#20 運命の日へと引き寄せられていく
結婚式にハネムーン。そのすぐあとには、ラスの19歳の誕生日がくる。
私は何年もの間、ラスへ適当な誕生日プレゼントを贈ってしまったことを後ろめたく思っていた。償いの意味も込めて、今回は喜んでもらえるように張り切って入念に準備をしたの。
ただ…。ラスは、エスター以上に、なにをあげても喜んでくれるでしょ?だから。"これ!"って決めるまでに時間がかかったわ。
家族がそろう夕食のときに、誕生日のお祝いをすることになっているのだけれど。その前に、ふたりきりで祝ってあげたくて、ラスをティータイムへ招いたの。準備を終え、庭園のガゼボで待っていると、ラスがやって来た。
「ラス。誕生日おめでとう。」
「ありがとう。リア。」
「見てみて。これが、私からのプレゼントよ。」
私は得意気な顔をして、テーブルへ向け両腕を広げた。
「これって??」
「このテーブルの上にあるお菓子はね、私がつくったのよ。お茶も、私が淹れてあげるわね。さぁ、座って。」
感激して固まっているラスを席につかせ、カップへお茶を注ぐ。このカップは、エスターから結婚のお祝いにもらったものなの。カップとソーサーがペアになっていて、真っ白なカップにフチと取っての部分にだけ色がついている。ラスのはライトブルーで、私のはミントグリーンよ。
「はい。どうぞ、召し上がれ。」
「ああ。ありがとう。いただくよ。」
「私もいただくわね。ラスとペアの、このカップで。」
「"ペア"じゃなかったけどな…。ほんとに。あいつ、いつまで俺に張り合う気なんだ…。」
「エスターって、本当におもしろいわよね。このおそろいのカップを、自分の分までつくってるんだもの。自前のカップを見せられとき、笑っちゃったわ。」
思い出し笑いをする私の向かいでは、ラスがあきれ顔をしている。ちなみに、エスターのカップの色はパステルイエローでね、家に置いていったのよ。食器棚には、おそろいのカップが3つ並んでいるの。
「ねぇねぇ、ラス。どれから食べる?まさか。食べないで大事にとっておこうなんて、考えてないわよね??」
「…だけど。食べたらなくなってしまうじゃないか。そんなの、もったいないだろ!?せっかく、リアがつくってくれたのに。」
「もう!せっかく、つくったんだから食べてよね!?だけど、予想通りだわ。なにをあげても、どうせ使ってくれないと思ったのよ。だから考えて、食べ物にしたの。これまでのプレゼントみたいに、飾っておけないようにね。」
どんなプレゼントをあげても、ラスが喜んでくれるのはわかっているのよ。それと。プレゼントを大事に思うあまり、使ってくれないこともね。…ラスからもらったものを物置きに放置していた私が言えたことではないのだけれど。
「ほら、ラス。これ好きでしょう?前に、おいしそうに食べていたものね。」
私は席を立ち、焼き菓子を手に取ると、『あーん』とラスの口元へ運んだ。ラスは観念したように口を開け、もぐもぐ食べてくれたわ。
「お菓子くらい、またいつでもつくってあげるから。もったいないなんて言わずに、食べてよね。ラスが食べてくれないなら、他の人にあげちゃうわよ??」
「それは駄目だ!これは、リアが俺のためにつくってくれたんだろ!?なら。全部、俺のものだ。なあ、リア。また、つくってくれるんだよな?」
「えぇ、もちろんよ。だから、心置きなく食べてね。」
ラスがお菓子を食べている姿が、姿見を見た直後のお茶会で見せた姿と重なる。あのとき。ラスは沈黙を気にせず、お菓子を堪能していたのよね。それで今回、ラスの好きなお菓子をつくろうって思ったの。
「そういえば、気になっていたんだけど。ラスはお茶会で、どうして斜めを向いて座っていたの??私はね。私と正面から向き合うのが、嫌なのかと思っていたのよ。」
「ゲホッ、ゲホッ…。」
「ちょっと、ラス!?大丈夫??」
お菓子を喉に詰まらせたラスへお茶を差し出し、背中をさすってあげる。
「はぁ…。どうしたら、俺がリアと向き合うのが嫌だなんて考えに至るんだよ。リアの自己否定は重症だったんだな…。」
「重症だなんて、それは言い過ぎじゃない?」
