参:疑念と嫉妬
夏の恒例行事の夜会の日が訪れた。
王都でもっとも大規模とされるこの催しは、夏の新作ドレスの披露の場でもあり、各家の仕立て屋や宝飾職人が威信をかける晴れ舞台だった。
磨かれた大理石の床がシャンデリアの光を映し返し、宝石の輝きと溶け合ってきらめきを増していた。
楽団の奏でる弦の音が空気を震わせ、グラスが触れ合う澄んだ音が幾重にも重なる。
甘い香水の匂いが漂い、若き令息令嬢は誰もが背伸びした笑みを浮かべていた。
ヴァイオレットもまた、家の期待を背に立っている。
けれど、華やぎの只中にあっても、胸の奥には棘のような不安が残っていた。ゲームの記憶が決して抜けてくれないのだ。
ゲームでは、この夜会で、悪役令嬢は、赤い果実酒をヒロインのドレスにこぼす。
だが、ヴァイオレットに、そんな意図はない。
(もう決めたのだもの)
……そう思っているのだけれど、ヴァイオレットが手を下していないはずの嫌がらせを、セーラは次々と受けているらしいのだ。
ただ、それはゲームで見たような突き落としや泥水を浴びせるといった露骨で過激な仕打ちではなかった。
もっと小さく、陰湿で、子供じみた嫌がらせだそうだ。教科書の余白に「身の程を知れ」と書かれていたり、舞踏用の靴に画びょうが仕込まれていたり。
さらには、人がまばらな時間帯の廊下で、理由もなく繰り返し転んでしまうという、説明のつかない出来事まである。
そして、その犯人は未だ不明。
もっとも、本当に誰かの仕業なのか疑わしく思うこともある。
幼稚な嫌がらせはともかく、転んでしまうことに関しては、膝を擦りむいて大袈裟なガーゼを巻いた姿も、ただの不注意に見えなくはなかった。
テリーサの話では、その時セーラは「はあ……どうしてこんなひどいことばかりするのかなあ……あ、ううん! 私がドジなだけよね。えへへ」と、わざとらしい笑顔で言っていたらしい。
──加害者を庇う、心優しい被害者を演じているように。
テリーサはそう言った。
だが、彼女は、セーラを嫌っているので、あざとく見えているだけかもしれない。
ヴァイオレットだってそうだ。
客観的に見ようとしても難しい。
だから、真実は分からない。
とはいえ、噂や伝聞以上に厄介なのは、自分の目で見てしまった光景だった。
先日、膝を擦りむいたセーラにゼイビアが手を貸している場面に、偶然廊下で出くわしてしまったのだ。
セーラはヴァイオレットに気付いた途端、びくりと肩を震わせ、涙目になった。まるで犯罪者に怯えるか弱い被害者のような顔で。
その視線が突き刺さり、背筋に冷たいものが這った。
今も、どうにも不快で、言葉にできない嫌な感覚が残っている。
ゲームの中のヒロインは、天真爛漫で素直。誰にでも分け隔てなく接するという、恋物語にふさわしい少女だった。
けれど、この世界のセーラからは、その気配が微塵も感じられない。
無邪気を装っているつもりなのだろうが、上辺だけを繕った薄っぺらさが透けて見えるのだ。
女の目には薄っぺらい演技でも、男の目には愛らしく映るのだろうか。
そう思った途端、眉間に力がこもり、手にしたグラスの脚をぎゅっと握りしめていた。指先が白くなるのを感じ、鼓動が速まっていく。
(……それともこんなふうに思うのは、嫉妬や妬みなのかしら?)
