#53 運命に導かれて、本能的に心惹かれた ②
「陛下、お時間です。」
その知らせは、エレノアが待つ寝室へ向かう時間を伝えるものだった。
とうとうこのときが来たかと、観念してベッドから出ようとしたチャールズの腕を、アビゲイルが掴んだ。
「すぐに戻って来るから、心配ないよ。アビーは、ここで僕を待っていてくれ。」
泣いているアビゲイルの頭をなでると、チャールズは部屋を出て行った。
心配するなと微笑んでいたチャールズから忌避感が見られたため、アビゲイルは自身の無力さを嘆いた。
心配するなと言った本人もまた、刑を執行される罪人のような心境で、重い足取りで寝室へ向かっていた。それでも、光を見出すことができたチャールズは絶望していなかった。アビゲイルが心を救ってくれたから。
ノックもせず寝室へ入ったチャールズは、無言のまま部屋を見回した。部屋にはバラの香りが漂い、ファムファタールの花びらが散りばめられたベッドには、妖艶なナイトドレスを着たエレノアが座っている。ナイトテーブルには様々な小瓶。
催淫効果のあるバラの香り、甘美な演出がされたベッドの赤い花びら、ナイトドレスを着て満面の笑みを浮かべるエレノア、その全てがチャールズを興醒めさせた。
いや…。ここにいるのがアビゲイルだったのなら、この寝室にも違った印象を持っただろう。そう。つまりは、相手次第なのだ。
あれほど酒を飲んだというのに頭は冴えていて、心は萎えていた。もはやエレノアを抱くのは不可能だと腹を括ったチャールズは、ナイトテーブルの小瓶へ手を伸ばした。その横からエレノアが、小瓶の中身についてひとつひとつ説明していく。その中から、潤滑油の入った小瓶を手に取ると、エレノアへ向かって放り投げた。
そして、チャールズは自ら媚薬を飲み干した━━。
行為後すぐに寝室を出て行こうとするチャールズを、エレノアが必死に呼び止める。
「お待ちください。まだ薬の効果は切れていませんわよね?その状態のままでは、お体がつらいのではありませんか?」
「はっ。自分で薬を用意しておいて、人の体の心配とは滑稽だな。我は、自室へ戻る。」
「そんな、チャールズ様。今夜は、初夜なのですよ??」
「初夜の義務は果たしただろ。ここまでは、そなたの望むがままになったがな。この先も、思い通りになるとは思わないことだな。」
「チャールズ様!!」
チャールズは振り返ることなく寝室を出た。今、頭にあるのは、部屋でアビゲイルが待っているという期待と、出て行ってしまったかもしれないという不安だった。あの部屋へ向かう足は、自然と足早になっていた。
チャールズがノックしようとすると中からドアが開き、そこには布団の上に掛けてあったベッドスプレッドに身を包んだアビゲイルが立っていた。安堵したチャールズは、彼女を抱き締めた。
「アビー、よかった。待っていてくれたんだな。」
「チャーリー…。」
アビゲイルは、『大丈夫?』と言いかけた言葉を飲み込んだ。チャールズなら、『大丈夫。』と強がるに決まっているから。
「アビー…。体は落ち着いたのか??」
「はい。体の火照りは、まだ残ってますけど。…さっきは、ごめんなさい。今はもう、チャーリーの首に噛みついたり、押し倒したりしませんから。」
発情中、アビゲイルは欲情に抗えなかったが、そのときの記憶ははっきり残っていた。
「アビーになら押し倒されても構わないよ。それより、僕が君にしたことの方こそ、すまない。あんな酒を飲ませるなんて…。」
「チャーリーを責めるつもりはありません。あのお酒になにかあるとわかっていて飲んだのは、私ですから。」
アビゲイルは今度は加減を間違えないよう気をつけて、チャールズをきつめに抱き締め、彼もそれに応えた。
…だが。アビゲイルは、すぐにチャールズの胸を押し返し、離れた。
「チャーリー…。私、その匂い嫌いです。」
鼻を押さえるアビゲイルを見て、チャールズは自身が羽織っているガウンの匂いを嗅いでみた。すると微かに、あの部屋で嗅いだバラの香りがした。
「確か、ヴェルナー家の者は五感が鋭いのだったな。アビーには、このガウンに移った微かなバラの匂いでさえきついんだな。…待てよ。つまり、耳もいいのか。そうか。だからさっき、僕が部屋に戻って来たのがわかって、タイミングよくドアを開けたんだな。」
「あぁ、その匂いもうダメ!チャーリー、体を洗わせてください!!」
アビゲイルは、チャールズを横抱きすると浴室へ向かった。
