玖:乖離と渇望
セーラ・ビカ子爵令嬢は、非常識な娘だった。
学園に編入してからの振る舞いは、礼儀作法の初歩すら身についていないとしか思えなかった。
婚約者持ちの令息に遠慮なく腕を絡め、場にそぐわぬ大声で笑い、それでいて「皆と仲良くしたいのです」などと殊勝ぶった口を利くのだから、始末が悪い。
ゼイビアは冷めた目でその姿を観察した。
標的を値踏みする商人と、たいして変わらない気分だった。
これが任務でなければ、二度と視界に入れたくない。
だが、父の命令は絶対だった。
噂や視線を自分に集中させない為に、友人たちを巻き込んだ。
四人で行動すれば不自然さは紛れるし、ビカ子爵令嬢の不快感も分散する。
オーウェンは、退屈な学園生活に面白い遊びを見つけたとばかりに乗り気だった。
ヴァーノも暇つぶしに、あるいは隣国への土産話にでもするつもりか、協力的だった。
一方でマシューは終始不満顔。公爵家嫡男のくせに腹芸ができないとは情けない。
あろうことか「テリーサの機嫌が良くないから抜けたい」とまで言い出した。
ゼイビアはこれを即座に却下した。
自分一人だけ婚約者とイチャつくなど許せない。
ゼイビアだって、可愛い天使の機嫌をとりたいのだ。
マシューの婚約者もだが、ゼイビアの可愛い天使ことヴァイオレットも、ここ最近は機嫌が悪い。
その原因が誰かなど、言うまでもない。
ビカ子爵令嬢である。
父から命じられた任務のせいで、ヴァイオレットと過ごす時間は以前より減った。ランチもデートもしていない。
すれ違うたび、彼女はツンと顎を上げる。呼びかければ返事はするものの、声は固い。
分かりやすい。
拗ねているのだと、痛いほど分かる。
本当は一番に寄り添いたいのに、事情を明かせない。
任務さえ終わればすぐに誤解を解けるはずなのに、肝心の調査は空を切ったままだった。
分かったことといえば、雑貨屋の仕入れや販路に助言をしていたのが、あの子爵令嬢本人だということくらいで裏の証拠にはならない。
ゼイビアは苛立ちを押し殺しながら、早く終わらせねばと拳を握りしめた。
「なあ聞いたか? ヴァイオレット嬢、またビカ子爵令嬢を叱ったらしいぜ」
面白がるように話すオーウェンの声が耳に入る。
彼には恋の機微など分からないのだろう。
配慮という言葉は持ち合わせていない。
「女の嫉妬は怖えなあ、ゼイビア」
「ヴァイオレットから向けられるものなら、嫉妬でも嬉しいよ」
「うげえ、俺には分かんねえわ」
肩をすくめて笑う友人に、ゼイビアは取り合わなかった。
分かるはずがない。あの愛しい天使のすべてを欲してやまない気持ちなど。
しかし、ヴァイオレットには悪いが、嫉妬に顔を紅潮させる姿すら、ゼイビアには安らぎだった。
自分を想ってくれていると、疑いようもなく示してくれるからだ。
だが、ある日を境に、その態度が変わった。
舞踏の授業でビカ子爵令嬢に注意の言葉をかけている途中で、ヴァイオレットの顔色がみるみる悪くなったのだ。
教師に一言伝えると、彼女はそのまま授業を抜けていった。
名前を呼んだが、振り返らずに行ってしまった。
気付かなかったのか、それとも……。
以来、ヴァイオレットは必要以上に言葉を交わさなくなった。
笑顔は向けてくれる。
だが、それはどこか作り物めいていて、ゼイビアの胸を締めつけた。
めぼしい情報も得られぬまま、ヴァイオレットの態度は冷え、ゼイビアの苛立ちは募る一方だった。
そんな折、ビカ子爵令嬢の奇行が目立ち始めた。
何もない場所で転んでは「私、ドジだから」と笑ってみせ、「誰かに押されたのかも」と暗に匂わせる。
自分で教科書に落書きをしておきながら、「嫌がらせを受けた」と大げさに泣き出す。字を見れば誰が書いたのかは一目瞭然だというのに。
