように外へ飛び出し、やがて森を覆う霧に溶けた。

 一段と濃くなった霧を、面越しに虚ろな目でしばらく眺め、やがて興味が失せたように視線を外す。


 後ろ手で戸を閉める最中、近付いてく足音を聞いた魔女はその手を止めた。


「かみさまー。チセが来ましたよー」


 幼い、と評すには発音が滑らかで張りがあり。

 若い、と評すにはやや声高で子供らしい声色。

 霧に薄らと現れる輪郭は未成熟な少女の物。


 それを横目で見た魔女は少し考え、結局引き戸を閉めた。


「こんばんは!」


 人里離れた森の奥地の奇妙な家で、勢いよく滑った戸が木枠を強かに打つ音と、妙に威勢の良い生娘の声が響き渡った。


 引き戸には鍵などと言う上等な物は付いておらず、声の主にとっては何の障害にもならなかった。

 魔女は面の下で小さくため息を吐き、闖入者に何百回目にもなる苦言を吐いた。


「……チセ。もう来ないで、と何度言えば聞いてくれるの?」


 チセと名乗り、そう呼ばれた彼女は、成長期の只中とも言える年頃の少女だった。


「はい! 何度も拝聴しています!」


 魔女の苦情など何処吹く風と、彼女は山道を踏破した靴を脱ぎ捨て、勝手知ったる我が家のように、家主の許可も無く上がり込んだ。


「あ、神様、トマトお好きですか? とっても甘いのがあるんですよ。あとじゃがいもと、チーズも持って来ました」


 適当にハサミを入れただけの、やや荒れた黒髪を揺らし、背負って来た籠から大量の食材を床に並べ、今晩の夕食分と翌日以降の保存用を仕分け始めた。


「チセ」

「あ、神様また霧を出しましたね!? 火傷の薬ってまだありましたっけ……」


 相変わらず話を聞かない娘に、それでも根気強く言葉を掛けようとする魔女だったけれど、弱々しい魔女の声は威勢のいい小娘の声と忙しなさに掻き消された。


 チセは夕餉の支度を放り出し、渋る魔女の腕を半ば強引に捲り上げて火傷の処置を始めた。

 治療の傍ら、微かに静寂を取り戻した空間で、魔女は何度となく、言い聞かせる様に言う。


「チセ。私は貴方たちにとっては魔女よ。神様じゃないの」

「チセの神様は神様しか居ません」


 5年間同じやり取りを繰り返している問答、チセは魔女相手に1度たりとも譲ったことはなかった。

 町の人間がこのやり取りを聴いていたならば、こればかりは魔女の言が正しいと渋い顔で彼女に賛同した事だろう。


「チセ。貴女は私が居なくても生きていけるでしょう」


 チセは魔女に対する威勢とは裏腹に、存外器用な娘だった。


 5年ほど前、彼女はとある事情により、見ず知らずの土地で暮らすことを余儀無くされていた。

 少なからず関わってしまった魔女は不憫に思い、少ないながらも援助を渡した数日後。


 チセは町での生活基盤を整え、森の奥地まで繋がる最短の山道を開拓して通い出し、魔女を神様と呼んで慕いだした。

 行動力があり、物覚えも良く、愛嬌もある。

 魔女に媚びを売らずとも、彼女であれば人間社会で生きるのに十分な地位に居られるはずなのだ。


「いいえ。実は本日付けでチセは住処を追い出されてしまいました」


 魔女の腕に包帯を巻く手は淀みなく。

 まるで追い出された事に何の関心も無いような手際の良さだった。


「……貴女、教会とかいう所に住んでいたと聞いたけれど」

「はい。神様に御奉仕する為の施設というので、色々頑張ってシスターというのになりました」


 彼女の服装は、裾も袖も長い黒いワンピースに黒いキャップ。いわゆる修道服を身にまとっている。

 それは神に人生の全てを捧げる事を至上命題とした女性の身なりだ。


「生活自体はそれなりに上手く回っていて不満はなかったのですが、どうもあの施設で奉じているのは私の祀る神様とは違うようでして。シスター長に相談したら邪教徒と怒鳴られて、蹴り出されてしまいました」

