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ヴァイオレット・キャンベルは『悪役令嬢』を演じない  作者: ゼン
ヴァイオレット・キャンベル
6/10

陸:幸福と確信

「い、今……キ、キス」

「うん、したね」

「ど、どうして……」

「最近は強請ってくれないけど、昔から強請ってくれたでしょ? だから、した」

「でも……でも……いつも、してくれなかったではないですか。なんで、こんな時に? ……まるで誤魔化すみたい……」


「誤魔化す? ははっ、誤魔化してるのは『いつも』のほうだよ」

 ゼイビアが小さく笑い声をこぼす。


「え?」

「だって、君ってば使用人やご両親の前で言うんだもの。さすがに自重しないとね。ヴァイオレットは皆のお姫様なんだからさ」

 翡翠の瞳が悪戯めいて細められる。

「それに……今日のキスは内緒だよ。結婚するまでだめだって、君の父上からきつく言われてるんだ」


「で、でも──」

「今日のヴァイオレットは、『でも』が好きだねえ」

「だって、今のあなたはビカ子爵令嬢のことが!」

「『今のあなた』って、何? ……僕は、ずっと僕のままだよ?」


 そう言うと、ゼイビアは「はあ」と息を吐いた。


「……っ」

(またため息だわ……)


 ヴァイオレットが下唇を噛むと、それを彼の指が遮った。


「ああ。違う、このため息はアレにしてる。君にじゃない」


(『アレ』って?)


 もしかして、セーラのことだろうか?


 密かに答えを出しながらも、ヴァイオレットは彼の言葉に縋る。


 じっと見つめていると、ゼイビアが観念したように呟いた。


「……ビカ子爵令嬢だよ」

「どうして『アレ』なんて……」

「『アレ』で十分だからだよ。それに外で誰かに耳にしても、誰のことか分からない」

「?」

「ビカ子爵家の状況は知ってるかな?」

「え? ……いえ」

 不意の問いかけに、ヴァイオレットは戸惑いながら首を振った。


「小さな嗜好品商会をいくつか営んでいて、収支はとんとんか、せいぜい黒字が出る程度だった。でも一年前、アレ──ビカ子爵令嬢が養女になってから急に繁盛し始めたんだ」


 ゼイビアは淡々と告げながら、ヴァイオレットの下唇に指を添えた。ヴァイオレットの悪癖で噛もうとするたびに、それを邪魔するように、けれどもなぞるように。


「父に探るよう言われて、僕も張り付いてた。どうやらアレは高位貴族の令息が好きらしくてね。だから友人たちを巻き込んで調査してる」


 話の内容は遠くに追いやられ、意識は唇に触れる指先に引き寄せられていく。


「マシューは嘘が下手で調査役には向かないって本人も分かってるんだけれどね……。でも、一人だけ婚約者とイチャつくなんて許せないからね、無理矢理付き合わせてるんだ。まあ、申し訳ないとは思ってるよ」


 叱られているはずなのに、撫でられている子犬のようで落ち着かない。


「もちろん、テリーサ嬢も君と同じで何も知らないことになってる。だから言っちゃだめだよ?」


 こくこくと頷きながら、指先から逃れようとしてみる。

 けれど、触れられるたびに力が抜けて、うまく身を引けなかった。


「だけど、アレに決定的な怪しさはないんだ。ただ、無礼で教養もなく、男好きなだけ。……悪事と呼べるものは何一つしていない。だから、そろそろ監視は終わるんだよ。そうしたら、じっくりヴァイオレットとの時間を作ろうと思ってたんだ」

「……ん、最初、から、言ってくれなかった、のは、なぜ……ですか? 言ってくれたら、協力、できた、のに……」


 口元に触れられているのが恥ずかしくて、声がうまく出ない。

 言葉を紡ぐたび、唇に残る指先の感触に意識を奪われてしまう。


「やっ、も、もう、唇を触らないでください……」


 集中できないのと落ち着かないのとで、ついに文句が出る。


「ん? ああ、ごめん。楽しくて」


 指を離す気配はなく、ゼイビアの声音には悪びれた様子も微塵もない。

 しかも今度は肩口に額を寄せ、がっちりと抱きしめてきた。

 腰と肩を逃さぬように抱き込まれ、心臓が早鐘を打つ。

 動こうにも、もう身じろぎすらできない。


「ヴァイオレットはさ、嘘も演技も難しいでしょ? 素直で思ってることが出ちゃうし、頑張ると空回るから言わないで置こうって君の家族とも決めたんだよ。だから、君の家は、僕がアレといても怒らなかったんだ」


