君が通う、異世界温泉宿
山間に抱かれた温泉宿場〈トゥエラの湯〉は、濃い霧のような湯気が一日中ただよう不思議な町だった。
温泉の湯には微量の魔力が宿り、傷を癒やし、疲労した身体を緩め、魔力切れを回復させると言われている。旅人や冒険者はもちろん、近隣の領からも人が訪れる。
ミラはそこで働く若い従業員だった。湯掃除、洗い場の準備、薪割り、客の案内。朝から晩まで慌ただしいが、不思議と苦にはならない。湯気の向こうで、客がほっと息をつく瞬間を見るのが好きだった。
半年ほど前から、月に二度ほど訪れるようになった客がいる。護衛職の青年、リドだ。仕事柄、身体を酷使することが多いらしく、古い傷が痛むのだという。無口で無愛想だが、ミラが調整した湯には必ず「ちょうど良かった」と短く礼を言う。
そんなリドの姿を、ミラはいつの間にか気にかけるようになっていた。
初夏の朝。
まだ夜明け前の薄暗い時間帯に、ミラは一日の準備を始めていた。まず内湯の清掃を終え、次は露天風呂へ。木の葉をすくい取り、湯温を均一にする。
そのとき、小さな気配が背後に落ちた。
「おまえ、毎朝こんな時間から働いてるのか」
振り返ると、濡れ髪のリドが立っていた。肩までタオルをかけ、湯上がり特有の熱を帯びた肌が薄紅色だ。内湯で朝風呂を浴びてきたらしい。
「リドさん、おはようございます。お湯、ちょうど良かったですか?」
「ああ。いつも通り、完璧だ」
ミラは少し照れくさくなって、視線を逸らした。リドは昨夜遅くに到着し、今日の昼過ぎには次の護衛任務で発つ予定だ。いつもそうして、二泊三日ほどで去っていく。
「背中の傷、少しは良くなりましたか?」
「ああ。おまえが調整してくれる湯は、よく効く」
リドは少しだけ表情を緩めた。ミラはその顔が見たくて、いつも丁寧に湯を整えていた。
「それなら良かったです」
「ミラ」
「はい?」
リドは少し言いづらそうに口を開いた。
「最近、この辺りで魔獣の目撃情報が増えてる。ひとりで裏手に行くな」
「魔獣……ですか?」
「ああ。俺が護衛してる商隊も、山道で遭遇した。念のため、気をつけろ」
ミラは頷いた。リドがわざわざ忠告してくれるということは、本当に危険なのだろう。
「ありがとうございます。気をつけます」
リドは小さく頷き、宿へと戻っていった。その背中を見送りながら、ミラは胸の奥に小さな寂しさを感じた。
それから十日ほど経った朝。宿では朝からざわつきが続いていた。
宿の主人である老人が困り顔を見せた。
「源泉の温度が下がっておる……こんなことは初めてじゃ」
ミラも湯温を確かめる。確かに、いつもよりぬるい。このままでは客を入れられない。
「源泉まで見に行ってみます」
「いや、危険じゃ。魔獣の噂もあるし……」
そのとき、宿の入口から声がした。
「異変があると聞いた」
振り返ると、リドが立っていた。前回の滞在から、まだ十日しか経っていない。
「リドさん、どうして……?」
「近くまで護衛任務で来ていた。宿場で源泉の話を聞いて、気になって寄った」
リドはミラを見て、短く言った。
「源泉を見に行く。案内しろ」
「でも、危ないかもしれないんです」
「だから俺が行く。おまえは道を知ってるんだろう?」
主人は深く頭を下げた。
「助かります。どうかお願いします」
ミラは頷き、リドと共に裏山へ向かった。湯気が薄れ、風が冷たい。いつもと何かが違う。
源泉の岩場に近づいた瞬間、ミラは違和感に気づいた。
「あれ……湯口の石が動いてる……」
岩を支える石がいくつもずれ、湯の流れが妨げられている。そのとき、リドがミラの肩を掴んだ。
「動くな」
低い声。次の瞬間、岩影から一頭の魔獣が姿を現した。獣のような姿だが、眼は魔力に濁っている。岩場の周辺には、魔獣が暴れ回った痕跡が残っていた。
「こいつが住み着いて、岩場を荒らしたのか……」
リドが低く呟く。
「ミラ、後ろに下がれ」
リドが剣を抜く音が響いた。魔獣が跳ねかかる。リドは冷静に受け流したが、古傷をかばうような動きが見えた。
魔獣が再び跳ね、岩に激突する。その衝撃で、さらに温泉の縁が崩れ落ちた。
「リドさん!」
リドは魔獣と距離を取りながら、ミラに叫んだ。