「何でそんな所だけは不器用なのよ」


 チセの祀る神というのは魔女だ。


 教会が奉じる神はその存在を拒絶する立場にある。

 5年間、その食い違いが周囲に発覚しなかったのは、彼女持ち前の明るさとあどけなさ、そして適応能力によるものであった。


 チセの方がその食い違いに気付かぬふりを続けていれば、5年掛けて築き上げた生活基盤を壊さずに済んだのだ。


 チセの妙な拘りから来る危うさには魔女も気づいていたけれど、まさか住処を失うことになるとは思ってもみなかった。


「はい。お待たせ致しました。霧の維持も程々にして下さいね」


 腕の火傷は軟膏を塗られ、爛れた肌は綺麗に包帯が包み隠していた。

 魔女が包帯越しに腕を撫でる。その撫でる手にも処置されず、無数に跡が残った火傷が袖から覗いた。


 チセは、その痛ましい肌を悲しげに見つめ、飲み込むように一瞬だけ目を伏せ、顔を上げた時は人好きのする笑顔で言った。


「夕餉はお魚にしましょう! 以前採った川魚の干物がありましたよね」


 努めて元気に。そう意識して発したチセの思いなど、魔女は露知らず。

 良く言えば晴れ渡る晴天のような、悪く言えば能天気な声色だと、内心で思っていた。


「私は神様ではないの」


 夕餉の支度で魔女の家を物色するチセに向けて、魔女は責めるように言った。


 それは、魔女が何度と無くチセに言い聞かせた言葉だけれど、今回は不必要なこだわりで5年間もの努力を無に帰した彼女に対し、静かな怒りが込められていた。


 見て見ぬふりをしていれば良かったのに。

 魔女を神などと崇めなければ良かったのに。

 私なんて、放っておけば良かったのに。


 5年間。何度も話し伝えた言葉が、言外にチセを刺す。


「神様です」

「魔女なのよ。だから、人の営みをする必要も無いの」


 魔女という人ならざる異形の怒気は感じているだろう。

 背を向けたまま、何度と無く受けた言葉を、何度と無く返した言葉で返す。


「この火傷は火傷の形をしているだけで、時間を置けば治るの」

「でも、処置すれば治りは早いです」

「人の食事も必要ないの」

「でも、食べられて味覚もあります」

「私は、人殺しの魔女なのよ」

「でも、チセを助けてくれましたよ」


 それは5年前。

 ある雨の日の事。

 魔女にしてみれば、ただの偶然と気分。

 チセにしてみれば、それは必然と運命。


 両者の間にあるのは、そんな食い違った認識の出来事。


 なんてことは無い。

 この世界にとっては有り触れた、年若い1人の人生が終わりかけた折。そんな在り来りな不幸の手前に、魔女が立っていただけの事だ。


「攫われ、輪され、殺されるのを待つだけだったチセに、神様が見せてくれた本当のお姿、チセはあの時、この生涯を尽くして仕えるべき神様を見つけたのです」


 踊るように、歌うように、オタマを片手に、町で覚えてきたのか、不思議な音頭で身振り手振りを混じえ、彼女は魔女を讃えた。

 その目は遥か遠くを見つめ、取り憑かれたように魔女への崇拝に染まっている。


 こんな魔女に陶酔した行為が町の者達に露見したなら、一体どんな目に合わされる事やら。

 誰かが矯正しなければ、この娘はそう遠くない未来に破滅するだろう。


 偶然、たまたま、通りがかりに助けた命とは言え、自分の存在が災いしてより酷い末路に転げ落ちる様を黙って見ていられるほど、魔女は非情になれなかった。


 ため息をひとつ吐き、外に出て焚き火の炎で手際よく干物を炙るチセの背後に立つ。


「どうかされましたか?」


 珍しく自分から近寄ってくる魔女に、チセは驚き半分、嬉しさ半分の表情で振り向いた。

 人懐こい子犬が尻尾を振る様を頭の中に過ぎらせながら、魔女はその小さな頭に手を置く。


「……ねぇ、チセ。この森に住まう魔女というのは、霧で人を隠して攫って、生きたままハラワタを引き摺り出して食べてしまうそうよ」


 貴女も噂くらいは聞いた事あるのでしょう?


 そう、魔女が囁くと森の空気が変わった。

 濃霧が、その言葉に呼応し、怪しげに蠢く。

 遠くの岩が風を通して不気味に吠える。

 焚き火の明かりが崩れ消え、湿り気を帯びた冷たい空気が、ぞろりと小さな小さな少女の頬を舐めた。


「恩人のフリをするのも、もう良い頃合いだと思わない?」


 罠にハマった獲物を嬲るように、面の下から異形の眼差しを向けた。


 圧倒的な上位存在から向けられる害意。

 それは恐怖で相手を支配する、ある種の魅了だ。

 少女という歳の頃。そんなちっぽけな娘の心が、到底耐えられる異能では無い。


 身を硬くしたチセは、しかし、頭に乗せられた魔女の手を取る。


 そして目を輝かせて嬉しそうに応えた。


「どんな食し方がご所望でしょうか! このまま齧り付きますか? それとも切腹した方が食べやすいでしょうか! 自分の腹を切った経験はありませんが、頑張って綺麗に捌きますね!」


 魔女は黒の色が濃くなる空を見上げ、己の誤ちを悟った。

 その様子を見て、チセは何かに気づいたように、はっと口に手を当てた。


「でも、それだとお住いが汚れてしまいます。死んでしまったはお掃除も出来ませんし……。あ、他の噂だと口から内蔵を吸い出して食すと聞いた事があります! その方法では如何でしょう!」

