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ヴァイオレット・キャンベルは『悪役令嬢』を演じない  作者: ゼン
ヴァイオレット・キャンベル
5/10

伍:悋気と歓喜

 曲がり角を抜けると、普段は通らない薄暗い通路に出る。

 その瞬間、背後から強く腕を掴まれ、思わず足が止まった。


「ヴァイオレット!」

「きゃっ」

 まさか追ってくるとは思わなかった。

「こら、だめだよ」

 耳元に落ちた声は低く、必死さを抑え込んでいた。

「……この先にある部屋が何に使われるか、知らないの?」


 声の端に妙な含みがあった。けれど、ヴァイオレットは気付かない。

 男女が密かに会う為の部屋だなんて、想像の外だった。


 礼儀作法を何よりも優先して教えられてきたヴァイオレットにとって、夜会や舞踏会の裏に潜む欲望や駆け引きは、書物の中の遠い話でしかなかった。

 母や姉や家庭教師から聞かされる『令嬢の心得』は、淑女としての立ち居振る舞いばかりで、そうした現実の一面には触れられたことがなかったのだ。


 だからこそ世間知らずのまま、見栄を張って言ってしまった。


「し、知っています……っ! 使ったことくらいあるもの!」


 しかし、実際には震えていた。


 本当は知らない。

 見抜かれたくなくて、必死に後ろめたさを押し隠した。

 だが、それは強がりにすぎない。


 その瞬間、それまで口元に浮かんでいたゼイビアの笑みが、ぴたりと消えた。


「へえ、誰と使ったの?」

「……な、内緒、です」


 口にしながら、自分でも苦しい答えだと分かった。


 用途すら知らないのだから、言えるはずがない。


「はあ……」


 ゼイビアは長く息を吐いた。

 翡翠の瞳から温度が抜け落ち、笑みが消える。

 掴む手に力がこもり、冷えた声が落ちた。


「ヴァイオレットは、昔から嘘が下手だね」


 声は穏やかなのに、底に鋼のような重みがあった。

 見えない指で心臓が掴まれたように息が詰まり、喉が焼ける。


(どうして、あなたが怒るの!)


 熱い涙が滲む。彼に叱られたことなど一度もなかった。

 幼い頃、我儘を通そうとして困らせた時も、悪戯が過ぎて周りを慌てさせた時も、彼は「だめだよ」と微笑むだけだった。

 なのに今、初めてため息に呆れを混ぜられた。

 心臓を鷲掴みにされたように痛み、息の仕方さえ分からなくなる。


「ヴァイオレット、泣かないで。……ごめんね、強く言い過ぎたね」


 ふいに腕が回される。

 掴まれていた手首の痛みが、背をぽんぽんと宥める温もりに変わった。

 幼子をあやすように背を叩かれる。

「???」

 甘やかされることに慣れきった自分を突きつけられるみたいで屈辱なのに、その温もりにすがりたくなる弱さもあって、涙が引っ込んだ。


 さっきまで胸を締め付けていた悲しみも怒りも、体温の中でじわじわと溶けていく。

 突き放したはずの手で抱き寄せられていることが、余計に心を乱した。


(婚約を無かったことにしたいはずなのに……どうして、こんなふうに優しくするの?)


 顔を上げると、親指の腹で目元を拭われた。


「よし、泣きやんだね」

「……ど、どうして、ですか?」

「ん? 何が?」


「どうして私を追ってきたのです? それに、こんな……こんな……」

(こんなふうに抱きしめるなんて……)


