拾:理性と本能
追いかけて捕まえたヴァイオレットは、部屋の用途を知らないくせに「使ったことがある」と言い張り、苦しい嘘を吐く。
彼女が泣きそうな顔で強がっているのを見て、安堵と苛立ちが入り混じった。
自分のことを想って嫉妬してくれているのだ、と。
堪らなくなり、抱き締め、泣き止ませ、口付けた。
ヴァイオレットの震えを抱きしめながら、ゼイビアは後ろめたさよりも甘い満足を選んだ。
涙を浮かべた顔が、支配と快楽を混ぜ合わせて、胸の奥をとろりと満たした。
唇の余韻を残したまま、耳元に流れる息が彼女の肩をすくませる。
逃げない、逃げられない。
その確信が、喉の奥で熱を育てた。
……けれど、ここは王宮だ。長居をすれば誰に見咎められるか分からない。
彼女の父親に知られるのもまずい。
ゼイビアはようやく腕を緩め、ヴァイオレットの髪に手を滑らせた。
涙に濡れた睫毛が頬に貼りついているのを見て、理性が辛うじて舵を取った。
ちょっと前まで平気で口付けを強請っていたくせに、いざ実際にすると顔を真っ赤にして、震える声で「なぜ今なのか」と詰ってきた。
まるで誤魔化しだと言わんばかりの言葉に、ゼイビアの胸の奥で苛立ちと可愛らしさがせめぎ合う。
泣きそうな顔で責めてくるのに、抱き寄せたい衝動の方が勝ってしまう。
彼女の口からこぼれる一つひとつは嫉妬の裏返しだと分かっている。
その嫉妬すら愛おしくてたまらなかった。
口付けたことを内緒にするよう告げたら、「で、でも、今のあなたはビカ子爵令嬢のことが……」と噛み合わない返事が返ってきて、思わず息が詰まった。
成り立たない問いかけに苛立ちよりも疲労が勝ち、ついでに全部話してしまおうと思った。
父の命令などどうでもいい、と。
最初から打ち明けておけばよかったのだと開き直り、ビカ子爵令嬢の調査を命じられていたことをヴァイオレットに白状した。
「ヴァイオレットはさ、嘘も演技も難しいでしょ? 素直で思ってることが出ちゃうし、頑張ると空回るから言わないで置こうって君の家族とも話したんだよ。だから、君の家は、僕がアレといても怒らなかったんだ」
仲間内でビカ子爵令嬢を『アレ』と呼んでいたのが口をついて出てしまったのは、焦りゆえだろう。
精進せねばと思う一方、腹を割ってしまえばもう怖いものはなかった。
「つまり、子供扱いですね」
「違う。子供扱いなんかしてない。そんなつもりはない。ただ、君が大事なんだ。……好きなんだよ」
無理に怒っている顔をつくるヴァイオレットを見て、彼女が自分を嫌っていない──確かに想ってくれていると知れたことで、落ち込んでいた心が浮上し、余裕が戻ってくる。
愛しい天使はあまりに真っ直ぐで、世界の濁りを知らない。
その無垢さが可愛くて仕方ない。
「機嫌を直してよ」
「……」
「ヴァイオレット、お願い」
じっと目を見つめると、彼女はこくりと頷いた。
「……直します。……でも……」
「『でも』? 何?」
「私、ビカ子爵令嬢のドレスに果実酒をかけていません。信じてください」
「ええ? ……なぁんだ、そうなの?」
肩透かしを食らったように息を吐き、言葉を継ぐ。
「それくらい嫉妬してくれてるかと思ったのに……残念だな」
本気でそう思った。
ぷいと横を向いたヴァイオレットに、「アレの調査の方がつくまでもう少しだから、寂しくても我慢してね?」と言って、抱き締める。
寂しくても我慢しなくてはいけないのは自分だというのに。
「……はい……分かりました」
「いい子だ」
素直に頷いたヴァイオレットを抱きしめたまま、ゼイビアは喉の奥で小さく笑った。