「……わかった。チセ、脅かした私が悪かったわ。謝るから止めて頂戴」


 目を閉じて口を窄めながら口吸いを迫る少女の顔を躱し、魔女は背を向けた。

 袖にされたチセは「いやぁん」と残念そうに身をくねらせながら、思い出した様に声で魔女の背を追った。


「神様、私今帰る場所が無いので、軒下お借りしても良いでしょうか」

「……貴女の肝には、さぞかし硬い剛毛が生えているのでしょうね」

「割いて見ましょうか?」

「やるなら他所でやって頂戴」


 声色にあまり感情を乗せない魔女が珍しく本気で嫌そうに言うと、チセは大層可笑しそうに笑った。



 食後、食器の片付けまで済ませたチセは、今晩の寝床を探すべく、軒下を物色しに颯爽と家の外へ繰り出、そうとする彼女の襟首を、魔女は摘んで止めた。


「チセ。勇ましいのは結構だけれど、中で寝なさい」

「でも、この家にお布団は1組しかありませんよ」

「なんでそんな事知ってるのよ」


 もはや自分よりこの家に馴染んでいるのでは無いか、何処までも狂信的な少女に薄らと恐怖心が過ぎるも、魔女は外を見て続けた。


「……今から少し家を空けるの。布団は使っていいから、暖かくなさい」

「夜遊びですか! チセも行きたいです!」

「危ないから駄目」

「じゃあお帰りになるまで起きてます!」

「遅くなるから寝てなさい」


 温情に反して、冷淡に拒絶されたチセは頬を膨らませてしばらく不満を主張したが、魔女に譲る気が無いことを察すると、あっさり引き下がった。

 彼女は魔女の崇拝者だ。魔女を神と崇める事以外では、案外従順だった。


「それでは神様、どうかお気を付けて行ってらっしゃいませ」


 姿勢を正して、浅く頭を垂らす姿は従者のそれだ。


 魔女に対する執着に目を瞑れば、手際良く家事をこなす手腕や言葉の端々にある教養は、育ちと教育の良さを伺い知れる。

 本人の明るい気質と持ち前の器用さがあれば、何処へでも食べていけるだろうに。


 魔女からすれば頑固さで損をしているようにしか見えない。


「……普段から、この位聞き分けがよければ良いのに」


 魔女は小さく嘆息し、霧の向こう側に消えていった。







 かえらなきゃ。


 女の呟きが森に落ちた。

 走っていたのか、その呼気は荒い。



 帰らなきゃ、帰らなきゃ、帰らなきゃ。



 口にして、何度も何度も、帰らねばならぬと己に刻んだ。

 忘れてしまわないよう。

 消えてしまわないよう。


 そうしなければ、孤独に押し潰されてしまうから。



 ……帰りたい。



 やがて、走り続ける事に耐えかねた彼女が口にする呟きは願望になった。

 誰にも理解されない望郷。

 幾年月も重ねたあの場所。


 大丈夫。きっと帰れる。

 根拠のない希望に縋り着いた。


 そうしなければ、諦念に呑み込まれてしまうから。



 …………かえしてください。



 やがて、現実に打ちのめされた彼女が口にしたのは、懇願だった。

 もはや自力での解決が叶わぬと知るには、十分な時間が過ぎ去った。


 縋るものも無く、ただただ、手を差し伸べられる時を無気力に願うだけ。


 願う彼女は、もう知っている。

 きっと、叶うことは無いのだろう、と。







 魔女が家に戻ったのは、夜明けにはまだ少し遠い時分だった。


 履物を脱ぎ、板張りに上がると、床鳴りを聞いた布の塊がピクリと動いた。

 そのままモゾモゾと動き続け、しばらくすると半ば以上に瞼を閉じたチセの頭が持ち上がった。


「……ん。かみさ、ま……」

「まだ寝ていなさい」


 魔女は無駄に敏感な少女の頭を優しく押さえつけ、退けられた布団を被せ直した。が、そのやり取りで覚めてしまったのか、暗がりで開いた寝ぼけ眼が魔女を捉えた。


 魔女にやたらと拘るチセが、帰宅の気配で起きる事は予想出来たのだから、日の出辺りに帰って来れば良かった。と、睡眠の必要性が薄い魔女は後悔した。


 さほど広くない部屋の中、チセが寝ていた布団から少し遠い所に腰を下ろしたのは、人の子であるチセに対する魔女なりの気遣いだった。


 しかし、そんな思いやりはチセにしてみれば無用なもの。むしろその距離が邪魔だと、掛け布団を引き摺って、わざわざ魔女の膝に頭を乗せた。


「んえっへへ」

「……チセ」


 少女は魔女が無抵抗なのをいい事に、そのまま目を閉じてしまう。

 前日から続く何度目かのため息を吐いて、無邪気に笑うチセの頬に手を置いた。


 夜中に子供を怒鳴りつけるほど血の気が多くない魔女はしかし、それでも思う所はある。

 無防備な小娘に対する小言は腹の奥からコンコンと湧き上がってきて、言葉として口から溢れ出た。


「……ねぇ、貴女、少しは懲りなさい。私に関わってロクな目に合わない事はよく分かったでしょう。もう私の事なんて忘れて、ここに来るのはおよしなさい。私と貴女達は相容れないの。このままだと、遠く無いうちに人の社会で立ち行かなくなるわよ。貴女無駄に器用なんだから、もう少し上手く立ち回れるでしょう。ここを貸すのだって、今回限りよ。長くても次が見つかるまでの数日だからね。……ねぇ。聞いているの?」


 あまりに少女が心地良さそうにするものだから、説教臭い言葉を落として少しは寝心地を悪くしてやろう、という、魔女のささやかな仕返し。


 しかし、チセは身動ぎすることもなく、むしろ子守唄とでも捉えたようで、整った声が零す静かな言葉の羅列を、規則正しい寝息で聞き流していた。


「……まぁ、小憎たらしい寝顔」


 暫くして、間の抜けた寝顔を見せ付けられた魔女は、自分の仕返しが仕返しとして機能していない事に気づき、虚しさを胸の内に、日の出までの時間をそのあどけない無防備な寝顔を眺めて過ごした。







 魔女の家には直接日が差さない。

 木々に囲まれた立地に加えて、魔女が作る霧に包まれているのだから当然だ。


 朝だと言うのにぼんやりと明るいだけの土地。

 その一角にチセは腕を組んで立ち尽くし、ジッと地面を眺めていた。


「……何しているの?」


 そろそろ人の社会は働き出す頃合だと言うのに、地面を見詰めて町にも行こうとしないチセを見兼ねて、魔女は言葉を投げると、少女は振り向きながら見詰めていた先を指さして応えた。


