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捌:支配と愛情

 婚約者が決まったと告げられたのは、ゼイビアが九歳になって(ひと)(つき)経った頃だ。


 母が目を輝かせて「あなたの婚約者が決まったわよ!」と言った。


 胸に湧いたのは喜びでも反発でもなかった。

 一言だけ「分かりました」と答えた。

 振り返っても、それは子供じみた反応ではなかった。


 小国の第二王女という肩書を背負いながら、母は娘のような気質を失わなかった。

 可憐なもの、美しいものに心を寄せ、ヴァイオレットがどれほど聡明で愛らしいかを語る時の表情は、夢見る少女そのものだった。

 その横顔を父は大事そうに見つめていた。

 今も母に夢中なのだと、その表情が語っていた。


 二人の馴れ初めを乳母から聞かされたこともあったが、途中で遮った。

 内容云々ではなく、両親の恋物語など、息子にとっては居心地の悪い話でしかないからだ。

 どうやら、父はかなり強引な手を使い、母を娶ったらしいが、その詳細は知りたくない。


 いつかの夕食の席にて、父に言われたことがある──「ウッドブリッジ家の男は皆、情熱的なんだ」と。


 その時のゼイビアは笑顔で頷きながら馬鹿らしいと考えていた。

 誰と結ばれたところで、結果は同じだ。

 目の肥えた母の息子である自分に、物珍しい美しさなんてない。

 侯爵家の次代として妻を娶り子を成すことができれば、相手は誰でもよかった。


 強いて言うならば、大人しくて従順で物分かりのよい相手がいい。


 そう思っていた。


 なのに、初めて彼女を見た刹那、ゼイビアの世界は変わった。


 美しい澄んだ琥珀色の瞳に囚われた。


 光を閉じ込めたような眼差しでこちらを見上げてくる女の子に、気付けば膝を折っていた。


 礼を尽くそうと考えたわけではない。

 目の高さを合わせなければ、この出会いが永遠にすり抜けてしまうように思えたのだ。


 淡い紫のドレスに包まれた少女は、恥じらいを帯びた笑みを浮かべていた。

 あどけなさと気高さが一つに溶けあったその表情は、天使の姿を借りた幻のようで、心臓を撃ち抜かれた。


 体の奥に燃えつくような衝動が広がった。

『恋』では足りない、逃げられない感情が胸に沈んだ。

 彼女を失いたくないという思いが、幼い心を締め付けた。


 差し出された小さな手を握ると、その瞬間に分かった。

 未来を握ったのは自分の方だと。


「よろしくね、ヴァイオレット」


 ゼイビアの言葉に、ヴァイオレットはこくんと大きく頷いた。

 彼女の反応に、この顔に生まれてよかったと思った。嫌われてない、と安堵した。

 こんなことを思うのも初めてだった。


 ゼイビアはヴァイオレットに優しくした。贈り物も手紙も、自分で選んだ。

 最初は任せるつもりだった贈り物も、気付けばすべて自分の手で選んでいた。


 ヴァイオレットは愛らしかった。

 今も変わらず可愛いし、年を重ねてもきっとそのままだろう。

 その可愛さに甘やかされているのは自分の方で、彼女の望みなら、どんなことでも叶えてやりたくなる。


 ただ、彼女の口から出る『お願い』の中には、時々どうにも困らされるものがあった。


「口付けをしてほしいです」


 それを最初に言われたのは、彼女の十歳の誕生日祝賀会の場である。


 贈り物を渡した時、ヴァイオレットは小さな声で「欲しいものがあります」と言ったのだ。

「何でもいいよ」と答えた自分に返ってきたのが、その言葉だった。

 困ったのは、叶えたくなかったからではない。

 よりにもよって両家の親が揃い、客人の視線まで注がれる場で口にしたことだった。


 どうして二人きりの時に言わないのか、と心の中で呻いた。

 だけど、すぐに頬に軽く触れるくらいなら、と考えた。

 ちらりとキャンベル侯爵を見やると、鋭い眼差しがこちらを射抜いていた。それを正面から受け止めてしまい、ゼイビアの手は空中で止まった。

 そして迷った末に、手の甲に口付けを落とした。


 それから、どうにか二人きりになった時、頬に唇を落とした。

 これは、二人だけの秘密──のはずだった。


 けれど後日、彼女が自分付きのメイドに口にしてしまい、噂はすぐ侯爵の耳に届いた。


 送りつけられたのは、途切れることなく責め立てる叱責の手紙だった。


