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ヴァイオレット・キャンベルは『悪役令嬢』を演じない  作者: ゼン
ヴァイオレット・キャンベル
4/10

肆:屈辱と逃走

 重厚なカーテンを開くと、小さなバルコニーが夜気にさらされていた。


 予想通り、そこに人はいない。


 外気はひやりと冷たく、背後の広間から洩れる旋律と笑い声が、別の世界の出来事のように遠ざかっていた。

 花壇から立ちのぼる香りが風に混じり、月を覆う薄雲の切れ間からは無数の星が瞬いている。


 熱気を帯びた宴から切り離された静けさの中で、ヴァイオレットは、胃の底に溜まっていた重さを吐き出すように息をついた。


 冷たい風が頬をかすめ、髪を散らす。

 その冷たさに少しだけ救われながらも、喉の奥には鉛を溶かしたような重さが残る。


 さっきまでの華やぎが嘘のように遠ざかり、広い夜空の下に自分一人が取り残されたような心細さだけが広がっていく。


 少し前までの自分は、彼の優しさを疑ったことなど一度もなかったのに。

 あの日、前世の記憶を思い出してから、全てが歪んでしまった。

 せめて、こんなに彼を好きになる前に、思い出したかった。


 前世の物語で見た『悪役令嬢のヴァイオレット』は、我儘で横暴、冷酷で傲慢。ヒロインを害することに躊躇いを持たない女だった。


 そんな女と同じ名を背負っていることが、何よりも耐えがたい。

 その姿が頭をよぎるたびに、今の自分まで汚れていくようで怖くなる。


 それでもゼイビアを好きでい続けてしまう自分を、どうしても責めずにはいられなかった。


 かつては彼の笑顔に救われたのに、今では想うほどに胸が軋む。

 心を切り離せるならどんなに楽かと思うのに、叶わない。


(泣いてはだめよ……)


 そう思ったそばから、熱いものが滲み出てきて、手の甲で慌てて拭う。


 もし誰かに見られれば理由を問い詰められ、笑い話にされるか、同情めいた慰めを受けるだろう。

 最悪、必要以上に噂が広まりかねない。それは嫌だった。


 それに、未だ、末っ子だからという理由で、家族からは十七になった今もなお子供扱いされる。

 十六で嫁いだ姉は、子供扱いなどされなかったのに。


「……はあ」


 深呼吸を一つして気持ちを落ち着けると、ヴァイオレットは小さく裾を摘まんだ。

 涙の跡を隠すには、化粧室で鏡を確かめるのが一番いい。



 重いカーテンをくぐり、広間へ戻らず人気の少ない廊下を選んで歩く。

 壁に灯された燭台の明かりが床に揺れて、靴音だけが規則正しく響いた。


 曲がり角を抜けたところで、思いがけず会いたくない人物──セーラと行き合った。


「あっ! いた! こんばんは、ヴァイオレット様!」


 無邪気なようで、そうではないセーラは、酒杯を手に廊下に立っていた。


「……こんばんは」


 本来、許しもなく爵位が上の者の名を口にするのも、廊下で酒杯を持ち歩くのも礼に外れる。

 ヴァイオレットはセーラを友人と認めていないからこそ、なおさら不快だったが、あえて咎めず、定型の挨拶だけ残してその場を離れようとした。


 だが、通り過ぎようとしたその瞬間、視界の端でセーラの手首がくるりと返った。

 その動きは不自然なほどゆるやかで、観客に見せびらかすように、煽る調子を帯びた所作だった。


 思わず、足が止まった。


「え」


 グラスの縁から赤い液がぽたりと一滴、床に落ちたかと思うと、次の瞬間にはどっと流れ出した。


 深紅の果実酒は燭台の明かりを受けてきらめきながら飛び散り、セーラの淡い桃色のドレスに広がるように染みを刻んだ。

 偶然では片付けられぬほど作為めいた光景である。


 セーラはにこりと微笑んだ。

 しかし、ほんの瞬きの間に仮面をかぶり直すように顔を歪め、悲しげで哀れを誘う少女の表情を作る。

 その切り替えはあまりにも早い。


(やはり、演技だったのね)