「この辺り、少し前に教会の花壇から勝手に拝借したお花の苗を植えてみたんですけれど」

「教会から蹴り出されたの、案外正当な制裁に思えて来る発言ね。あと勝手に盗品を植えないで頂戴」


 黒い布の面を揺らして、魔女も盗まれてきたらしい苗が植えられた地面を見た。


「そろそろ蕾くらい付けても良い季節なのですが、その気配が一向に無くてですね」


 チセの告白通り、そこには1度土が掘り返され、均された形跡がある。

 件の苗は、明らかに雑草とは毛色の異なる茎と葉が等間隔に数個並んでいるそれらだろう。


 魔女は伸び悩むそれらを一瞥し、特に深くも考えず空を見上げ、釣られて少女も顔を向けた。


「……原因なんて明らかでしょう」

「ですよねー」


 2人が思い当たったのは日照不足。


 そもそもが森の窪地。

 木々に囲まれた地面には日の光が届き難く、さらに魔女が己と家を隠すために巡らせる霧が年中渦を巻いている。

 大抵の植物には酷な環境だ。成長不良を起こしていてもなんら不思議では無い。


 それがわかっているから、チセは魔女に霧を晴らせて欲しいなど無茶を言わず、日の光が足りない状態で如何に花を咲かせるか考えていた。

 無論、専門家でも無いチセには効果的な解決策など思いつかず、半ば諦めの域に達しつつあった。


 今やれることはない。そう結論付けたチセは、ようやく人の町に降りる気になったのか、カゴを背負い直した。


 教会の若いシスターが背負いカゴをしょい込む姿はどうにも違和感が拭えない。そう感じた魔女は布の下で半目になって聞いた。


「いつまでその格好でいるの?」

「神違いと言えど、チセは奉仕者ですから!」

「山道では歩きにくいでしょうに」


 肌の露出が少ないという点以外、長いスカートや枝に絡みやすい布地はとても森を歩く者の服装では無かった。

 もっとも、住処を追い出されたチセに他の服を繕う余裕があるなんて、魔女も思ってない。


 魔女は背負われた彼女のカゴに、やや重みのある革袋を放り込んだ。

 肩越しにその重量の増加を感じ取ったチセは首を傾げた。


「何か入れましたか?」

「遭難者の財布」


 それを聞いたチセは流石に複雑そうな表情を見せた。

 この森での遭難となれば、少なくない割合で魔女の霧が原因だ。

 負の見方をすれば罠を使った略奪に近い。


 人並みの良心があれば、貰うのも使うのも、それを持ってきた魔女に対しても若干の嫌悪感が出てくる物であるが。


「この辺りを根城にしていた人攫い。いつの間にか1人も見かけなくなったわよね」

「神様! 今晩お肉買ってきますね! 霜降りのやつ!」


 嫌悪から一転。自分を不幸にした悪党の不幸で食う飯はさぞかし美味しかろう。と、早速豪勢な夕食に思いを馳せる強かな娘だった。


「それより自分の住処をどうにかしてきなさい」


 夜遅くに崖下から引き上げてきた苦労を明後日の方向に使おうとするチセを窘めて、あわよくばもう来るなと、数えることも億劫な程繰り返した言葉で、チセは背中を押した。


 魔女の心労を分かっているのか、分かっていないのか。

 魔女に手を振って元気よく山道を駆け抜けるチセの足取りは、それはそれは軽快であった。




 夕暮れ時。

 修道服から町娘の格好になったチセは、当たり前のように夕食の食材を買って戻ってきた。


「神様。チセは食堂で日雇い給仕をやることになりました。次いでに部屋も安く紹介して貰って寝床も解決してきたので褒めて下さい」

「……偉いわね。チセ。ここに来なければ尚良かったわよ」


 この世には、有能な人間ほど大きな欠点を付随させ無ければならない、というルールでもあるのだろうか。

 魔女は、世の中の不条理を嘆き、歯にものが挟まったような賞賛しか出来なかった。


 それでも、チセは嬉しかった様で、満面の笑みで肉を食んだ。


「肉鍋美味しいですね。牛のお肉なんていつぶりでしょうか」


 魔女の苦言はいつものように聞き流し、清貧の思想が強かった教会の生活では滅多に食べられなかった肉の旨味を噛み締めていた。

 そこに、悪党の不幸という魔女からの施しが加わり、殊更脂が甘く感じて仕方がなかった。


 魔女と一緒に居れる。

 煙たがられるのは少し心苦しいけれど、現実を知っているチセからすれば、それだけでも幸福だった。


 例え、自身の何を差し出しても、この時間を守るためならば、彼女は何だって出来たのだ。







 チセによる魔女への訪問頻度は週に3日前後だ。

 本当は毎日でも通いたい、どころか世を捨て人を捨て命を捨て、住み込んででも四六時中一緒に過ごしたいというのが本音ではあった。


 しかし、彼女が神様と慕う魔女は、チセに人の社会で生きる事を望んだ。あまつさえ、忘れろ来るな帰れである。

 当然不服だ。いくら神と崇めれど大いに不満だ。魔女と自称し自身を貶める行為も大変に不愉快だ。


 口にしたい文句は多々あれど、未熟な人の身であるチセには人の社会が無ければ満足に生きていけないのも、十分な御奉仕が出来ないのも認めざるを得ない事実。

 森の中で自給自足するにしても限度があるし、道具の調達、特に鉄製品の入手に他人の手は必須だ。


 だから、チセは彼女なりに譲歩した。

 ご要望の通り、人の社会でちゃんと仕事をして生活するし、見知らぬ土地で人と文化にも馴染めるよう、汗も涙も血も飲み込んで努力した。

 その代わり、魔女を崇拝するし、好きに訪問するし、甲斐甲斐しく世話も焼くし、時たま垣間見せてくれる善意には全力で甘え倒した。


 魔女はそんなチセを煩わしく思えども、曲がりなりにも言い付け通り人の社会に適応しているし、好意好感善意をもって接してくる子供には非常に甘い側面もあり、この奇妙な関係は5年もの間継続していた。