「言い過ぎじゃない!!いいか?俺が斜めを向いていたのは、温室のガラスに映るリアを見ていたいからだよ。正面からだと、…凝視してるのがバレるだろ。」
「え…。私を見ていたの??全然気づかなかったわ…。」
「はぁ…。リアが、こんなにも鈍感だったとわかった今では、堂々と見つめていればよかったと思ってるよ。」
大きなため息をつくと、ラスは私の用意したお菓子に次から次へと手を伸ばした。これは…。やけ食いだわ。でも。ラスに食べてもらえるとね、私の方が嬉しくなるのよ。お菓子が減っていくにつれ、幸せな気持ちが大きくなっていった。
そして、じつは。私からのプレゼントは、これだけじゃないの。
夕食のあと、部屋に戻ってからプレゼントを渡したら、ラスが驚いていたわ。
「プレゼントは、あのティータイムだったんじゃないのか!?」
「だって。ラスにもらったものと比べたら、あれだけじゃ足りないもの。それにね。これも、私があげたいものだから、ラスが気に入るかはわからないわよ?」
「俺が、リアからのプレゼントを気に入らないわけないだろ。」
ラスなら、そう言うと思ったわ。クローバーでさえ喜んでくれるのだものね。
「これは、入浴剤?もしかして。リアがつくってくれたのか??」
「ええ、そうよ。ラスは、患者さんの診察もして、製薬にも創薬にも関わっているでしょ。そんな働き過ぎなラスに、疲労回復の効果がある入浴剤をつくったの。だから。これも、なくなるのがもったいないなんて言わないで使ってね??」
「なんでだよ。使ったらなくなるものばかり…。俺は、リアからのプレゼントに囲まれていたいのに…。」
「プレゼントはね、使って欲しくて贈るのよ。ラスだって、自分があげたプレゼントを私に使ってもらいたかったんじゃない?」
「それは、そうだけど…。わかったよ。だったら、リアも一緒に入ろう!!な!?」
「一緒に!?」
ラスに肩を押され、浴室へと誘導されながら、頭の中ではお互いのプレゼントを比べていたの。私がもらったのは、エミリオの瞳の色をしたうさぎのぬいぐるみとネックレス。そして。ラスには、ティータイムと入浴剤。…うーん。差があり過ぎるわよね??ラスにとって、ものの価値は値段の高さではないことは、わかっているのだけれど。それでも、やっぱり…。
(あっ!!それなら。)
「今日は、私が背中を流してあげるわ。ね?旦那様??」
振り返って、そう告げたら。
「リアっ…。」
よくわからないけど、ラスに力強く抱き締められたの。
「ラス??」
「初夜のときも思ったけど…。俺を翻弄するのは、わざとなのか??」
「翻弄なんてしてないわよ??」
「じゃー、素なんだな…。」
ラスが小さな声でぶつぶつ言っているから、背中を流されるのが嫌なのかと思ったの。だからね。
「嫌みたいだから、やめるわね。」
そう言ったら。ラスってば、ものすごい勢いで否定してきたのよ。
「嫌じゃない!!だから、流してください!!」
「ふふっ。どうして、敬語になっちゃったの?」
バスタブにためてあるお湯に、寝付きをよくして、起きたら疲労が抜けている効果がある入浴剤を混ぜた。
だって。ラスは、本当に働き過ぎなんだもの。婿養子だから、しっかり務めを果たさないといけないって、気負っているのかしら。
このときは、そう思っていたの。
━━だけど。ラスが患者さんたちのもとを駆けずり回っているのも、新薬の開発に力を入れているのも、私のためだった。ラスはね。未来を変えるために、自分にできることを探して、運命に抗う手段を講じようと必死だったのよ。
私がその事実を知るのは、1年も先のことだった。
私とラスが結婚してから季節が巡り、また社交シーズンを迎えた。
両親は、国王陛下へ新年の挨拶をするため王都へ行っている。けれど。私とラスは今回、王都へは行かず、領地に留まっていた。
王都へ一緒に行けないと、エスターへ伝えたときの、彼女の嘆きぶりはすごかったわ。伯爵夫妻は、別々の馬車で王都へ向かうらしくて。
『お父様と乗るか…。お母様と乗るか…。究極の選択だわ。どちらにせよ、馬車の中は沈黙でしょうけど。』
そう嘆いて、エスターはものすごく憂鬱そうに王都へ向かったの。
━━そして。
エスターは、意外な人と帰ってきたのよ。
「ただいま。」
