「契約は終了だ」と冷徹公爵様に言われたので、喜んで出て行ったら「なぜ逃げる? 更新(結婚)手続きだ」と監禁されました
「三年だ。約束通り、この愛のない契約結婚は今日で終わりにする」
執務室の重厚な机越しに、その言葉は放たれました。
声の主は、私の夫であり、この国の宰相も務める公爵――グレイブ・オルコット様。
「氷の公爵」の異名通り、整いすぎた美貌には一切の感情が浮かんでいません。
ついに、この時が来たのです。
私は膝の上で拳を握りしめ、心の中で叫びました。
(よかった……! これでやっと、グレイブ様は自由になれるのね!)
三年前、没落寸前だった我が男爵家を救う条件として提示されたのが、この契約結婚でした。
女性避けの「飾り物の妻」。それが私の役割。
けれど、彼には心に決めた女性がいると、使用人たちの噂で聞いていました。ご幼馴染のイザベラ様です。
身分や派閥の問題で結婚できなかった彼女との障害も、この三年の間に彼の手腕で一掃されたのでしょう。
私の役目は終わったのです。
「はい、承知いたしました! 今まで本当にお世話になりました」
私は満面の笑みで答えました。
最後くらい、湿っぽい顔は見せたくありません。
すると、グレイブ様の眉間がぴくりと動きました。
「……ずいぶんと、嬉しそうだな」
「もちろんです。グレイブ様の長年の願いが叶うのですから」
「願い、か。……そうだな。俺も、もう限界だった」
ふう、と彼が溜息をつきます。
限界。その言葉に胸がちくりと痛みました。
愛のない私との生活は、彼にとって苦痛でしかなかったのでしょう。私は極力、彼の視界に入らないよう、屋敷の奥で刺繍をして過ごしていたのですが、それでも邪魔だったのかもしれません。
「手続きについては、今夜の夜会が終わった後に」
「はい。では、私は夜会の準備をしてまいりますね」
私は一礼して、執務室を退室しました。
パタン、と扉が閉まった瞬間、大きな息を吐き出します。
大丈夫。泣いてない。
この三年間、彼に優しくされるたび、名前を呼ばれるたび、惹かれていく自分を必死に殺してきました。
だって、私は「契約」だけの関係。彼が愛しているのは私じゃない。
「さあ、急がないと」
私は早足で自室へと向かいました。
夜会の準備? いいえ、違います。
今夜の夜会は、彼がイザベラ様との婚約を発表する場になるはず。元妻の私がいては邪魔になるだけ。
だから私は、夜会が始まる前に――この屋敷から「消える」つもりでした。
◆
自室に戻った私は、ベッドの下に隠していた古びたトランクを引きずり出しました。
中に入っているのは、地味な平民服と、三年間でこっそり貯めた「お給金」のへそくり。そして、署名済みの離婚届と、外した結婚指輪。
「ドレスも宝石も、全部置いていきましょう。これは『公爵夫人』への贈り物だもの」
私物と呼べるのは、実家から持ってきた裁縫セットくらい。
身軽なものです。
最後の点検をしていると、不意にノックもなく扉が開きました。
「あら、本当に荷物をまとめているのね」
華やかな香水の香り。現れたのは、イザベラ様でした。
豊かな金髪に、豊満な肢体。私のような小柄で地味な女とは正反対の美女です。彼女は頻繁に屋敷を訪れ、グレイブ様の執務室に出入りしていました。
「イザベラ様……」
「聞いたわよ。今日で契約終了なんですってね? やっと、本来あるべき場所に戻るのね」
「はい。今まで、お二人の時間を邪魔してしまって申し訳ありませんでした」
私が頭を下げると、イザベラ様は勝ち誇ったように笑い、自身の首元を指さしました。
そこには、大粒のサファイアの首飾りが輝いています。
「見て、これ。さっきグレイブから貰ったの。『今夜の夜会のために用意した。君にこそ相応しい』って」
「……っ」
サファイアは、グレイブ様の瞳の色。
それを贈るという意味は、一つしかありません。
心臓が早鐘を打ち、視界が歪みます。
「と、とてもお似合いです」
「ええ、知っているわ。さぁ、さっさと出て行って頂戴。夜会では私が彼の隣に立つのだから」
イザベラ様が出て行った後、私はへたり込みそうになる足を叩きました。
分かっていたことじゃない。
確認なんてしなくていい。事実は、あの首飾りが雄弁に語っています。
「行きましょう、ルチア。新しい人生が待っているわ」
私はトランクを手に、使用人用の裏口へと向かいました。
グレイブ様、どうかお幸せに。
あなたのことが、大好きでした。
◆
(……なぜだ?)