 読み終えたゼイビアは机に額を押しつけ、舌打ちを噛み殺した。


 ……婚約を白紙にされては堪らない。


 そう悟ったゼイビアは、我慢するしかなかった。


 ◇


 十六を迎えたゼイビアは、王立ウェイクフィールド学園に入学した。


 二つ下のヴァイオレットは、まだ通えない。

「私も通いたいです」と唇を尖らせる顔が愛らしくて、内心では劣情を燻らせながらも、困った笑みを作って諭すしかなかった。


 寂しいのはゼイビアも同じ──いや、ヴァイオレット以上だったかもしれない。


 三日と開けずにウッドブリッジ家へ顔を出していた彼女は、ついに自身の母親に注意され、回数を減らすと言った。これが寂しくないわけがない。


 それでもゼイビアは、平然を装った。


 自分はヴァイオレットの理想の王子でなくてはならない。

 会えない寂しさを見せるより、彼女を安心させる方を選んだ。



 学園生活は、思っていたよりも楽しかった。

 幼馴染である、騎士団長の次男オーウェン、公爵家の嫡男マシューに加え、隣国侯爵家からの留学生ヴァーノン。

 気付けば三人とつるみ、くだらない冗談や内緒話を交わす日々だった。

 ヴァイオレットには決して聞かせられない話も多い。


 マシューとは特に気が合った。

 互いに婚約者を心から大切に思っていて、しかも二人の婚約者同士も親しい友人関係にある。必然的に、長い付き合いになると確信できた。

 オーウェンは次男ゆえ、まだ婚約者はおらず、奔放に見えるところがある。

 ヴァーノンには故郷に好きな子がいるらしいが、正式な婚約はまだ結ばれていなかった。


 良識ある貴族の子らが集う学園は、穏やかで平和だった。


 オーウェンは「退屈だ」としきりに文句を言ったが、ゼイビアは一度もそう思わなかった。

 なにせ、試験では必ず首席を取らねばならない。

 ヴァイオレットに「すごいです」「さすがです」と言わせる為に。

 その言葉を想像するだけで、自習も苦にならなかった。


 馬術部の活動にも力を注ぎ、次代侯爵としての学びも怠らない。

 そして合間を縫って、愛しい天使に会いに行く。


 ゼイビアにとって、退屈どころか、時間が足りないほどだった。



 やがて二年が過ぎ、待ちに待った日が訪れる。

 ヴァイオレットが学園に入学してきたのだ。


「同じ学園に通えること、大変嬉しく思いますわ」

「僕もだよ」


 周囲の目を気にしてか、ツンと澄ました表情で、それでも耳の赤いヴァイオレットに、ゼイビアは余裕の微笑みを返した。


 それは彼女が夢に描く王子の顔。

 同時に、己の心の奥で燻る感情を誰にも悟らせない為の仮面でもあった。


 ヴァイオレットと共に昼食の時間を過ごしたり、マシューとその婚約者を交えた勉強会を開いたり、街へ降りたり、両家で食事をともにしたり……二年間は矢のように過ぎていった。


 だが、最終学年となった四年生の春。

 父からの命令が下る。


「ビカ子爵は最近再婚し、連れ子を迎えたばかりだ。その直後から商いが急に繁盛している。仕入れた品が次々と大当たりしているそうなんだが……不自然すぎる。あの男にそんな才覚はない。だから裏で何をしているのか、娘から探り出せ。年頃の娘なら口も軽い。お前の見てくれなら骨抜きにするのもたやすいだろう」


 言葉を飾らずに言えば、それはハニートラップの命令だった。


 本音では断りたかった。でもそれが難しいならば、誤解だけは避けたい。

 だから、父に許可を求めた。ヴァイオレットにも話してよいか、と。

 だが、その考えは即座に退けられた。


「ここで功績を作ったほうが、後々お前の為になる。侯爵家を継ぐには力だけでなく、王家や他の諸侯からの信頼が要る。若いうちに実績を示しておけば、お前が当主となった際、誰も軽んじはしない」


 その言葉は、幼い頃から繰り返し聞かされてきたものだった。

 功績、実績、信頼──父の口から出るのは、いつもその三つだ。


「ヴァイオレット嬢には言わずに遂行しろ。あの娘は顔に出やすい」


 突き放すような声音に、返す言葉をなくした。

 胸の奥で反発は渦巻いても、口からは何も出てこない。


 さらに父は、すでにキャンベル家に話を通していた。


 最初から逃げ道など存在しなかったのだ。

 避けられない現実に、胸の底が冷たく沈んだ。

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