「『ただいま』じゃないだろ。おまえの家じゃないんだから!」
「エスター、ずいぶんと帰りがはやいわね?社交シーズンはまだ終わってないのに。」
「…まぁね。いろいろあって、ウィル様に送っていただいたのよ。」
エスターの視線の先には、ウィルバート様がいた。
「まぁ、ウィルバート様。お久しぶりですね。お元気でしたか?」
「まさか、ウィルバート様。こいつに、いいように足に使われたんじゃないですか!?」
ラスにそう言われ、ウィルバート様は笑顔で首を横に振っていたわ。
「突然お邪魔してしまい、申し訳ない。手紙のやり取りはありましたが、おふたりにお会いするのは1年ぶりですね。」
「あら、ウィル様。突然お邪魔したからって、申し訳ないなんて思わなくて大丈夫ですわよ。」
「おまえが言うなよ。でも。本当に、ウィルバート様が謝ることなんてないですからね。どうせ、こいつのせいでしょうから。」
ラスとエスターの言い合いがはじまりそうだから、私は話を遮った。
「とにかく。こちらへどうぞ。」
メイドにお茶の用意を頼み、ウィルバート様を応接室へと案内する。
「そうだ。エスター嬢に聞いたのですが。この度は、ご懐妊おめでとうございます。」
『ありがとうございます。』
私とラスは、声をそろえてお礼を言った。
「予定日はいつですか?」
「夏頃になると思います。」
私は、まだ出ていないお腹をさすりながら答えた。
王都へ出発する数日前に、私が妊娠していることがわかったの。私たちが今回王都へ行くのを見送った理由は、数日間も馬車で移動するのは、お腹の子によくないからだった。
「ふふ…。ふたりとも、聞いてくれる?両親の間でいたたまれない日々を送っていた、王都での私の話を…。」
エスターは、乾いた笑い声を上げ、遠い目をしていた。王都へ行く前から憂鬱そうにしていたけれど、案の定、ご両親とうまくいかなかったんだわ。
「こんなにはやく帰ってきた原因は、おまえの両親のせいなんだな?」
「そうよ…。お父様がね、陛下への挨拶を終えた次の日に、ひとりで領地へ帰っちゃったのよ。そしたら人の目を気にしたお母様まで、私を置いて帰っちゃったの!?」
伯爵夫妻は、相変わらず自分のことしか考えないのね。
「もともと王都ですることもあったから、はじめはすぐ帰るつもりはなかったのよ。だけど。領地へ帰ったお母様が使用人に当り散らしてないか心配だと、ウィル様に愚痴をこぼしたら、送ってくださると言うから、お言葉に甘えることにしたの。」
「僕はただ、エスター嬢が舞踏会のエスコートを受けてくれた上に、様々な方々との顔を繋げてくれたので、そのお礼をしたまでです。」
「ウィル様は人が良過ぎます。たったそれだけのお礼のために、送ってくださるなんて。往復で1週間もかかる上に、ご自分の領地とは真逆なんですよ?私としては、ものすごく助かりましたけど…。そうだわ。ねぇ、リア。あの天秤貸してくれない??」
エスターは、天秤を自分とウィルバート様の間に置いた。
「これまで私が、ウィル様にあげた物や、してあげたことを思い浮かべながら、天秤の皿に指を軽く乗せてみてください。」
「指を乗せればいいのですね?」
エスターとウィルバート様が天秤の皿に指を乗せると、エスターの皿の方が下がったの。
「ほら、見てください。私の方が下がったのは、私がウィル様からもらい過ぎているからなんですよ。この天秤は、お互いの損得がわかる魔道具なのです。」
「なるほど…。しかし。ほんの僅かな差ではないですか?」
エスターは、ほんの少し傾むいている天秤をじーっと見つめた。
「うーん…。もっと差があるはずなのに。どうして??でもでも。僅かだとしても、私の方が得をしているのですから、これ以上はお返しはいりませんからね!?私が、今回送ってもらったお礼をしても、それに対してお返ししないでくださいね??」
「…わかりました。」
ウィルバート様の生返事を聞いて、エスターだけじゃなく私とラスも、"わかってないだろうな"って思ったの。だって。私とラスもね、ウィルバート様との贈り物の送り合いが終わらないんだもの。
「もしかして。エスターが気づいてないだけで、ウィルバート様にとって価値があるものをあげたのかもしれないわね?ラスのクローバーみたいに。ほら。ご令嬢の情報とかね。」