「婚約者殿の機嫌を直すのが、僕の役目だからね」

「婚約を破棄するつもりなのにですか?」

「……今、なんて? 僕の聞き間違いかな。婚約破棄と聞こえたけど──」


 その時、数人の足音が近付いてきた。内容までは分からないが、どうやらセーラと彼女を止める声のようだ。


「ビカ子爵令嬢が、ゼイビア様を探してますわ」

「黙って」


 必死に突っ張る腕を無視するように、ぐいと引き寄せられた。

 息が詰まり、心臓が強く跳ねる。


 肩を抱えられたまま、背中ごと扉の内側へ押し込まれる。


 扉が閉まりかけたその瞬間、ゼイビアは内側のドアノブにかかった札を外し、外側のノブに掛け直した。その仕草があまりに手慣れていて、ぞくりとする。


「ゼイビア様──」

「しー……。静かに」


 バタン、と音が響く。


 廊下の奥からセーラの甲高い声と、マシューの投げやりな返事が聞こえてくる。

 それもすぐに遠ざかり、部屋には静寂だけが落ちた。


「……邪魔者がいなくなったことだし、話の続きをしようか」


 肩を壁に押し付けられ、顔の横に手が置かれる。

 逃げ場のない気配が、皮膚の表面をじわじわと這ってくる。


 ゼイビアの口元は笑っている。

 けれど、その笑みに似合わない冷たさが、肌をかすめて混乱する。


(邪魔者って……誰のこと? まさか、ビカ子爵令嬢? そんなはずない。だって二人は──)


「ヴァイオレット、聞いてる? なんで、婚約破棄なんて勘違いをしてるのか、僕に教えて?」


 声色は穏やか。

 でも、その目は全然穏やかではない。


「ご自分の胸に手を当てて考えたらよろしいのではなくって?」

「ふむ?」


 ゼイビアが胸に手を当ててみせる。そのわざとらしい仕草の奥に、冷たい笑いが滲んでいた。

 ヴァイオレットの眉がきゅっと吊り上がる。


「ふざけないでください」

「ふざけてないよ」


「ビカ子爵令嬢がお好きなのでしょう!?」

 声が張り上がった。


 感情的にはなるまいと決めていたのに、気付けば歯を剥いていた。


(もう嫌……嫌われるような態度ばかり……でも止まらない……)


 こんな態度は、まるで悪役そのものだ。

 なんで、こんなに悔しいんだろう。


「好きなものか」

「嘘よ!」


 体の奥が熱くなって、抑えていた声が溢れ出す。


「あなたは彼女のことが好きなのよ! だからさっきも私のことを疑ったの! ひどいわ! どうして私があんな目で見られなければならないの!?」


 うまく言葉を選ぶ余裕なんて、もうなかった。喉の奥から湧いてくるものを、そのままぶつけた。


 それなのに、ゼイビアは笑っている。

 怒りも悔しさも、まるで玩具のように弄ばれている気がした。

 その瞳の奥に、甘さと同じくらい冷たい支配欲が潜んでいるのを見て、背筋に痺れが走る。


「笑わないでっ!」


 自分の声が子どもっぽく響いたのが分かって、顔が熱くなる。

 その頬をゼイビアが指先で撫で、くつくつと笑った。


 ふと、ゲームの中での彼の設定を思い出す。

『好きな子の前では猫を被って、腹黒さを隠す』──そんな設定だった。


「ふふ、ごめんね。でも、馬鹿にして笑ってるんじゃないよ。僕が笑ってるのは、君の悋気が嬉しいからだよ」

「り、悋気なんかじゃ……」


 嘘だ、悋気だ。誰がどう見たって、完全に。

 それでも、認めたくなかった。

 彼の仕草一つ、言葉一つで、心が乱れるなんて……。


 右耳に髪をかけられ、左耳にも同じ仕草をされ、ゼイビアの顔が近付く。背中は壁に押し付けられ、もう逃げ場がない。


「ヴァイオレットは本当に嘘が下手で──可愛いね」


 その囁きが耳朶をかすめた瞬間、彼の唇がヴァイオレットのそれに触れた。


 ほんの一瞬のはずなのに、心が歓びで震え、息が詰まる。

 嬉しいのに、どうしようもなく悔しい。逃げ場など、最初からなかった。


 喉の奥で熱がせり上がり、胸が軋む。

 耳の奥では心臓が暴れ、呼吸のたびに苦しさと甘さが入り混じる。

 肩に置かれた手が、動こうとした背中を優しく押し留めた。


 その力強さに全身が竦み、逃げようとしたわけでもないのに、動くことを忘れたみたいに指先すら思うように動かない。


 唇が離れた瞬間、濡れた感触だけが残った。


 ゼイビアが目を細める。


(……口を舐められたわ……)


 息をのむ音が自分でも聞こえる。


 翡翠の瞳が、まっすぐに射抜く。


 それはもう憧れた王子の眼差しではなかった。

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