「……夕食、何にしよ」


 新しい仕事場と住居を手に入れてから数週間。

 今日のチセは魔女の家に行きたい気分の日。

 魔女の家にある食材の在庫状況を予測し、市場の品を流し見つつ、今晩の献立に思いを巡らせていると、視界の隅に見慣れぬ人の集まりを捉えた。


 どうやら、珍しいもの好きな町の住民達が広場に群がっているらしい。

 背の低いチセの視界からは見えなかったけれど、遠方から来たキャラバンか、旅の芸人か、多方そんな所だろうと当たりをつけて興味を外した。


「鶏肉の香草焼き、かな。長ネギも焼こうっと」


 理由は先程見た人集りが餌を啄みに来た鶏を連想させたからであることは、誰も知る由はない。

 そうと決まれば、5年の間に慣れた市場を縫って歩き、必要な物を手際良く買い集めた。


「よぉ、チセ」

「マスターさん。どうも。仕入れですか?」

「そんなとこだ」


 肉屋でメインの鶏肉を買っていた折、強面の大男がチセに声を掛けた。

 この男は、チセの雇い主だ。

 労働者を相手にする食堂を切り盛りしており、マスターの外見通り豪快な料理を出すことを売りにしているお店で、町の中では中堅並の客入りだった。


 肉屋に注文を通す間、大男はチセに顎で広場の方を指した。


「お前さん、広場の連中見たか?」

「いいえ、何か珍しいものでもありましたか?」

「おう。雇いの傭兵団だとよ」

「傭兵?」


 人対人の血生臭い戦いに置いて、金払いのいい方に兵として雇われる腕自慢の兵士達だ。

 基本的には、彼らは戦場付近や治安の悪い地域に駐屯する。戦いを生業とする彼らからすれば、平和な場所には食い扶持なんて無いからだ。


 そして、チセが住むこの町は比較的平和な部類に入る。

 治安維持は自警団で事足りるし、近くで大きな戦場は無い。


 あの人集りは普段あまり見かけない物々しい集団に野次馬する人らかと、チセは納得した。


「確かに珍しいですね。明日は矢でも降りましょうか?」

「割とありそうな予報はやめろ。シャレにならんぞ」


 この世界、戦場ではまだ頻繁に火矢が降る。

 無神経に不謹慎な発言をするチセに大男は釘を刺し、肉屋に代金を渡しながら続けた。


「お前さん。時折人隠しの森に入ってるな?」

「趣味なもので」


 チセは魔女の元に通う行為を、周囲の人にはそう言い訳していた。

 元々が余所者のやる事だ。町の人間はチセがどうなろうと気にも留めていないから、怪しまれども深くは詮索されなかった。


「悪い事言わん、しばらくは辞めておけ」

「……? それはまた、何故でしょう?」


 今まで町の人間に止められも咎められもしなかった。

 不思議に思って訳を尋ねると「そりゃお前さん」と、魔女の住む森を見て言った。


「魔女狩りに巻き込まれちゃ敵わんだろ」







 早足で部屋に戻ったチセは、荷物を放り出し、いつもの背負いカゴを背負わずに、手早く森に入る支度を始めた。

 手に取るのは必要最低限。生活の立て直しは視野に入れない。最優先は魔女の命とその後の逃走だ。


 実を言うと、彼女はいつかこうなる事を予想していた。


 5年間という期間、チセは教会で別種の神に奉仕していたのだ、その間、彼らが魔女と呼ぶ存在に対して異常とも取れる程強烈に拒絶反応を示す事をよく理解していた。


 むしろ、よく今まで放置していた言える。

 放置されていた理由としては、人隠しの森に居る魔女が殆ど無害だった事が一因で、対応の優先度が他よりも低かったからだ。


 リスクを犯して無害な魔女を狩るか。

 コストを惜しんで魔女を許容するか。


 今まではその天秤が微かに後者へ寄っていただけ。

 何か小さな事でもきっかけがあれば、傾きが変わるのは容易に想像が着いた。


 チセにとって幸いな事に、傭兵団は着いたばかりで、直ぐに森に入って魔女狩りが行われるわけでは無い。

 今から彼女が魔女に現状を報告して、説得して、逃走する時間は十分にある。


「……さようなら」


 支度を終え、短い間お世話になった部屋に別れを告げた。

 本当は世話になったマスターにもお礼と謝罪と別れを告げたい所だったが、時間が惜しかった。


 チセは誰にも別れを告げること無く、日暮れが近い町を駆け、霧がかった森の入口に差し掛かる。


 いつもはカゴを背負っても何ともない街道なのに、早打つ心臓で息が乱れていた。


「大丈夫、間に合う。まだ誰も入ってない」


 チセがいつも通る獣道に新しい足跡は無い。

 呟いたその事実に、鼓動に僅かな落ち着きが戻る。


 大きく息を吸って、足が1歩山道を踏んだ。



「あいつよ! 見つけたわ、異端の邪教徒!」



 耳鳴りのような、ヒステリックに叫ぶ女の甲高く鋭い声がチセの鼓膜を刺した。

 頭に釘を打ってくるような、不快な高音の主を、チセはよく知っていた。


「シスター長っ……!?」


 振り向いた先、少し前までのチセ同様に、黒い修道服を纏った初老の女性が居た。

