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ヴァイオレット・キャンベルは『悪役令嬢』を演じない  作者: ゼン
ヴァイオレット・キャンベル
2/10

弐:矜持と決意

 二つ年上のゼイビアとは、ヴァイオレットが七歳の時に婚約を結んでいる。

 完全な政略だと両親に告げられても、その心は変わらなかった。

 初めて出会ったその日から、『恋』という言葉も知らぬまま、彼だけを見てきた。


 ゼイビアとヴァイオレットが最初に顔を合わせたのは、侯爵家の広間だった。


 両親に手を引かれたヴァイオレットの前で、ゼイビアはためらいもなく膝を折り、その視線を幼い少女の高さに合わせた。


「よろしくね、ヴァイオレット」と言って微笑み、差し伸べられた手のぬくもりが、幼い心に深く焼き付いた。


 彼は優しかった。

 幼い自分のたわいないお喋りにも、彼はいつも微笑みながら耳を傾けてくれた。

 新しいドレスを着れば「可愛いね」、お気に入りの髪型にすれば「似合ってるよ」と言ってくれた。


 彼は従兄弟のように意地悪なことも言わなかった。

 幼い頃、やんちゃな従兄弟にからかわれて泣くことも多く、男の子に苦手意識すら抱いていたのに、ゼイビアとはすぐ打ち解けた。


 彼と話していると、心に刺さっていた小さな棘がいつの間にか抜け落ちるようで、肩の力がふっと抜けた。

 その微笑みに見返されるたび、世界がぱっと明るくなった気がした。


 翡翠色の瞳は澄んでいて、のぞき込むと小さな自分がそこに立っている気がした。

 ふわりと揺れる金の髪も、その笑みも、幼い心には何より眩しかった。


 そして今も、成長したゼイビアはその面影を失わない。

 制服に包まれた長身はすらりと伸び、立つだけで周囲の視線を集めた。廊下を歩けば、女子生徒たちの小さなため息がこぼれ、誰もが思わず目で追ってしまう。


 翡翠色の瞳は澄んでいて、陽を受けた金の髪は淡く光を返した。

 どんな場でも余裕を失わず、微笑めばその場の空気までも和らげてしまう。


 けれど、ヴァイオレットに向ける笑みだけは、少年の頃と変わらぬ優しさを宿していた。


 その優しさに甘え、ヴァイオレットは子供の頃から我儘を口にしてきた。

 彼は、些細な願いごとにも応えてくれるから、つい度が過ぎることもあった。

 その時の表情が堪らなく好きで、好きで、大好きで──

 困ったように笑いながら「仕方ない子だね」と言って叶えてくれる顔が見たくて、わざと無理を言ったことも少なくない。


「お揃いのピアスが欲しい」「どこそこに行きたい」「手を繋いでほしい」「口付けてほしい」「今夜はお家に泊まりたい」──そんな我儘を並べ立ててきた。

 ……しかも、つい最近まで。


 けれど、口付けは頬に一度きり。手の甲には何度もあるのに、唇に触れることだけは決してなかった。

 夜更けまで側にいたいという我儘も、結局は叶わないままだ。


 それでも彼が学園に入学するまでは、二日と空けずにウッドブリッジ侯爵家へ足を運んでいた。逢えない日など考えられなかったから。


(なんてこと……)


 よくよく考えなくても、随分と身勝手で、『悪役令嬢』そのもののような行動をしていたのかもしれない。


 裏庭のベンチに腰を下ろし、ヴァイオレットは濡れたまつ毛を伏せた。


(もう物語は始まってしまっている)