 肩越しに落ちる低い声。

 抱き寄せられた腕の強さに鼓動が乱れる。

 腹立たしいはずなのに、胸の高鳴りが先に立って、怒りが生まれる前に掻き消されてしまう。


「つまり、子供扱いですね」

 ツン、とした口調で言う。

「違う。子供扱いなんかしてない。そんなつもりはない。ただ、君が大事なんだ。……好きなんだよ」


 囁きの余韻が耳に残り、熱を帯びたまま内に沈んでいく。


 優しいはずなのに反発したくて、それなのに、甘い痛みに変わってしまう。

『大事』、『好き』という響きに心が縛られ、息が詰まるほど揺さぶられた。


「機嫌を直してよ」

「……」

「ヴァイオレット、お願い」


(そんな顔をするなんて、ずるいわ……)


「……直します。……でも……」

「『でも』? 何?」

「私、ビカ子爵令嬢のドレスに果実酒をかけていません。信じてください」

「ええ? ……なぁんだ、そうなの? ……はあ、それくらい嫉妬してくれてるかと思ったのに……残念だな」


 胸の内側にふっと安堵が灯る。

 もし嫉妬で暴走したとしても、彼は自分を突き放さない。むしろ、そんな気持ちすら受け入れてくれるのだと感じて。


 恥ずかしさを誤魔化すように、ぷいと横を向いたヴァイオレットの仕草は、膨れっ面にしか見えなかったろう。


「アレの調査の方がつくまでもう少しだから、寂しくても我慢してね?」


 言いながらも腕の力を緩める気配はない。

 実際に我慢しているのは彼のほうだと、ヴァイオレットは夢にも思っていなかった。


「……はい……分かりました」

「いい子だ」


 素直に頷いたヴァイオレットを抱きしめたまま、ゼイビアは喉の奥で小さく笑った。

 その笑いは、安堵なのか、それとも企みめいたものなのか判別がつかない。

 けれど、すぐに分かった。

 彼の腕がさらに強く回され、息も詰まるほどの抱擁に変わったからだ。


「え? ゼイビア様、こういったことは、だめなのでは、って──んぅ、っ……」


 抗議は、のみ込まれた。


 唇を塞がれ、舐められ、吸われ、甘噛みされる。


 柔らかいはずなのに、どこか無理やりで、どうしようもなく支配的。

 肩に力が入っていたはずなのに、指先が勝手に緩んでいく。

 熱が、逃げない。


 頭の中はぐしゃぐしゃなのに、顔中が異常に熱くなり、目の奥が滲んでくる。


 嬉しいのか、怖いのか、自分でも分からない。


 唇が離れると、目の前にゼイビアの顔があった。

 翡翠の瞳がこちらを覗き込み、吸い込まれるように見返してしまう。

 その視線の奥に、自分だけを映しているのが分かって、胸が震えた。


 逃げる、なんて。思い浮かびもしなかった。


「ああ、早く、結婚して一緒に暮らしたい。君の卒業まで長すぎる」

「……たったの二年です」

「二年()だよ」


 その囁きに、息の仕方すら忘れてしまいそうだった。


 涙がこぼれそうになる。

 でも、悲しいわけじゃない。

 胸の奥でほどけるような幸福が溢れて、息が追いつかないだけだった。


 抱きしめられると、衣服越しに伝わる鼓動が、自分の乱れた息と重なっていく。

 落ち着こうとすればするほど熱がこみ上げ、けれど不思議と安心もあった。


 やがて、ゼイビアの腕が名残惜しげに緩んだ。

 その動き一つで、温もりが現実だったと知らされる。


「…………そろそろ行かないと、ヴァイオレットが危険だね。部屋を出ようか」

「?」


 何が危ないのか、ヴァイオレットには分からなかった。

 だけど、掠れたその声が耳に触れた途端、体がほんの少しこわばる。問い返そうとして言葉が出ず、代わりに視線を落とした。


 いつも優しいはずの彼が、熱を秘めた獣のように見えるのは気のせいだろうか。

 怖いのではなく、惹かれてしまう自分が恐ろしかった。


 しかし、それを指摘なんてできない。

 結局、頷くしかなかった。


 寄り添うように並んで部屋を後にする。


 足取りは覚束なく、裾さばきは乱れても、背に添えられた手一つで不安は消えていた。

 それでも会場に戻る気力はもうなく、足は自然と控え室へ向かっていた。


 控え室に到着するなり、力が抜けて椅子に沈み込む。


 鏡に映った自分の顔は、驚くほど上機嫌な笑みを浮かべていた。

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