 つい先日、チセを邪教徒と口汚く罵って、教会から蹴り出した人だ。

 その人物が、恐怖と狂気に満ちた形相でチセを指した。



「あいつっ! 魔女に密告するつもりよ!」



 その隣に居たのは、ボウガンで武装した数人の男達。

 雇われの傭兵だと、チセは察した。


 そして同時に理解した。

 魔女狩りをするかしないかで微かに傾いていた天秤。

 その均衡を崩した張本人と、原因の一端を担ったのが自分の不用意な発言であった事を。


「早く殺して!!」


 シスター長の命令が合図だった。


 男達が持つボウガン。

 その先端がチセを向く。

 矢が。放たれる。


 それよりも早く、チセは木々の合間に身を滑り込ませた。

 木を穿つ音が耳を打つ。

 その音を置き去りにして、さらに深い森と霧の中へと身を隠す。


 チセは、死の恐怖で乱れる呼吸を大きな一息で整え、より強く早鐘打つ心臓は殴って無理やり黙らせた。


 油断した。失敗した。間違えた。

 時間的猶予を、こんなことでドブに捨ててしまった。


 身体だけは過去最速で山道を駆け抜けるも、頭の中では大パニックだ。


 5年近く共に過ごした人から殺意を向けられた事。

 自分の行動が神と崇める魔女の命を脅かしている事。

 油断して傭兵に追われてしまっている事。


 取り返しようもない失態だ。

 この先の人生、この命ひとつを差し出してもなお足りない。



 今すぐにでも、死んで償うべきか。



 冷たい刃が腹を滑る幻覚を見た。

 それは今のチセが望んだ光景だ。

 手持ちから刃を取り出せば、すぐにでも実現可能な。


「……っ、!」


 しかし、チセは足を止めなかった。

 唇を噛んで、涙を目に貯め、それでも足を動かして走る。

 死ぬ前に、せめて、伝えなければならない。


 自分の犯した失態も、魔女狩りが始まった現状も。

 全部。全部。

 ちゃんと、伝えないと。



 私達の神様に。







 森が騒がしい。


 この周辺一帯を霧の中に沈めてこの方、動物すらも寄り付かなくなった森はどんな時でも静寂を保っていたのに、今日はやたらとざわめいている、気がする。


 魔女は特に喧しい声が聞こえて来るわけではないのに、何故か煩いという感覚に首を傾げた。

 これをチセ辺りに聞いたなら『嫌な予感』や『虫の報せ』と言った言葉が出てくるだろうけれど、生憎と魔女はそんな言葉も意味も知らなかった。


 気の所為だとしても、不思議と落ち着かないもので、仕方なく家の見回りついでにと外へ出た。


 一見して、霞がかる森に変化は無い。

 気を張り過ぎたかと、魔女は視線を地面に落とした。


 そこは以前チセが無断で植えて行った苗があるところ。

 実はゆっくりとだが成長しており、ここ数日でツボミを付け始めていた。


 こんなにも日当たりの悪い場所でも、健気に強かに成長するそれらはいったいどんな花を咲かせるのだろう。

 それは魔女の密かな楽しみになっていた。


「そういえば、なんて名前の花なのかしら」


 チセにどんな花を植えたのか聞きそびれてしまった。

 次に来た時に聞けばいいか、と魔女は自覚も無くチセが今後も来る事を織り込んでいた。


 もはや彼女のいない生活を考えられていない事に、魔女は気付いてもいない。


 丁度その時、魔女の耳は荒々しい足音を拾った。

 走っている。そして、だいぶ疲れている。


「……チセ?」


 面を捲って視界を広げると、霧の中から息を切らしてふらつきながらもこちらに向かってくる、見慣れた少女の姿があった。


 チセは魔女を認めると、泣き崩れながらもたれかかってきた。

 今まで見たこともないチセの姿に驚きつつも、魔女はその小さな身体を抱き留めた。

 呼吸を乱し、泣きじゃくりながら縋りついて何度も謝罪を口にする彼女に、尋常では無い何かが起こった事を察した。


「チセ、落ち着いて。何があったの?」

「逃げて! とにかく、逃げて下さい!」


 必死の懇願。

 初めて見せるチセの形相に面食らいながらも、魔女は努めて冷静に話を聞こうとした。


「それだけじゃ分からないのよ。お願いだからちゃんと事情を」

「魔女狩りです! すぐに傭兵がっふ……!!」


 ドンっと。


 チセの叩きつけるような叫びにも似た声は、不自然な異音と痙攣で途切れた。


「チセ?」


 バランスを崩し、何故か力が抜けていく身体を支えた魔女は気付く、チセの背後から来る何人もの人の気配。

 そして、小さな体に撃ち込まれた1本の短い矢に。


「居たぞ。霧の魔女だ」

「囲んで撃て」

「確実に殺せ」


 手遅れになって、魔女はようやく理解した。

 人が本気で牙を向いた、と。


 幾つもの殺意とボウガンが魔女を捉えた。


 魔女は身動きひとつ取らなかった。

 ショックを受けているのか、ただ人のように邪教徒と罵られた少女の肢体を抱えているだけだ。