その笑みは安堵でもあり、同時に確信の笑みでもあった。彼女はもう逃げない、と。
腕にさらに力を込めると、細い肩が身じろぎする。
抗議の言葉を口にしようとした唇を、そのまま塞いだ。
柔らかさの奥に伝わる震えが、たまらなく甘い。
抵抗の力はすぐに抜け、震える指先が服の裾を掴む。その無力さが、支配しているという実感に変わる。
唇を離した時、ヴァイオレットは目を潤ませ、息を荒げていた。
その瞳が自分をまっすぐに見上げてくるのを受けて、ゼイビアは胸の奥に熱を感じた。
「ああ、早く、結婚して一緒に暮らしたい。君の卒業まで長すぎる」
彼女は「……たったの二年です」と返したが、ゼイビアはそうは思えなかった。
待たされる時間がもどかしくて、焦がれるほどに長い。
腕の中でヴァイオレットが力を抜いて、こちらに身を委ねてくる。
潤んだ瞳で縋られるほど、胸の奥の熱は強まっていった。
彼女を泣かせたくないのに、欲望はそれとは別の顔をして牙を剥く。
だからこそ、名残惜しくも腕を緩めた。
「…………そろそろ行かないと、ヴァイオレットが危険だね。部屋を出ようか」
「?」
こちらの内心など知るはずもない彼女が、不思議そうに瞬きを返してくる。
その視線に映るのが、彼女にとっての恋人なのか、それとも牙を潜ませた捕食者なのか──ゼイビア自身にも分からなかった。
ヴァイオレットを控室に送り届け、会場に戻ると、己が世界の中心にいると思い込んでいる女──ビカ子爵令嬢が友人らを侍らせていた。
「セーラ、お待たせ」
何でもないふうを装って声をかけた、その瞬間。
横から白い布が突きつけられた。
「この馬鹿、拭け」
小声で吐き捨てたのはマシューだ。口元に押しつけられたナプキンで、ようやく自分の失態に気付く──唇に残る紅の痕。
顔を上げれば、オーウェンは下世話な笑みを浮かべ、ヴァーノンは気まずげに笑ってセーラの気を逸らそうとしていた。
対照的にマシューの顔は、怒りを隠そうともしない。
「良いご身分だな、ゼイビア」
低く刺すような言葉。
ゼイビアは肩を竦めて、「……まあね」と軽く返す。
一呼吸置き、目を閉じて息を整える。
もう少しの辛抱だ。
そう己に言い聞かせ、唇の端を引き上げ、ビカ子爵令嬢へ作り物の笑みを向けた。
◇
ビカ子爵令嬢は、第二王子に薬物入りの菓子を渡したことで学園を追われた。
闇市で買った怪しい品を『恋のおまじない』だと信じ込み、よりによって王子殿下に差し出すとは、救いようのない愚かさだ。
この話を聞いて、そんな女に才覚などあるはずもないと確信した。流行した品を仕入れたのは、やはりたまたまだろう。
副学園長に賄賂を贈って入学を勝ち取っていたことまで露見し、表向きは『家庭の事情』とされたが、実際は北部の行儀見習い学校へ監察付きで送られる。もちろん、副学園長は懲戒だ。
社交界に戻る未来など、ないだろう。
子爵家から籍は抜かないそうだが──それも、いつまでか。
泣き叫び、「私はヒロインなのに」「悪役に嵌められた」などと喚いていたと耳にしたが……物語の主人公にでもなりたかったのだろうか?
どう考えても、正気ではない。
けれど、そんなことはもう些細だ。今こうして、ヴァイオレットは隣にいるのだから。
紅茶を口にし、照れくさそうに頬を染め、時折こちらを盗み見る仕草一つで、胸の奥に熱が広がる。
「好きだよ、ヴァイオレット」
頷いた彼女に口付けを落とした。
言ってはいけないと告げて以来、彼女はこのことを誰にも漏らさない。
だから、今は躊躇わず触れられる。
……二年後、卒業を待てば彼女は自分の妻になる。
長いと思えば苛立つが、この秘密があればきっと耐えられるはずだ。
【完】