 今ここに誰かが現れれば、加害者は自分だと決めつけられるだろう。


(早くこの場を離れなければ)


 そう思っても体は固まり、数秒のあいだ動けない。


「ひどいです……! ヴァイオレット様……!」


 わざと廊下に響かせるような声色で。


 セーラの目から涙が一粒こぼれた。


 そして、それが合図に呼ばれるように、廊下の奥からゼイビアとその友人たちの計四人がぞろぞろと現れて、狭い廊下が急に息苦しくなる。


「あっ、これは……違うの! 全部、私が悪いの!」


 誰も何も聞いていないのに、セーラがわざとらしく声を張り上げる。

 その声は廊下の隅々にまで響き渡り、見せびらかすように涙を振りまいていた。


 確かに口先の言葉だけを取れば真実だった。彼女が悪い。


 だが、一拍後には視線が一斉にヴァイオレットへと集まった。


 赤い染みのドレス、涙を浮かべる少女、そして立ち尽くす自分。

 その構図だけで加害者は決まってしまうのだ。


 一斉に注がれる視線が縄のように首を締めつけ、喉が塞がり、息を吸うことすらできなかった。


「ヴァイオレット?」


 口を開いたのはゼイビアだった。

 その目は「君がやったのか?」と問いかけている。

 困惑をまとった声だが、そこに混じるのは隠しきれない喜色と安堵の響き。


 ──安堵?


(私の瑕疵を見つけて、安心しているの?)


 体の芯を土足で踏み荒らされたようで、怒りが一気に噴き上がる。

 屈辱で喉が焼け、胃の底に熱が溜まり、指先まで痺れる。


(ひどい……許せない)


 けれど、この場で声を荒げるのは敗北だ。

 侯爵令嬢としての矜持が、必死に暴れ狂う心を押さえつける。


 だからこそ、微笑んだ。


「ビカ子爵令嬢が、ご自分でこぼしたのです。ご本人がおっしゃっている通りですわ」


 そして、笑顔で続ける。


「私は嫌がらせをするような浅ましい真似はいたしません。それに、恥知らずでもない」


 言い終えると同時に、ヴァイオレットは視線をセーラへと流す。


 セーラは、怯えながら潤んだ瞳で見返してきたが、そこに本物の痛みは一滴もなかった。

 どれほど涙を飾ろうと、それを受け取るほど自分は甘くない。


「僕の婚約者殿は、今日はずいぶんと棘があるね」


 困ったように笑う唇の線が目に映る。かつてはそれを見るだけで胸が弾み、世界が色付いたのに、今は砂を噛むように味気ない。

 あの微笑みにすがってきた年月ごと裏切られたようで、憧れは憎らしさへと反転していた。


「疑われて笑えるほど器用じゃありません……。失礼します。どうぞごゆっくり」


 つい詰りそうになるも理性で止めて、踵を返す。


 歩き出した足取りは少し乱れていたが、セーラに比べれば礼を欠いたうちにも入らない。

 婚約者を疑っておきながら『棘がある』と軽口を叩く彼に、もうこれ以上、言葉をかける気にはなれなかった。


「ヴァイオレット? ……どこへ行くの? そっちはだめだよ。待って」


 絶対に振り返らないと決めて、早足で歩く──いや、駆ける。


 呼びかける声が絡みつくように追いかけてきても、耳を塞ぎたいほど必死に前だけを見据える。


 裾が音を立てて揺れ、背後から注がれる視線が痛いほどに刺さるのも、令嬢としてはしたないと分かっていた。

 母や姉が見たなら叱りつけ、家庭教師は大げさに嘆いたに違いない。

 それでも足を止めれば、この場に縫い留められてしまう。

 だから、みっともなくても構わなかった。


 今は、ただ一刻も早く、この息苦しい場所から逃れたかった。

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