 彼らは魔女が何を考えているのかよく分からない。

 面を付けているから、男達からは表情も見えない。

 楽な仕事だと。男たちは思った。

 このまま動かぬ的に矢を撃ち込んでしまえば良いのだから。


 彼らが魔女の家に辿り着けた理由は単純だ。

 チセを脅して、追い立て、泳がせ、まんまと道案内に仕立てあげた。

 傭兵とは人殺しのプロでもある。極限状況下における人心の誘導方法など経験則で知っている。


 だからこそ知っている。

 教会が恐れる邪教徒や魔女というのも、矢が数本刺されば死んでしまうような、所詮は人の域から出る事のない生き物であることを。


 ただ人を1人殺すだけで、教会に恩を売れて多額の報奨金も貰える。傭兵にとってはこれ以上に無いほど楽で美味しい仕事だ。


 今までは。




「私を、霧の魔女(・・・・)と呼んだわね」




 この場に居た傭兵達、それぞれ全員の目の前に、突然魔女が現れた。

 不可思議な異国風の衣装、表情の見えない黒い布の面、霧に溶ける白髪。

 今まで呆然と立ち尽くしていたのに、と考えるよりも先に彼らはプロとして、目の前の標的に矢を放った。


 飛び出した矢はしかし、風を切る音を奏でて魔女を抵抗なく貫き通し、彼方へと消えた。

 いつの間にか、伸ばした腕の先すら視認が怪しいほど霧が濃くなっている


「霧を使って人を攫い隠し、生きたままハラワタを食べるそうね」


 何本も矢が霧を貫いた。

 放たれた分だけ、彼方に消える矢は増え、手持ちの矢は減って行く。


「く、来るな! 化け物め!!」


 遂に、耐えかねた誰かが悲鳴を上げた。


「こんな風に、ね?」


 その呟きを合図に、霧の獣が牙を立てる。


 耳を劈く悲痛な叫び声が上がった。

 霧の中で粘着質な水音が木霊し、その数は魔女の家にたどり着いてしまった男達の人数と同じ数だけ響いた。


 腹を割り、肉を裂き、骨を砕き、血を啜る。


 中身が零れ落ちれば獣は狂喜し喉を鳴らす。

 食われた者は痛みと喪失に叫びを上げた。


 長く長く。いつまでも続くと思われた叫び声と咀嚼音は次第にか細く消えて行き。

 霧が幾分薄くなった時、悲鳴を上げていた下には血と内蔵が無くなり、骨と肉だけになった物が転がっており、捕食者は霧のように跡形もなく消えていた。


 脅威を排除した霧の魔女は、チセに布を噛ませ、食い込んだ矢を握った。


「……チセ。我慢して」


 力任せに引き抜く。

 撃ち込まれた時と同種の痛みがチセを襲う。


 悲鳴は聞こえなかった。

 代わりに、激しい痙攣が体を暴れさせるも、霧の魔女が抑えて治めた。


 幸いな事に、チセを襲った矢は内蔵を囲う骨で止まっており、致命傷には至って居なかった。


 チセを家の中に上げ、血で染まる服や床を気にも留めず、霧の魔女は止血の処置を始める。

 この家には、何故か応急処置には困らない程道具が充実している。血を止める程度であれば、霧の魔女でも見様見真似で処置が出来た。


 しかし、その処置は完璧には程遠い。

 血は止めらたとしても、もし毒でも使われていたならば未だに危険な状態だ。

 ここにそれを見分けられる人間はいない。


「医者に診せた方が良いわね。隣町の診療所までは運んであげるから、あとは自分でなんとかなさい」

「……かみさま、かみさま」


 チセの目は開いていたが、うわ言のように同じ言葉を繰り返すばかりで会話が成立しているようには見えなかった。


 チセの体格を考えると、止血までの間に流した血は少なくない。走った直後で酸欠気味だったこともあるだろうが、彼女の意識は相当滲んでいるらしい。


 無理もない。霧の魔女はチセへの指示を諦めた。

 そして内心で思う。どうせこの娘は説得しようとしてもお供しますとか言い出すだろうから、何も告げずに問答無用で病院に放り込んでおけば良い。

 そうすれば、チセにとっては害にしかならないこの縁も切れる。いい加減、彼女も大人だ。

 ここまでの経験をすれば学習もするだろう。


「だから、私に関わるべきでは無かったのに……。いや、貴女に甘く接した私の責任ね」



 次は子供でも、ちゃんとハラワタを抜いておかないと。



 霧の魔女は気付かない。

 口元の歪んだ笑みに。

 自身の認識が歪み出している事に。


「だめ、です。……だめですよ。かみさま」

「はいはい。移動するわよ。出来れば掴んでなさい」


 チセを背負い、家から出ようとした時、外から引き戸が開かれた。

 そこには、腹から下を血に染めて、立つのも命懸けの傭兵がいた。

 それは明らかな致命傷にも関わらず、即死出来なかった哀れな男。


 もはや、あと数秒の命。その僅かな時間をただただ待つのではなく、魔女を滅すべく行動するそこ原動力は、魔女に対する憎悪か、あるいは仕事に対するプロ意識か。


「ああ゙あ゙あああああああ」


