壱:違和と記憶
ヴァイオレット・キャンベルは広間の片隅に立ち、二つ年上の婚約者ゼイビア・ウッドブリッジが他の令嬢と踊るのを見つめながら、体の内側に鈍い痛みが走るのを覚えた。
(まるで物語の一幕のようね)
ふと、そんな場違いな感想が頭をよぎり、すぐに自分でぎょっとする。
……どうして、今そんなふうに思ったのだろう。
息を整えるように、視線を床へ落とす。
「はあ……」
弦の音が白い石床に広がり、陽光を受けた床が淡く光を返していた。
王立ウェイクフィールド学園──由緒ある家の子弟にしか門をくぐれない四年制の高等学校。
ここで学ぶ者は、将来の社交界を担う者として、学問はもとより舞踏や礼儀作法も徹底的に叩き込まれる。
その為の広間は、学園の象徴とも言える場であり、舞踏はれっきとした必修科目の一つだった。
今日は二年生と四年生の合同練習で、広間はきらびやかな笑い声に包まれていた。
だが、視線を巡らせても、見慣れたベテラン教師の姿はない。監督を務めるのは新米の一人だけで、同時刻に開かれている来賓向けの茶会に熟練の教師たちが回っているらしい。
教師の目が届かぬ広間は、いつもより柔らかな空気をまとっていた。
けれど、それは許された油断ではあっても、秩序の放棄ではない。
そのけじめを踏み荒らしているのが、子爵令嬢セーラ・ビカだった。
婚約者のある者はまずその相手と一曲を舞い、礼儀として別の異性とも一人だけ踊る──それがこの学園の常識だ。
婚約者のいない者でも、相手を替えられるのは二人まで。越えれば無作法。誰もが暗黙に守ってきた線である。
だというのに、セーラはその線をあっさり踏み越え、すでに四人の令息と踊っていた。
制服の裾を翻し、笑顔をばらまきながら次々と令息の手を取る。その無邪気さに隠れた軽薄さが、腹の奥を鋭くねじった。
抑え込んできた違和感が、またゆらりと頭をもたげる。
セーラが学園に編入してきたのは二か月前のこと。
母親がビカ子爵と再婚したことで爵位を得て、例外として編入の手続きを許可された。
それを楯にしてか、礼儀に疎いのを言い訳に軽率な口を利く。
模擬茶会でマナーを指摘された際には、頓珍漢な返事で周囲を呆れさせていた。
しかも、高爵位で、それも婚約者持ちの令息ばかりに声をかけ、袖を引いたり腕に触れたりと、馴れ馴れしいにもほどがある。
とりわけ目に余るのは、宰相家の跡取りであり、ヴァイオレットの婚約者でもあるゼイビア・ウッドブリッジへの態度だった。
人前で平然と腕に触れるなど、品位の欠片もない。
あの、「ゼイビア」という甘ったるい響きを思い出しただけで、喉の奥が焼けつく。
まさに業腹というほかない。
不意に、甲高い笑い声が広間を貫いた。
目をやると、セーラがゼイビアの腕を放すところだった。
踊り終えたばかりなのだろう。笑い合う二人の姿に、みぞおちのあたりがじりじりと熱を帯びる。
さらにもう一曲を強請るセーラと、曖昧に笑うゼイビアに、歯を食いしばる。
(ゼイビア様……なぜ、はっきり断ってくださらないの?)