「女性に抱きかかえられるなんて変な気分だよ。それも日に2度もな。」
「変じゃないですよ。赤ちゃんのときは、誰だって女性に抱きかかえられていたはずですから。」
「君は意外と屁理屈なんだな。」
「『意外と』って言うほど、お互いの性格を知りませんよね?だって私たち、会って数時間しか経ってないのですから…。」
アビゲイルはチャールズ浴室へ下ろすと、石鹸を泡立てモコモコの泡で彼の全身を洗った。彼から匂いがなくなるように。
「そうだな。互いのことを知る前に、あんな形で体の関係を持ってしまって、すまなかった。しかも直後に、他の女を抱いて、その匂いまでつけているなんて最低だよな…。」
「あのお酒も、この匂いのもともチャーリーのせいではないのでしょう?私はただ、頭が痛くなるから、この匂いを消したいだけ。でも…。あなたから他の女の人の香りがするのは、正直言うとおもしろくないです…。」
「僕は、君が領地へ帰ると言う度に、帰したくないと思ったよ。先程も、君が帰ってしまったのではないかと不安になり、急いでこの部屋に戻って来たんだ。だから、ベッドスプレッドに身を包んだアビーを見たとき安堵したよ。じつを言うと、あの姿の君に欲望していたんだ。あんな、ナイトドレスなんかよりもな。…いや、あの女の話はどうでもいい。」
表情を歪ませたチャールズの顔を、アビゲイルは両手で包んみ込む。
「ごめんなさい…。チャーリーとエレノア様の初夜のやり取りを、盗み聞きしてしまいました。」
「君の聴力は、あの距離の音まで捉えられるのか。あはは…。まさか、あんなのを聞かれていたなんてな…。僕は、あの部屋にいる間もずっとアビーのことを考えていたんだよ。君がきれいだと言っていたバラの花びら、君のナイトドレス姿、この部屋にいるのがアビーならいいのに、なんて…。」
「チャーリー。顔も、体も熱いです…。発情しているときの私みたい。…媚薬を、飲んだのでしょう?」
「義務を果たさなければならないとわかっていたが、抱ける気がしなかったからな…。だけど、僕の心は死ななかったよ。アビーが守ってくれたから。君が待ってくれているということが救いとなったんだ。」
「…私は、なにもしてません。」
チャールズはアビゲイルの涙を拭うと、彼女の手を引き一緒に湯船に浸かった。
「なぁ、アビー。自ら媚薬を飲んだ、こんな愚かな僕でも、慰めてくれるかい??」
「愚かだなんて思ってないです!!」
アビゲイルは、チャールズの唇に自身の唇を強く押しつけた。
「チャーリー、つらいのでしょう??もう、我慢しなくてもいいんですよ。」
「君だって、発情して声も出せないほどつらいのに、抗おうとしていたじゃないか。」
アビゲイルは目を泳がせながら、とても言いにくそうに答えた。
「あれはですね…。声を出せなかったのではなく、口から卑猥な言葉が出そうになるのを必死に我慢していたのです。騎士たちと行動をともにする時間が長くて、彼らの会話から卑猥な言葉を覚えていたから…。」
「我慢せずともいいのに。僕はむしろ、アビーの口から卑猥な言葉を聞きたいな。ほら、聞かせてくれよ。」
そのあと。浴室には卑猥な言葉ではなく、アビゲイルの嬌声が響いたのだった。
辺境伯夫妻は、昨夜王家の使者から、娘のアビゲイルが体調不良で客室で寝ているため、このまま宿泊させるという知らせを受けたときから悪い予感がしていた。
一夜明け。
応接室で対面したアビゲイルの隣にはなぜか国王の姿があり、夫妻は状況が飲み込めないまま、とにかくふたりの向かい側の席に着いた。
そして。チャールズの第一声に、夫妻は慌てふためいたのだ。国王から、『お義父様、お義母様。』と呼ばれたから。
混乱した状態で、昨晩の出来事と、アビゲイルを王妃に迎えるという話を聞き、今度は意識が遠のくのだった。
「アビゲイルに王妃は務まりません。」
「務めは、皇后にやらせておけばよい。アビーに望むのは、我のそばにいてくれることだけだ。」
「きっかけは、その酒だったやもしれませぬが、銀狼の血の暴走は陛下のせいではありません。ですので、責任を取ろうと、娘を娶る必要はございません。」
「やはり…。結婚した当日に、妻ではない相手に手を出すような最低な輩になど、大事な娘はやれぬよな…。すまない。己の欲望も御せぬ、至らぬ王で…。」
国王に頭を下げさせるなどあってはならないと、辺境伯は慌ててチャールズの頭より身を低くし、床に頭をつけた。
「こんなに慌てているお父様の姿を見るのは、はじめてです。」