「来るな! そこにいろ!」
だが、魔獣はリドの足元を狙って襲いかかる。リドがバランスを崩した瞬間、ミラは咄嗟に手近な石を拾って投げた。
石は魔獣の脇腹に当たり、一瞬だけ動きが止まる。その隙にリドが剣を一閃させた。魔獣は地に伏した。
リドはミラを振り返り、険しい顔をした。
「おまえ……無茶するな」
「ごめんなさい。でも、リドさんが危なくて……」
「俺のことはいい。おまえが怪我したら、俺は……」
リドは言葉を飲み込み、視線をそらした。
ミラは胸が熱くなるのを感じた。この人は、自分のことをそんなに心配してくれるのだろうか。
二人は崩れた源泉を見た。湯の流れを妨げていた石を、元の位置に戻す必要がある。
「これを直せば、温度も戻るはずです」
「わかった。俺が石を動かす。おまえは流れを確認しろ」
二人は協力し、魔獣が荒らした岩場を修復していく。大きな石を動かし、湯の流れを整える。やがて湯温が上がり始め、空気が温かさを取り戻していった。
「これで……大丈夫そうです」
ミラが安堵の息をつくと、リドも小さく頷いた。
宿に戻ると、主人夫婦は安堵の表情で二人を迎え入れた。
「ほんとうに……ありがとうございます……!」
ミラはリドの腕に包帯を巻きながら、小さく呟いた。
「怪我、大丈夫ですか?」
「かすり傷だ」
「でも……」
「おまえこそ、怪我はないのか?」
リドはミラの手を取って確かめた。その手は大きくて、温かかった。
「ないです。リドさんが守ってくれましたから」
「当たり前だ」
リドは低い声で言った。
「ミラ」
「はい?」
「俺は……おまえが危険な目に遭うのが、一番嫌だ」
ミラの手が止まった。
リドは続けた。
「最初は、ただ湯が良いから通ってるだけだと思ってた。けど、違った。おまえに会いたくて、ここに来てた」
「リドさん……」
「おまえの顔を見ると安心する。おまえの声を聞くと、疲れが取れる。それが……どういうことか、最近になってやっと分かった」
リドはミラの手首をそっと掴んだ。
「ミラが、好きだ」
ミラの呼吸が止まる。
「俺は護衛職だから、いつもここにいることはできない。でも……おまえが良ければ、ここを帰る場所にしたい」
ミラの目に涙が滲んだ。
「僕も……リドさんが来るのを、いつも楽しみにしてました。怪我が治っていくのを見るのが嬉しくて、次はいつ来るんだろうって、ずっと待ってて……」
「ミラ」
「僕も、リドさんが好きです」
リドの目が柔らかくなった。指先が触れ、手が重なる。
「これから、もっと頻繁に来る。仕事の合間を見つけて、できるだけ長く滞在する」
「はい。待ってます」
二人はそっと額を寄せ合った。
それから数ヶ月。
リドは約束通り、以前よりも頻繁に宿を訪れるようになった。護衛の仕事の合間を縫って、時には週に一度、時には三日に一度。
ミラは彼が来るたびに湯を整え、リドはミラのために薪を割り、重い荷物を運んだ。二人の時間は少しずつ、しかし確実に積み重なっていった。
ある日の夕暮れ、ミラが湯の準備をしていると、リドが後ろから声をかけた。
「ミラ」
「はい?」
「今日、主人に話をした」
「話……ですか?」
リドは少し緊張した面持ちで言った。
「俺、ここで働かせてもらえることになった」
ミラは目を丸くした。
「え……?」
「護衛の仕事は続けるが、拠点をここに移す。宿場の警備も兼ねて、ここに住む」
「本当に……ですか?」
「ああ。おまえの近くにいたい。それに、ここの湯は俺の身体に合ってる」
リドは照れくさそうに視線をそらした。
「だから……これから、ずっと一緒だ」
ミラの目に涙が溢れた。
「はい。嬉しいです」
湯気が二人を包み込む。リドはミラの肩を抱き寄せた。
湯けむりの街〈トゥエラの湯〉には、今日も穏やかな風が吹き込む。宿の裏手には、二人が暮らす小さな小屋がある。
リドは薪割りを、ミラは湯の準備をしている。傍らには、二人のためだけに使う小さな湯船がある。
「ミラ」
「なに?」
「今日も一緒に入るぞ」
「はい」
ミラは微笑んだ。リドも小さく笑う。
湯気の向こうで、二人は新しい日々を歩んでいる。温かさと、確かな愛情を抱きながら。