嫉妬が全身を駆け抜け、耳の先まで火照りが広がる。
その怒りを映したように、隣のテリーサが目を吊り上げ、扇を握る指先に力をこめていた。
「なんて非常識なのかしら? 信じられないわ。あれで、我が校のマナーテストに受かったというの?」
この学園に入れるのは由緒ある家の子弟に限られているが、入学や編入には礼儀作法のマナーテストに加えて学力の編入試験も課される。
格式に見合う所作を身につけていなければ生徒として認められないからだ。
貴族が落ちることはまずないが、平民がもし受けたなら不合格は疑いようもない。
しかもセーラは、学力の編入試験で満点を取ったと噂されている。解答は模範そのもので、教科書に並ぶように整っていたとも囁かれていた。
もっとも、それが事実かどうかは定かではない。
だが、その振る舞いを見るかぎり、本当に二つの試験を正しく通過したのかと首をひねりたくなる。
「不正でもしたのではなくて?」
「ええ、ええ! きっとそうだわ」
友人の声が追い風となり、怒りの波がいくらか引いていく。
憤っているのは自分一人ではない。
けれど、それでも気が済むことはなく、言葉より先に体が動いていた。
「ビカ子爵令嬢? ダンス相手を何人も変え、大きな声で笑うなんて、はしたない振る舞いですよ」
つかつかと歩み寄り、怒りを押し殺すように声を潜めて告げると、セーラは眉を下げた。
「そんな……っ! 私は皆と仲良くしたかっただけです!」
甲高い声が広間を突き抜け、こめかみの奥がずきりと疼く。
何度注意しても改まらない、その頑なさに言葉より先に苛立ちが立ち上がった。
「だから、それがはしたないのです」
「ひ、ひどい……貴族のルールって、ほんとに難しいんですから……っ」
「……あなた、本当にマナーテストに受かったの?」
「合格しました! ひどいです! 私、不正なんてしていません!」
セーラは涙を滲ませた声で大袈裟に訴え、ちらりと令息たちを見やる。
その一瞬に、作り物めいた愛らしさがのぞいた気がして、眉が寄った。
視線の揺れた先で、大鏡がふと光を返す。
そこに映っていたのは、当然、自分の姿──……のはずだった。
窓の陽を受けた黒髪は絹のように光り。
琥珀の瞳は磨かれた宝石のように冴え。
肌は白く、磨かれた陶器のように傷一つない。
その完成された美貌は、もはや自分の顔というより誰かの理想像を覗き込んでいるようだった。
(──美人)
そう思った途端、体の芯からすうっと熱が引いていった。
「……?」
ヴァイオレットは、生まれてこのかた、自分をそんなふうに思ったことはなかった。
姉のように豊満な体つきでもなく、釣り目がちな目はむしろ嫌いだ。
メイド泣かせの猫っ毛も、ツンと生意気そうに見える鼻もコンプレックスでしかない。
それなのに今、鏡の中の顔を見て『美人だ』と思ってしまった。
その感覚に、背筋が冷える。
そして、次の瞬間、息が詰まった。
「……え?」
喉の奥がひゅっと鳴り、言葉にならない息がこぼれる。
(あの高飛車で意地の悪い令嬢に、似ている……?)
その気付きが落ちた途端、ヴァイオレットは息をのんだ。
血の気が、足元からさらさらと抜け落ちていく。
違う。似ているのではない。
──そのものだ。
何かが破裂するような感覚が走り、視界が一気にかすんだ。
四人の美男子の中から、ヒロインが自由に相手を選べる物語。
その前に必ず立ちはだかる恋敵、それがヴァイオレットである。
かつて画面越しに『彼ら』と笑い合っていた日々がよみがえる。
過重労働の果てに、酒にすがりながら夜ごと恋愛ゲームに逃げていた女──それが自分の前世。
名前、年齢、家族、死の理由までは思い出せない。『ニホン』という島国にいたことだけはかすかに分かるが、どんな暮らしをしていたのか、政治も文化も一切霧の向こうだ。
覚えているのはただ一つ。その国には『ゲーム機』という道具があり、自分はそれで恋愛ゲームをしていた、ということだけ。
そのゲームには、四つの恋の物語が用意されていた。
そのどの物語を選んでも、侯爵令嬢ヴァイオレット・キャンベルは必ず恋の障害として立ちはだかる。
『ヒロインが選んだ男性』に彼女自身も心を寄せてしまうからこそ、衝突は避けられないのだ。
つまり、自分がゼイビアと婚約している以上、セーラはゼイビアを慕い、やがて彼も彼女に惹かれ、二人は恋仲になる──そういう筋書きだと決まっているというわけだ。
「……っ」
息を吸うたびに胸郭がきしむようで、立っているのもやっとだった。
ヴァイオレットは思わず口を開いた。
「た、体調が……すぐれませんので、救護室に、参ります……」
学園に入学してから、仮病を口にしたのは、これが初めてだった。
心配して付き添いを申し出るテリーサに首を振る。
ゼイビアが一歩踏み出しかけた気配を感じたが、目を合わせられなかった。
拒んだのではない。
見たら崩れそうだった。
「ヴァイオレット?」
背後から彼に名前を呼ばれた気がした。ほんのわずかな望みが形をとったかのように。
けれど、それは自分の願望が生んだ幻だと、必死にかき消した。
マナー違反を叱ったセーラのことなど、もう頭の片隅から消えていた。