 舞踏の授業よりも前から、ゲームのヒロインは彼と顔を合わせていた。

 廊下の角でぶつかり、落とした資料を拾い上げてもらい、馬車の前でばったり出くわす。


『偶然』の形をした、『運命の出会い』。


 そして今では、当たり前のように互いを名で呼ぶ仲になっている。

 思い返せば、ゲームの始まりはヒロインの編入初日からだった。

 ならば、この展開も当然の流れだ、と。そう理解してしまう自分が悔しい。


 裏庭を抜けた風が、ヴァイオレットの髪をやさしく散らす。

 肋の奥がひどく苦しくなり、景色の輪郭がぼやけていく。


 この後、ゲームの中の悪役令嬢は、ヒロインに次々と嫌がらせを仕掛ける。

 元平民であることを笑いものにし、学園の広場の噴水へ教科書を投げ込み、階段の上から突き落とそうとする。

 二階の窓から泥水を浴びせ、夏の夜会では真紅の果実酒をドレスに浴びせかける。

 屋上から飛び降りを強要し、彼女が大切にしている装飾品を粉々に砕いて二度と直せないようにする。

 さらに馬車の手綱を細工して暴走させ、冬の狩猟会では銃弾が標的を外れて彼女に向かうよう仕組む。

 そんな、命をも脅かす陰湿で危険な出来事ばかりが続くのだ。


 けれど、そのたびにヒロインは彼との距離を縮めていく。


 そして秋の収穫を祝うパーティーで、笑い声と音楽に満ちる会場の真ん中で、彼が悪役令嬢を断罪し、婚約破棄を突きつける。


 追い詰められた悪役令嬢は学園を退学させられ、甘やかしを反省した両親によって規律の厳しい修道院へと送られる。


 これが、ゲームで描かれた『幸福な結末(ハッピーエンド)』──そして、『悪役令嬢』の破滅だった。


(ひどい。あんまりだわ……)


 とうとうヴァイオレットの瞳から涙が零れ落ちた。


 頬を伝った滴は顎を濡らし、淡い布地の袖口に暗い染みを作る。

 胸の奥を掻きむしられるように痛み、息が細く震えた。


『ゲームの中の彼』を酷い男だと思う。

 胸が裂けるように、どうしてそんな結末を選ぶのかと叫び出したかった。


 それでも、ゼイビアへの気持ちは揺らがない。

 だって、人生の半分以上を、彼を想うことに費やしてきたのだから。


 庭で初めて褒めてもらった声も、手を繋いだぬくもりも、頬に触れた内緒のキスも。

 どれも心の深いところで息付き、十年分の想いが自分を支えていた。


 だけど、我儘ばかりで嫉妬も隠さなかった自分に、まだ挽回の余地など残っているのだろうか。


 最近の彼は「ごめんね、ちょっと忙しいんだ」と笑ってかわし、出かけようと誘っても断られる。

 ランチも、散歩も、叶わなかった。

 家へ遊びに行きたいと願っても、苦笑いとともにやんわりとはぐらかされる。


 贈り物やカードはこれまで通り届けられるのに、対面の時間だけが削られていく。

 心がこもっているはずなのに、どうしても不安が膨らんでしまう。ほんの些細な行き違いさえ、まるで裏に理由があるかのように疑ってしまうのだ。


 そうなったのはセーラが学園に来てからだ。


 我慢できずに両親へ愚痴をこぼしても、父は「男には付き合いがあるんだ」と言って話を切り上げ、母は「殿方はそういうものですよ」と笑って取り合ってくれない。

 いつもなら自分の肩を持ってくれる二人が、この件では彼の味方をしている。


(……もう、彼を諦めるしかないのね)


 その言葉が、自然と心の奥に沈んだ。


 正直、セーラをゲーム通りに苛めてやりたい気持ちはある。


 だが、自分が舞台装置になるような真似も、ヴァイオレットに興味のない男に縋るような振る舞いも、矜持が許さない。

 だから、そんな真似はしない。


(『悪役令嬢』なんて演じない。演じて差し上げるものですか)


 ──勝手にくっつけばいい。


 だけど、婚約破棄を夜会で宣言されるような真似だけは絶対に許さない。

 仮にそんな言葉を突きつけられても、笑って受け流す。胸は痛んでも、傷など欠片もないふりをして。


 ゲームでの悪役令嬢の紹介文は、『高飛車でプライドの高いお嬢様』だった。


(矜持を持つことの何が悪いというの? それがなければ死んだも同然でなくって? 『プライドが高い』と呼ばれたって、それこそが私の生きる芯なのだから)


 ヴァイオレットは濡れた頬を乱暴に拭った。


 涙で張り付いた髪を指先で払い、深く息を吸う。


 冷たい風が肌を掠めるたび、迷いが少しずつ削ぎ落とされていく気がした。


 そして顔を上げる。


 翳っていた視界に射し込んだ光が、心の奥深くまで染み込んでいく。

 決意が一つ音を立てて結晶化した。

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