「アビゲイル…。なぜ、お前はそんなに落ち着いているのだ!?」
「ですが、お父様。チャーリーの子を授かったとしたら、ジタバタしても仕方ありませんわよ。」
「懐妊したのか!?」
「それは、まだわからないが。きっとアビーは、我の子を授かっているはずだ。」
微笑み合うチャールズとアビゲイルを見て、辺境伯は頭を悩ませた。
「無礼を承知で言わせてもらいますが。ご結婚なさった当日に不義を働いたとなれば、貴族からも国民からも風当たりは強いでしょうな。公表したところで、いいことなどひとつもありますまい。昨夜のことは、なかったことにするのが得策かと存じます…。」
「国王の血を引く子を奪うというのだな。今の、そなたの発言。王族拉致と捉えるが、相違ないか?」
チャールズの雰囲気がガラリと変わったのを感じた辺境伯は、ひたすら頭を垂れた。
「辺境伯よ、頭を上げてくれ。義理の父親になるそなたに、頭を下げられるのは心苦しい。」
すると、夫人が辺境伯の肩にそっと手を乗せた。
「あなた。不敬を重ねるのは、もうお止めになって。この結婚は、王命なのよ。けれど陛下は、命令して従わせるのではなく、私たちに認めてもらおうと、こうして向き合ってくださっているんだわ。」
辺境伯夫妻は、寄り添い合うチャールズとアビゲイルを見つめた。
「…こうならぬよう、結婚式の最中も挨拶の際も下を向くよう言っていたのにな。アビゲイルの、共感覚を舐めておったわ。」
「お父様、どういうことですか!?下を向くように言ったのは、私が不敬を働くのを心配したからではないのですか??」
夫妻はソファに座り直すと、改めてチャールズとアビゲイルに向き合った。
「あなたは昔から、可哀想なものや、困っているもの、苦しんでるものを放っておけない子だったわ。よく怪我をした人や動物、捨てられた犬や猫を家に連れて来ていたわよね。父親に似て、相手の感情を感じ取ってしまうから。」
「昨日の結婚式で、陛下を目にした瞬間、これはアビゲイルに見せてはならないと直感したのです。陛下から、悲痛な感情を読み取れたので。特に、誓いのキスの際の拒否反応は凄まじく、した振りでやり過ごしておられましたしな。」
「上手くごまかせたと思っていたのだが、辺境伯も目がよいな…。誓いのキスなどできるわけないだろう?愛を誓えぬのだから。」
「娘の、放っておけない性格からして、国王陛下に対しても、いつもの調子で手を差し伸べるのではないかと心配していたのですわ。」
「ふたりの心配した通りになったということだな。だがアビーは、我の情けない感情を目ではなく、耳で捉えたようだぞ。我の心の叫びは、初夜が近づくほどに強くなっていったからな。」
「ならば、耳も塞ぐべきでしたな。ははは…。」
辺境伯は、力なく笑った。
「だが。こうなったのはな、アビーの教育をおろそかにした、そなたたちが招いた結果なのだぞ?国王の顔もわからぬ上に、王家の者しか入れない区域だとも知らずに侵入して来たのだからな。あげくの果てには、我のいる3階まで、木やバルコニーをよじ登って来たんだ。」
「もう、チャーリー!言わないでください!!怒られちゃう。」
アビゲイルは両親に怒られると覚悟したが、辺境伯夫妻にはもはや娘を叱る気力はなく、失神寸前だった。
「しかもアビー。僕が国王だと気づいてからも、知らないふりを続けていただろ?いったいいつ、僕の正体に気づいたんだ??」
「チャーリーが、不敬を口にした際、誰かに聞かれていないかと周囲を探知したときです。あの部屋の前にいた護衛が侍女へ、『陛下は、部屋の中にいらっしゃる。』と言っていたので気づきました。」
「そうか。僕が国王だと気づいたから、あんなにも泣いていたんだな。」
チャールズは、義理の両親となるふたりへ、アビゲイルもお腹の子も、ヴェルナー家も守ると約束した。
数日後。アビゲイルの懐妊が明らかなると、チャールズは貴族へ招集をかけ会議を開いた。
チャールズから、ヴェルナー辺境伯令嬢のアビゲイルを第二妃に迎え、さらに彼女が自身の子を宿していると聞き、貴族たちに激震が走った。中でも、エレノアの兄であるヴェッティン公爵は、結婚したばかりのチャールズの仕打ちに声を荒げた。
「アビゲイル嬢はな、はじめての王宮で道に迷っていたところ、外で酒を飲んでいた我と出会い、酒をともにしたのだ。だがな。あろうことか、その酒には媚薬が入っていたんだ。酒を贈った者は、初夜を迎える我に気を利かせたつもりなのだろうが、まったく余計な気遣いをしてくれたものだ。」