胸の奥で苦々しい感情を押し込めながらも、そう認めてしまえば自分が惨めになる気がして、唇を噛む。
セーラは、見た目だけなら小動物のように愛らしい。
小首をかしげる仕草一つで、守ってやりたくなるような儚さを持っている。
淡い茶色の髪は柔らかく波を描き、春空を映したような水色の瞳は垂れ気味で、頼りなげな弱さを漂わせていた。
ぷっくりとした桃色の唇には艶があり、誰もが可憐と口を揃えるだろう。
……どう見ても、悪意ある人間には見えない。
典型的な『物語のヒロイン』の容姿をしているからだ。
絶世の美女ではないが、笑顔と愛嬌がその不足を補い、彼女を正統派の輝きへと押し上げていた。
男たちの視線は、いつだって自然と彼女の方へと吸い寄せられてしまうだろう。
だが、その笑顔も愛嬌もヴァイオレットに向けられたことはない。
ゼイビアや高爵位の令息たち。最近では第二王子殿下にまで向けられていて、その様子には無邪気さよりも計算を感じ、どうにも癪に障った。
甘やかに人の気を引くその声音は、愛想を売り物にする女めいて、白々しい演技そのものにしか聞こえない。
赤い果実酒ではなく、透明なレモンジュースのグラスを口にしながら、ヴァイオレットは三卓ほど離れた一角へ視線を送る。
喉を潤すはずの酸味も、胸の奥に巣食う不快感を洗い流してはくれない。
そこではセーラが、宰相家の嫡男ゼイビアに微笑みかけていた。
その隣には、騎士団長の息子オーウェン、公爵家の嫡男マシュー、そして隣国侯爵家の留学生ヴァーノン。
若き名家の面々に囲まれた彼女は、光の中心にいるように輝いていた。
その眩しさを見た瞬間、胃のあたりに鉛が落ちるような重さが沈む。
胃の奥が軋み、口の中に苦味が広がった。
げんなり、などという軽い言葉では到底言い表せない。
「まあまあ、お盛んですこと」
マシューの婚約者であるテリーサが口元だけで笑いながら、セーラへの嫌悪を口にする。
「ビカ子爵令嬢ったら、まるで発情した雌犬のよう。見苦しいったらないわ」
テリーサの毒舌に、ヴァイオレットは内心大きく頷きながらも同意の言葉は音にしない。
ゲームの中の悪役令嬢は、取り巻きの「痛い目を遭わせましょう」に頷いてヒロインを虐めていた。
でも、同じ道を辿るわけにはいかない。だから、テリーサの言葉にも頷けなかった。
ゲームの中で、取り巻きは数人いた。けれど、はっきり台詞を与えられていたのは一人だけ。
目の前のテリーサこそ、その役を負った令嬢なのではないか──ヴァイオレットは、そんな考えを拭えない。
シルエットだけの登場で外見は思い出せないのに、きっとそうだろう。そう確信してしまう。
だからこそ、彼女の言葉に頷くわけにはいかなかった。
ここで同意すれば、彼女をゲームの取り巻きと同じように『悪役令嬢の片棒』を担がせてしまうからだ。
彼女は大事な友人だ。取り巻きなんかじゃない。
今は過激な物言いをするテリーサだけど、人の心に寄り添える優しい子だと知っている。
「落ち着いて、テリーサ。マシュー様は他の殿方と違って、ビカ子爵令嬢に笑顔を向けていないわ。おそらく、仲の良い友人たちに付き添っているだけなのでしょう」
「そうかしら……」
「そうよ、あ、ほら、こっちに気付いたみたい。小さく手を振っていらっしゃるわ。さあ、可愛い笑顔でお答えして。あなたの笑顔はとっても可愛いのだから、怒ってばかりではもったいなくってよ。さあ、笑って?」
「……ありがとう、ヴァイオレット」
マシューに手を振り返すテリーサの笑顔は、贔屓目なしに可愛らしかった。
ヴァイオレットの言葉は嘘ではない。
セーラを取り囲んでいる中、マシューだけが無表情で……いや、若干の不機嫌さを纏っているように感じた。
普段の彼は、常に笑顔ではないものの機嫌の悪さを表すような人ではない。
(どうしてかしら? ……まあ、誰にでも機嫌の悪い日くらいあるものよね)
頭の片隅に小さな疑問が引っかかったが、それ以上深く考えるのはやめた。
ヴァイオレットは再び三卓先へ視線を移す。
セーラは今も殿方たちの輪の中心にいて、何かを囁かれるたびに可憐に笑い、唇を突き出しながら袖を引いて甘えるような仕草を見せている。
セーラが口を開けば、ゼイビアは目を細め、静かに頷いていた。
(ああ、嫌……本当に嫌……)
見たくないのに、目が追いかけてしまう。七歳の頃から、十年。人生の半分以上を捧げるように、彼を想い続けてきたのだ。
政略で結ばれた婚約がいずれ取り消されると分かっていても、この気持ちだけは切り離せない。
恋心は、消そうとしても消えない。
耐えきれずに、ヴァイオレットはテリーサに断りを入れ、その場を離れることにした。
彼が見えないところに行けばいいと思ったのだ。
(……西側のバルコニーなら、人もいないでしょう)
そこなら、花壇もなく、足を運ぶ者もいない。
ヴァイオレットは知らない。
淡い桃色のドレスの令嬢が、その背を見送っていたことを。
そして、唇に浮かんだ笑みが、シャンデリアの光を受けてわずかに歪んでいたことも。