 男は両手を後ろに回した霧の魔女を認めると、最期の咆哮を上げながら、明白な殺意をもってボウガンが彼女らに向けた。


 男に襲いかかろうとする霧の獣は間に合わない。

 確実に当たる至近距離で、避けようの無い体勢で、無防備な姿勢で。

 トリガーに掛かる指が引かれる。


 死の予兆が命を撫でるその瞬間。

 霧の魔女は、不思議とチセが朦朧と発する言葉だけを、鮮明に聞いた。



「魔女になっちゃダメです。白百合様(・・・・)



 瞬間。

 男の身体は突如として白い花弁へと変わり、崩れ落ちた。

 放たれることのなかったボウガンは音を立てて落ち壊れ、遅れた霧の獣は大量の花弁を食って首を傾げ、白い花を宙に舞わせた。


 黒い面の下。女は目を見開いて、かつて呼ばれていた、もはや誰も呼ぶ者が居なくなった名を聞いていた。


「……チセ? 何処で、それを……?」


 呟くように聞くも、返答は荒い呼吸音。

 しかし驚きの内で、彼女の中にある記憶の欠片が目を覚ました。


 チセ。

 小さな小さな。

 歩く事も覚束無いほどの幼い人の子。

 抱き上げると、無邪気に笑った女の子。


 昔、ずっと昔に、舌足らずで自分の名前をチセと言った子供が居た。

 その子の両親から聞いた名は。


「…………ちとせ……?」


 かつての面影を僅かに残した少女は、苦しげな呼気を抑えて頷いた。


「はい。ちとせ、です。覚えておいで、です、か?」


 痛みで汗を滲ませながら、それでも、やっと名を呼ばれた彼女は嬉しそうだった。


「忘れたことなんか、無いわ」


 昔、神として人と暮らした時代があった。

 豊かな土地と穏やかな人々だった。

 人の子を見守って、時折里に降りては畑を手伝い、子供の相手をする日々。


 何世代にも渡って、何百年も見守り、人に寄り添い続けた。


 ちとせの家族は、その土地の中でも長く暮らしている一族だった。


 彼女らが最後に会ったのは、ちとせが数えで3つの頃。

 両親に連れられて、境内に咲くゆりの花を見に来ていた時。


 それは魔女と恐れ呼ばれる前。神と慕われ呼ばれた時。

 この地に転移させられてしまう前の、十数年前の出来事。


 彼女が帰りたいと、希った場所。


「みんな、探して、ました。わたしも、何年も、さがして、変な穴? に、落ちました」


 落ちたのは、5年前。

 森を彷徨ううちに、人攫いに拾われ、魔女に救われたのが彼女達の奇妙な縁の始まりだった。


「……帰りたかったわ。でも、私は、帰れなかった。人を沢山殺して、魔女になってしまった」

「私にとって、神様は神様の、ままです。初めから、そうです」


 だって。


「どんなに、堕ちて、穢れて、爛れても、この人生で、またお会い、出来た事が、嬉しいのです……」


 ちとせの声と体から力が抜けていく。

 意識を保っているのも辛そうだった。

 血を失い過ぎたのだろう。


「あぁ、みんなに、みんなに、伝えなきゃ。白百合様は、ここに居るって、ここで生きてるって、帰りたがってるって。みんなを」


 まぶたが落ちる。


「忘れてなんか、ないって」


 背負われたちとせの意識が落ちた。

 背中から、呼吸も鼓動も小さく感じ取れる。

 眠っただけだ。


 思わぬ再会に立ち尽くし、しばらく外で舞い踊る花弁を呆然と眺めた。


「……ちとせ」


 懐かしい響きだ、と思った。

 同時に、返さなければと思った。


 穏やかな時間の流れるあの土地へ。

 水と土と深緑が美しいあの土地へ。

 この子の家族が暮らすあの土地へ。


 どんなに求めても、探しても、願っても。帰れずに、いつかからか諦めて忘れる様努めてしまったあの場所へ。


 だって、私は。


「貴女の、神様なのだから」


 花弁が舞う外に出た。


 霧の獣は花弁となり、消えていた。


 落ちた花弁は新たな芽となり蕾となり。

 真白なユリの花を咲かせ。

 白百合の名を持つ神へと、頭を垂らした。


「長い間ごめんね。ちとせ。帰りましょう。私たちの里に」


 神は黒い面を取り払い、泣き腫らした跡が残る赤い瞳でその光景を見ていた。


 不意に、一陣の風が吹く。

 強く強く。

 白銀の百合が花を散らす程に。

 古びた庵が激しく軋む程に。

 少女を背負った、一柱の神を覆い隠す程に。


 風が止んだ時。

 もはや、そこには誰も居なかった。


 霧を生み出し続けた魔女も。

 魔女を慕ったシスターも。

 魔女狩りの傭兵も。


 跡形もなく。

 その土地には、全てを知るも、語る言葉を持たない白銀のユリの花だけが誇らしく揺れていた。



 これは、語る者もいない物語。

ご読了ありがとうございました。

活動報告に長々とした後書き、もとい蛇足を置いておきますので、ご興味があれば自己満足の一人語りにお付き合い下さい。

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