チャールズは、嘘と本当を織り交ぜながら、貴族たちへ口出しさせぬよう圧をかけつつ話を続けた。
「予期せぬとはいえ、責任は取らねばな。我の子を身ごもったアビゲイルを第二妃として迎える。これは王の下した決定事項である故、覆そうなどと思わぬように。それと、いらぬ心配だとは思うが、第三第四と側妃を勧めてくれるなよ。皇后の兄で、妹思いのヴェッティン公爵が、黙っておらぬからな。なぁ、義兄上殿?」
チャールズに気遣われる形となった、ヴェッティン公爵は意見できなくなった。これ以上、国王を非難すれば、その矛先が自分へ向くとわかっていたから。
「ああ、それから。本来ならば、件の酒を贈った者を特定し、我に媚薬を盛った罰を与えるところなんだが。現時点で、そのつもりはないから安心してくれ。皆が、我とアビゲイルを心から祝福してくれるのであれば、だがな。」
チャールズは、アビゲイルへ向けられるはずの悪意を、媚薬入りの酒を贈った者へ向けさせた。ヴェッティン公爵には、酒の贈り主に心当たりがあった。妹のエレノアだ。
「アビゲイルは、今回の件の被害者なのだ。そのことを履き違えないないでくれよ。同じく、ヴェルナー家を侮辱する発言も我が許さぬ。この件は、ヴェルナー辺境伯一家にはなんの落ち度もないからな。まぁ、魔物が出た際、辺境伯軍からの援軍がいらぬというなら、その口を止めたりせぬが。」
辺境伯は眉間にシワを寄せ、黙ってチャールズの話を聞いていた。それが、チャールズからの指示だったから。父も娘も、魔物討伐は難なくこなすが、言葉の口撃は苦手なのだ。自分の娘が第二王妃になるというのに、難しい顔をして閉口を貫く辺境伯の姿を見た人々は、今回の件は不本意なのだろうと勝手に解釈していた。娘が媚薬の被害に遭ったのだからと。
会議の内容は、あっという間に広まっていった。
チャールズが、自身の子を身ごもったアビゲイルを第二妃に迎える話を聞いたエレノアは、説明を求めた。チャールズからは、アビゲイルは王と皇后を支える存在だと言われたが、納得できないエレノアは、支えなどいらないと声を荒げた。
「まさか、皇后ともあろう者が、側妃ひとり迎えることを許せぬなどと言わぬよな?そのような狭量ならば、そなたは皇后の器ではないのであろうな。それから。そなたは我の不貞を責めるが、側妃を迎えるきっかけとなったのが、"何者か"が我の酒に媚薬を盛ったせいであること、ゆめゆめ忘れてくれるなよ。」
チャールズは遠回しに、媚薬入りの酒を贈ったのがエレノアだとわかっていると匂わせた。自分の用意した媚薬が、自分の首を絞める結果となりエレノアは乱心した。怒り、嘆き、悲しみ、苦しみ、嫉妬、後悔、失望。どうにもならない感情を周囲に当たり散らすエレノアの悲痛な声は、アビゲイルの耳にも届いていた。
貴族会議からほどなく、エレノアの懐妊が伝えられた。
その知らせを聞いたチャールズは、表情を変えることなく相槌を打つだけだったが、アビゲイルとふたりきりになると、悪運が強いとエレノアを皮肉り、一度で身ごもるなんて本当に自分の子なのかと嘲笑した。
そんな態度のチャールズに、アビゲイルの雷が落とされた。エレノアを忌避するのはわかるが、彼女が授かった子は間違いなくチャールズの子だと。エレノアを許せなくともいい。それでも、生まれてくる子どもに罪はないと訴えかけた。
ふと、我に返ったアビゲイルは、自身が感情のままに起こした突風により、部屋の中が散乱し、床に尻もちをついているチャールズの姿を目にして必死に謝った。彼女の謝罪する姿が辺境伯そっくりだったため、チャールズは、『父娘だな』と腹を抱えて笑った。
この部屋の惨状が、エレノアの懐妊が原因で自分たちが喧嘩をしたと勘繰られかねないため、ふたりはメイドを呼ばずに自分たちで片づけることにした。
片づけながらチャールズは、辺境伯夫人の言葉を思い出していた。
━━アビゲイルは、可哀想なもの、困っているもの、苦しんでるものを放っておけない子。━━
(それは、皇后も例外ではないのだな。)
アビゲイルは、エレノアの行いを否定していても、彼女のチャールズへの想いは嘘ではないと知っていた。
しかし、アビゲイルがどれほどエレノアの気持ちに理解を示しても、ふたりの距離は縮まることはなかった。それどころか、アビゲイルを陥れようとするエレノアの計略は次第にエスカレートしていくのだった。
計略を張り巡らせるエレノアと、それを見破り躱していくアビゲイルの戦いがはじまった。