頭がおかしいとしか思えない。
あるいは、こちらを愚かだと侮っているのか──『虐められて可哀想で、それでも健気に耐えている娘』を演じているのは見え透いているというのに。
ゼイビアは父へ報告を上げた。
ビカ子爵令嬢の助言で商いが伸びているのは事実だが、それは才覚によるものではなく、ただ運が味方しただけだ、と。
彼女は優秀どころか、凡庸……いや、むしろ愚かしい娘である、と。
父は「そうか」とだけ言い、あっさりと頷いた。
そして、調査はもう少しで切り上げても構わないと許可を出した。
一週間後、夏の恒例行事である王宮の夜会の日が訪れた。
貴族たちが一堂に会する盛大な場であり、次代を担う若者にとっては顔を売る絶好の機会でもある。
ゼイビアは黒の正装に袖を通し、胸飾りを整えた。
表向きは宰相家の嫡男としての役目を果たす夜だが、内心はそれどころではない。
任務は終わりに近付いているはずなのに、ヴァイオレットとの距離は戻らない。会場入りも別々だった。
彼女の笑顔は仮面めいて、視線を合わせようとしてもするりと逸れていく。その姿が、どんな社交の場よりも息苦しかった。
煌めくシャンデリアが広間を照らし、音楽と笑い声が渦を巻く。
花と香水の甘い匂いが入り混じり、若い令嬢たちが楽しげに舞っている。
だが、ゼイビアにとっては喧噪も光もすべて遠い。
「ねえ、ゼイビア、聞いてる?」
甘ったるい声に、仕方なく笑顔を作り「聞いてるよ」と返す。
くねくねと体を揺らす女の後ろでは、オーウェンが面白がってニヤニヤし、ヴァーノはその肩を小突き、マシューはテリーサに手を振っていた。
目の前で甘い声を上げる女に、殺意が湧いた。
拳の関節が白くなるほど力が入った。
◇
広間の人波を見渡した時、ヴァイオレットの姿が見えなくなっていた。
さっきまでそこにいたはずなのに。
胸の奥にざわりと不安が走る。
視線を左右に巡らせても彼女は見つからない。
そして気付けば、ビカ子爵令嬢の姿までも消えていた。
嫌な予感がした。
「ゼイビア」
低く呼ぶ声に振り向くと、ヴァーノが顎で廊下に通じる扉を示していた。その顔はわずかに険しい。
扉を押し開け、薄暗い廊下へ足を踏み入れる。
歩を速めた、その時。
「ひどいです……! ヴァイオレット様……!」
胸が冷水を浴びせられたように凍りつく。
ヴァイオレットの名を呼ぶその声の主が誰か、考えるまでもなかった。
ゼイビアは駆け出した。
「あっ、これは……違うの! 全部、私が悪いの!」
ゼイビアが二人の元に着いた途端、ビカ子爵令嬢が大げさに声を張り上げた。
染みを広げたドレスと、しおらしく震える肩のビカ子爵令嬢。
その横に立つのは無言のヴァイオレット。
ゼイビアは歓喜した。
頬が緩む。笑ってはいけないと分かっているのに、笑みが止められなかった。
彼女が、自分を想っている。疑いようもなく。
その事実が甘く、そして恐ろしいほど嬉しかった。
「ヴァイオレット?」
──ヴァイオレットが嫉妬に駆られて果実酒を浴びせたのだ。
胸を締めつけていた不安がほどけ、心の奥に熱が灯った。
けれど、その次に響いた声は鋭かった。
「私は嫌がらせをするような浅ましい真似はいたしません。それに、恥知らずでもないわ」
言い終えると同時に、ヴァイオレットは視線をセーラへと流した。
「僕の婚約者殿は、今日はずいぶんと棘があるね」
「疑われて笑えるほど器用じゃありません……。失礼します。どうぞごゆっくり」
弁明の言葉を探す間もなく、ヴァイオレットは踵を返した。
「ヴァイオレット? ……どこへ行くの? そっちはだめだよ。待って」
その先は、逢引き用の部屋が並ぶ通路。
赤い灯りが揺れるたびに、そこが何の為の場所かを告げている。
ゼイビアは迷わず彼女を追った。