執務室に残されたグレイブは、書類にペンを走らせながらも、苛立ちを隠せずにいました。
先ほどのルチアの笑顔。
「もちろんです」という即答。
まるで、この結婚生活から解放されるのが嬉しくてたまらないといった様子でした。
「俺は、嫌われていたのか?」
グレイブは手を止め、引き出しから小さなベルベットの箱を取り出しました。
中に入っているのは、最高級のサファイアの首飾り。
瞳の色と同じ石を贈るのは、この国では「所有と愛」の証。
照れくさくて、まだ渡せていないプレゼントです。
「契約終了、即ち『契約結婚』の破棄と、『真の婚姻』への移行……そのつもりだったのだが」
グレイブは口下手でした。
加えて、表情筋が仕事をしなさすぎるせいで、常に冷徹に見られがちです。
この三年間、彼なりにルチアを愛してきました。
実家の借金を肩代わりし(「金ならある」としか言えなかった)、彼女が好きな刺繍糸を山ほど買い与え(「視察のついでだ」と言って渡した)、夜会では悪い虫がつかないよう常に牽制してきました(無言で睨みつけただけ)。
彼女も満更ではないと思っていたのですが、先ほどの反応は予想外でした。
「……夜会まで待つ必要はないな。今すぐ渡して、正式にプロポーズするか」
善は急げです。
グレイブは立ち上がり、ルチアの部屋へと向かいました。
しかし。
「ルチア?」
部屋は、もぬけの殻でした。
クローゼットの扉は開け放たれ、彼女の私服だけが消えています。
そして、綺麗に片付けられた机の上に、二つのものが置かれていました。
署名済みの離婚届。
そして、三年前、無理やり嵌めさせた結婚指輪。
「――――ッ!」
グレイブの全身から、文字通り冷気のような殺気が噴き出しました。
ちょうどそこへ、老執事のセバスが血相を変えて走ってきます。
「旦那様! ルチア様が、裏口から出て行かれました! 乗合馬車で港町へ向かうと……!」
「馬を出せ!!」
「はっ! ……あ、旦那様、窓から飛び降りるのはおやめください!」
グレイブは二階の窓枠に足をかけていました。
その瞳は、獲物を逃がした猛獣のようにぎらついています。
「逃がすものか。ルチアは俺の妻だ。誰が別れるなどと認めるものか!」
◆
街の乗合馬車ターミナルは、夕方の混雑でごった返していました。
私はフードを目深に被り、一番安いチケットを握りしめてベンチに座っていました。
ここから港町へ行き、そこから船で隣国へ渡るつもりです。
隣国なら、私の刺繍の腕でも食べていけるかもしれません。
「……さようなら、グレイブ様」
遠くに見える貴族街の方角を見て、小さく呟いた時でした。
ターミナルが、ざわりと騒がしくなりました。
「おい、あれ見ろよ」
「騎士様か? すげぇ勢いだぞ」
「いや、あれは……公爵家の紋章じゃないか?」
嫌な予感がしました。
まさか。そんなはずはありません。
恐る恐る振り返った私の目に飛び込んできたのは、黒馬を駆り、貴族街から一直線にこちらへ向かってくる黒い影。
「ルチアァァァァァッ!!」
聞き間違えるはずもない、低く、よく通る声。
グレイブ様!?
どうして? 離婚届は置いてきたはず! まさか、書き損じがあったの!?