エスターがあげたものが、ウィルバート様にとって価値があったのかもしれないわ。ものの価値は人によって違うから。
それから。じつは、さっきから気になっていることがあるのよ。明らかに、ふたりの距離が縮まっているわよね?いつの間にか、お互いの呼び方が変わっているんですもの。
「でもね。私の情報、裏目に出てしまったみたいなの。だってウィル様ったら社交の場で、令嬢たちから距離をとっていたのよ?しかも令嬢たちの対応を、私に押しつけてきたんだから。」
「あの情報のおかげで令嬢方に警戒心を持つことができたので、エスター嬢には感謝しています。今回、社交の場で隣にいてくれたことも、本当に助かりました。冬の前に、大量の暖房具の魔道具をつくってもらえたことも。それと。1年前、荷物にランタンをまぎれ込まされていたことも。」
「もしかして、ウィル様。私が勝手にランタンを荷物にまぎれ込ませたこと、根に持っているのですか?」
「根に持つだなんてとんでもない。確かに、荷物の中からランタンが出てきたとき、驚きはしましたが。」
「残念です。ウィル様が驚いたところ、見たかったですわ。それと。冬の前に暖房具を届けられたのも、うちの術師たちの都合なので気にしないでくださいね。」
エスターは苦笑いをしながらそう言った。
「この天秤も、その術師の方々がつくった魔道具なのですか?」
「いいえ。この天秤は、ふたりが新婚旅行先で買ってきたものなんですよ。新婚旅行で魔道具屋へ行くなんて、どう思います?」
「言っとくけど、旅行のメインは魔道具屋じゃないからな。というか、魔道具屋に行ったら駄目なのかよ。」
「別に、ダメとは言ってないわよ。だけど。わざわざ新婚旅行中に魔道具屋に寄る必要はないじゃない?魔道具なら、うちの店でつくってあげるもの。」
「…それは。たまたま、気になったから。」
ラスは、"たまたま"と言い訳しているけど。本当は、あの魔道具屋に行くのが私たちの目的だった。
「私、心配してたんだからね。あんたたちには、蜜月なんてないんじゃないかって。だって。幼いときから相思相愛だったのに、10歳を過ぎた頃には早々と倦怠期に入っちゃうし。結婚前には、すでに熟年夫婦みたいになっていたから。」
私たちのこじらせた話を蒸し返され、私とラスは耳が痛かったわ。
「心配かけて悪かったな。だけど。俺とリアは、ちゃんと新婚生活を満喫してるから、そんな心配必要ない。」
「ええ、心配いらなかったわね。あっという間に、赤ちゃんもできたものね。夏になって、エミリオに会えるのが楽しみだわ。あっ、ウィル様。このふたりは、結婚する前から子どもの名前を決めていたんですよ。」
「そうなんです。お腹の子の名前はエミリオって言うんですよ。きっと。ラスに似た男の子が生まれると思います。」
「それで。瞳の色は、俺とリアの色を混ぜたような淡い青をしてるんです。」
「それは、夏が待ち遠しいですね。僕も、ラザラス殿に似たエミリオ君に会える日を楽しみにしています。生まれたら、教えてくださいね。」
ウィルバート様の言葉を聞いたら、私とラスの頭に、終わらない贈り物の送り合いがよぎったの。エミリオが生まれたら、ウィルバート様は絶対に出産祝いをくださるわ。それに対して私たちは、内祝いを贈るでしょ。そしたら、きっと。また、ウィルバート様からお返しが届くのよ。それも。希少価値のあるものばかり…。
お返し選びに頭を悩ませる私たちの姿が、今から想像できちゃうわ。
それはそうと…。
「ウィルバート様。これ、新婚旅行のお土産なんですけど、よかったら食べてみてください。ひとつひとつ味が違うんですよ。」
私がアイテムボックスから、色とりどりのパッションフルーツを取り出したのを見たラスとエスターは、目を細めていた。このパッションフルーツは、色が同じでも味が同じとは限らなくて、ひとつひとつ違う味なの。甘いもの。すっぱいもの。からいもの。にがいもの。それから、まずいもの。こんな当たり外れが激しいパッションフルーツをウィルバート様へお出しした理由はね、薬の意趣返しなのよ。私は、薬を飲まされたことをいまだに根に持っているの。それなのに…。
