モゴモゴ
「んで兄貴、こいつがスパイだったっていうんですか」
猿轡をつけてドラム缶の中に入っている男を指して、俺は尋ねた。
「らしい、んだ」
実際のところ兄貴も知らないらしい。
ただ泣き叫ぶこともなく、諦観の表情を浮かべているこの男がスパイだっていうことがまだ信じられない。
「それでいつも通りにすればいいってことなんですかね」
「ま、そういうこったな」
任せてもいいか、と言われたのではい、と俺は返事をする。
ドラム缶に詰めたまま、とある場所へと持ってくる。
そこは選択肢を与える場所だ。
「さて、一つだけ聞こうか」
セメントの袋、混ぜるためのバケツ、それに大量の水。
それでも俺は最後のチャンスをこいつに与える。
「今からあるところに電話をかける。そこに出るかどうかでお前の人生が決まる」
諦めきっていた男に、それでも一筋の光を与える。
明確な死を与える準備をしている傍らで、それでも生きたいと思えるかどうかだ。
「電話の相手は武装社長だ。お前みたいなスパイに一つ選択肢を与えることにしているのでな」
これは兄貴から教えてもらった手順だ。
それでもいやだといった場合は、遠慮なくすることとなる。
セメントはその時までお預けだ。
「選択についてはお前が自由に決めることができる。だが、俺としては仲間はできるだけ多く集めておきたい、とだけ言っておこうか」
何を言われたかと思えば、と男は困惑の表情も浮かべる。
「……と、まずはこれを外さないとな」
猿轡をここでようやく外す。
声を出す前に武装社長へと電話をかけて、男にあてがった。
選択肢については俺も知っている。
ようはスパイとして雇用されているところの情報を洗いざらい話すか、それとも話さないかだ。
話した場合はここで武装社長が持っている手駒の一つになる。
話さなかった場合は海の下でセメントに抱きしめられる。
二つに一つ、そして大体の場合は、今回もその例に漏れずに助かるための方を選んだ。
兄貴にそこから連絡を入れる。
縛っていたからだをほどいてやって、それで男をドラム缶から取り出す。
セメントの袋は今回も不必要だったようだ。
「……手野武装社長と連絡するなんて、な」
「手野グループの裏の顔、その汚れ仕事を一手に担っているところだ。こういう産業スパイの類についてもその駆除もしているわけだ。うわさは聞いていただろ」
噂はうわさ、聞いていたとしても信じられなかっただろう。
男もようやく久々に自らの足で立ち上がり、手首の縛り跡を気にするように擦っていた。
「さて、この道を後悔しないように、な」
注意書き、とまで言えないわけだが、契約書はある。
それを男へと差し出した。
署名と親指の拇印を押してもらい、ようやく俺は男へと言った。
「おめでとう、新しい仲間として歓迎するよ」