「ひっ……!」
私は反射的に立ち上がり、停まっていた馬車の陰に隠れようとしました。
ですが、私の運動神経で彼から逃げられるはずもありません。
馬から飛び降りたグレイブ様は、流れるような動作で人混みをかき分け、私の目の前に仁王立ちしました。
「み、つけた……」
「ぐ、グレイブ様……?」
彼は肩で息をしていました。
いつも整えられている銀髪は乱れ、額には汗が滲んでいます。
そして何より、その瞳が必死すぎて、怖いほどでした。
「なぜ逃げる」
「な、なぜって……契約終了ですから! ご迷惑をおかけしないよう、消えようと……」
「迷惑? 誰がそんなことを言った」
「だって、イザベラ様と結婚なさるのでしょう!?」
私は叫んでいました。
溜め込んでいた思いが、恐怖と混乱で決壊したのです。
「私知ってます! 彼女にサファイアの首飾りを贈ったことも! ずっと彼女を想っていたことも! だから、私がいたら邪魔でしょう!?」
「……は?」
グレイブ様が、ぽかんと口を開けました。
氷の公爵にあるまじき、間の抜けた表情です。
「イザベラ? 誰だそれは」
「えっ」
「ああ……あの派手な髪の女か。あれはただの部下の妹だ。俺がいつ、あれに贈り物をした?」
「で、でも、首飾りを……」
グレイブ様は眉をひそめ、懐からゴソゴソと何かを取り出しました。
ベルベットの箱です。
パカリ、と開かれた中には、目が眩むような大粒のサファイアの首飾りが鎮座していました。
「俺が贈ったのはこれだ。まだ渡せていない」
「え……?」
「あの女が着けていたのが何かは知らんが、俺が選んだのはこれ一つだ。ルチア、君の瞳の色には合わないかもしれないが、俺の瞳の色だと思って、身につけて欲しかった」
周囲の野次馬たちが、「おお……」とどよめきました。
私は混乱の極みです。
イザベラ様の言葉は嘘? これが、本物?
しかも、私のために?
「じゃ、じゃあ、契約終了というのは……?」
「言葉通りだ。不毛な『契約結婚』は終わりにする」
グレイブ様はもう片方の手で、私が置いてきた離婚届を取り出しました。
そして、私の目の前で、それをビリビリに破り捨てたのです。
「代わりに、これにサインしてくれ」
差し出されたのは、一枚の書類。
『婚姻届』。
契約期間の欄には、「生涯」と書かれていました。
「更新手続きだ、ルチア。俺は君以外を妻にする気はない。……言葉が足りなかったなら謝る。君を愛している。頼むから、俺の前から消えないでくれ」
あの冷徹なグレイブ様が、公衆の面前で、私の手を握りしめて懇願しています。
その手は、小刻みに震えていました。
嘘をついているようには、どうしても見えません。
「……ほんとうに、私でいいのですか? 地味で、取り柄もなくて……」
「君がいい。君の淹れるぬるめの茶も、俺の背中を気遣う視線も、全てが愛おしい。君がいない人生など考えられない」
熱いものが、目から溢れ出しました。
私は彼の手を握り返し、何度も頷きました。
「……更新、します。私も、グレイブ様をお慕いしておりました……!」
その瞬間、ターミナルは割れんばかりの拍手と指笛に包まれました。
グレイブ様は安堵したように息を吐くと、私を軽々と横抱きに抱き上げました。
「帰ろう、ルチア。俺たちの家に」
◆
その後、イザベラ様の嘘は社交界で露見し、彼女は地方の修道院へ送られたそうです。
彼女が着けていた首飾りは、自分で買った模造品だったとか。
そして私は今、グレイブ様の膝の上に閉じ込められています。
執務中だというのに、「充電だ」と言って離してくれないのです。
「グレイブ様、書類が進みませんよ?」
「いいんだ。お前が逃げないか監視する必要がある」
「もう逃げませんよ。契約書、書きましたもの」
私の首元には、あのサファイアが輝いています。
グレイブ様は満足そうにそれに口づけを落とし、私の耳元で囁きました。
「愛している、ルチア」
契約終了から始まった、本当の結婚生活。
どうやら更新後の契約内容は、私の想像以上に甘くて重いものになりそうです。
最後までお読みいただきありがとうございました!
「契約終了=溺愛開始」というすれ違いカップルのお話、楽しんでいただけましたでしょうか。
言葉足らずな公爵様が、必死に追いかけてくるシーンを書いていてとても楽しかったです。
もし「スカッとした!」「二人が幸せになってよかった!」と思っていただけたら、
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それでは、また次の物語でお会いしましょう!