「ありがとうございます。いただきます。」
ウィルバート様は、平然といくつもパッションフルーツを食べたの。どうして??おいしくないものに当たる確率の方が高いのに。首を傾げていると、エスターが理由を教えてくれたわ。
「何日か一緒に行動をともにしてみて、気づいたのだけど。ウィル様は貧乏舌…じゃなくて、味覚が独特…でもなくて。なんでもおいしいと感じるみたい。」
「リア…。ウィルバート様は、悪くないだろ??確かに。薬のもとをくれたのは、ウィルバート様だけど。それを飲ませたのは、俺とエスターなんだからな。」
ウィルバート様への、ささやかな仕返しに失敗したどころか、私のしつこさと幼稚さが浮き彫りになっただけだったわ。
結婚もして、子どももできたけれど、私って大人になりきれてないんだわ。数ヶ月後には、子どもが生まれるというのにね。
胎動を感じるようになった頃、未来を知っていることが必ずしもプラスに働くわけではないと実感していた。
姿見に映った、私とラスの結婚生活は冷え切っていたけれど、出産の日が近づくのをきっとここまで恐れてはいなかったと思う。
未来を知ってしまった現在の私は、お腹が大きくなるにつれ、恐怖心も大きくなっていったのよ。
予定日が近づくということは、エスターの死に近づくということだから。その日はもう、遠い未来なんかじゃない。すぐそこまで来ているの。
気持ちが不安定な私に、ラスは薬やアロマを処方してくれた。心を落ち着かせるものや、深い眠りを誘うものを。それから。1日に何度も私のお腹に触れ、エミリオの状態を確認していた。私がストレスを感じるのは、お腹にいるエミリオによくないのはわかっているのよ。それでも。どうやっても、この不安は消えなかった。
未来が悪い方へ変わるのを危惧したラスは、予定を前倒しすることを決めた。未来で、エスターの身になにかが起きたのは、私の出産予定日の2ヶ月前だった。だからエスターを伯爵邸から遠ざけ、予定日の3ヶ月前から家で一緒に過ごしてもらおうと考えていたの。ラスは、その計画をさらに1ヶ月早め、私のいないところでエスターに事情を説明した。嘘と本当を混ぜながら━━。
「リアは、結婚の前にも不安定になっただろ?」
「そうだったわね。あんたが、うちの父のように家に寄りつかなくなるから結婚をやめるなんて言い出して。」
「今は、エスターになにかあったらって不安になってるんだ。大きな腹じゃ、伯爵邸へすぐに駆けつけられないだろ?リアは、おまえがあの家で怪我をしてきたのを見てるからな。だから。リアを安心させるために、そばにいてやってくれないか。」
「マリッジブルーの次は、マタニティーブルーってわけね。けど、いいわよ。私の心配をしてくれてるんだもの。エミリオが生まれるまで、リアのそばにいるわ。」
「ああ。頼むよ。なにがあっても、絶対にリアのそばを離れないでくれよ。」
こうして。表向きは、出産を不安がる私の支えになるためという理由で、エスターは我が家に滞在するようになった。家には、エスターの仕事関係の手紙が届くようになり、彼女の忙しさを目の当たりにしたの。それでも。空いた時間には、お茶をしたり、庭園を散歩したり。それから。うちの家族と一緒に、私の誕生日も、私とラスの結婚一周年のお祝いもしてくれたわ。彼女の安全を確認できるようになると、不安も減って穏やかな日々を送ることができた。
けれど…。運命の歯車は止められなかった。
運命の日は。予定日まで2ヶ月となり、警戒心を強める中やって来た。
その日。ラスの20歳の誕生日プレゼントはなにがいいかと、エスターに相談しているところへ、伯爵家から使いの者が訪ねて来たの。切羽詰まった様子の使者から、事情を聞いたエスターは血相を変え、ひとこと私に謝ると応接室を飛び出した。
大きなお腹を抱えながら、すぐに後を追ったけれど、追いつけず、大きな声でエスターの名前を呼び続けたわ。だけど彼女は振り返ることなく、外へ出て行った。
窓の外に、馬に乗って伯爵領の方角へ駆け出すエスターの姿が見え、私は窓から身を乗り出した。そして何度も、行かないでと止めたけれど、彼女は行ってしまった。
『行っちゃダメ』
私の必死の叫び声は、エスターには届かなかったの…。




