努力の兄、癒しの弟
リヴァートン公爵家は、代々続く名門の家系であり、広大な領地と富を誇っていた。美しい城館が高台にそびえ立ち、遠くからでも一目でその権威と繁栄が感じられた。
城の周囲には手入れの行き届いた庭園や果樹園が広がり、来客はいつも豪華なもてなしを受け、家の中には豪奢な絵画や装飾品が並んでいた。
リヴァートン公爵家は、名声と財産の象徴として、貴族社会で誰もが一目置く存在だった。
しかし、その華やかな外面の裏側には、冷たく厳しい家庭環境が隠されていた。特に嫡男エリオットは、常に父親である公爵からの過剰な期待を一身に背負っていた。
公爵は冷徹で感情を表に出すことがなく、エリオットには決して愛情や温かい言葉をかけることはなかった。
彼にとって、嫡男であるエリオットは家名と領地を守るための「後継者」であり、それ以上の存在ではなかった。
エリオットは日々、父から課せられる重圧に耐えながら努力を続けていた。領地の管理、戦略の練り直し、領民との交渉、剣術の訓練。
どれも完璧を求められるが、どれほど頑張っても、父からの評価は厳しいままだった。
失敗は許されず、成功してもそれが当然とされる。エリオットが少しでもミスを犯せば、公爵は冷たい目で息子を見つめ、容赦のない言葉を投げかける。
「お前にはまだ、私の後を継ぐ器がない。これでは家を守ることはできない。」
その言葉はまるで刃物のようにエリオットの心を抉った。彼は何度も夜遅くまで机に向かい、書類を見直し、訓練場で自分を追い込んだが、その努力が報われることはほとんどなかった。
日ごとにエリオットの表情は硬くなり、家族との会話もほとんどなくなっていった。食卓に並ぶ豪華な料理も、彼にとっては無味乾燥なものとなり、笑うことも忘れてしまった。
そんな冷たい日々の中で、唯一の救いとなっていたのが、弟アレクサンダーだった。アレクサンダーは、兄エリオットとは正反対の無邪気で明るい性格を持っていた。
公爵の厳格な支配にもかかわらず、彼はいつも家の中に微笑みと陽気さをもたらしていた。
特にエリオットに対しては、兄への尊敬と愛情を隠そうとせず、無邪気に接していた。エリオットはふと肩の力が抜けるのを感じた。
父親からの厳しい期待に押しつぶされそうになっていた彼にとって、アレクサンダーの存在はまるで救いのようだった。
弟の笑顔と無邪気さが、エリオットにとって唯一、心の負担を和らげる。家の中がどれだけ冷たく、父の目がどれだけ厳しくても、アレクサンダーの存在だけは、エリオットにとっての光だった。
公爵家の名声や財産とは無縁の、ただ家族としての温かさを感じられる瞬間。エリオットにとって、それがどれだけ大きな救いだったか、彼自身も気づき始めていた。
夜も更け、エリオットは執務室で一心不乱に領地の管理書類に目を通していた。ランプの微かな光が、机に積み重なった書類に影を落とし、彼の顔には疲労の色が濃く漂っていた。
だが、エリオットは諦めることなく、父から課された責任を全うしようとしていた。
その時、扉が軽くノックされ、アレクサンダーがひょこっと顔を出した。
「兄上、すごいね!こんな夜遅くまで働いてるなんて、僕には絶対できないよ!」
と、彼はキラキラした目でエリオットを見上げた。エリオットは一瞬、驚いて顔を上げた。弟の無邪気な言葉に、彼は一瞬心が温かくなるのを感じた。
「ありがとう、アレク。でも僕はまだまだだよ。」
彼は弟に向かって微笑みを浮かべたが、その笑顔には、確かに弟の言葉がもたらしたわずかな安らぎが含まれていた。
早朝、エリオットは剣を握りしめ、訓練場で一人練習をしていた。父に完璧を求められる日々、剣技も例外ではなく、厳しい訓練を課されていた。
ミスを犯せば容赦なく指摘され、完璧さが求められるそのプレッシャーに、エリオットは常に気を張っていた。
訓練が終わり、汗が滴る彼にアレクサンダーが駆け寄ってきた。
「兄上、今日の剣さばき、すごくかっこよかった!僕もいつか兄上みたいに強くなりたいな!」
と、彼は無邪気に目を輝かせながら言った。アレクサンダーが木剣を手に取り、
「一緒に練習してもいい?」
と頼むと、エリオットは笑顔を浮かべて承諾した。二人は向かい合い、ゆっくりと剣を交える。アレクサンダーの動きを手取り足取り教えるうちに、エリオットの硬かった表情が少しずつほぐれていく。
「君もすぐに強くなれるよ、アレク。」
エリオットは柔らかな笑みを浮かべ、弟と共にゆったりとした時間を過ごした。
リヴァートン家の食卓は豪華であっても、重苦しい空気が常に漂っていた。父が無言で食事を進める中、エリオットは緊張しながら料理を口に運んでいた。
失敗や間違いがあれば即座に叱責される。その緊張感に押しつぶされそうな中、アレクサンダーが突然声を上げた。
「兄上、これ、美味しいよ!一口食べてみて!」
アレクサンダーは自分の皿から料理の一切れを取り、兄の皿に差し出した。エリオットは最初戸惑ったが、弟の無邪気な気遣いに応じてその一口を食べた。
「うん、確かに美味しい。」
彼は弟の明るさに少し心を軽くし、二人で静かに食事を楽しみ始めた。会話が交わされるうちに、エリオットの顔にも自然と笑みが浮かんだ。
その夜、エリオットは父に厳しく叱責され、庭で一人ぼんやりと夜空を見上げていた。心に重くのしかかる責任感と叱責の言葉が、彼を苦しめ続けていた。そこへ、アレクサンダーが静かにやってきた。
「兄上、星がすごく綺麗だよ。よかったら一緒に見ない?」
と、優しく誘った。エリオットは少し驚いたが、アレクサンダーの無邪気さに心を打たれ、弟と並んで星空を見上げた。
「君はいつも気楽でいいな…」
と、思わずつぶやいたエリオットに、アレクサンダーは笑って答えた。
「だって、兄上がいるから安心できるんだ。僕は兄上を信じてるからね。」
その言葉に、エリオットは心の中で何かが解けるような感覚を覚え、弟の存在がどれほど自分を支えているかを改めて感じた。
夜遅く、エリオットはベッドに横たわっても眠れずにいた。父からの叱責や、家の責任が彼を押し潰しているかのようだった。そんな時、ふと扉が開き、アレクサンダーが入ってきた。
「兄上、眠れないの?僕も今日はちょっと眠れなくて…一緒に寝てもいい?」
と、眠たげな目で兄を見上げた。エリオットは少し驚いたが、弟をベッドに招き入れると、アレクサンダーはエリオットの隣にそっと横たわり、
「兄上と一緒にいると、安心して眠れるんだ。」
と囁いた。その言葉にエリオットは胸が温かくなり、少しずつ心が解けていくのを感じた。弟の無邪気な優しさが彼を包み込み、やがて二人は並んで静かに眠りについた。
父からの厳しい指摘を受けた後、エリオットは書斎の暗い隅に座り込んでいた。顔を手で覆い、頭を抱える彼の姿は、心の重圧を物語っていた。
何度も自分を鼓舞しようと試みたが、思考はただの混乱に包まれていた。そんな時、ふとドアが開き、アレクサンダーが顔を覗かせた。
「兄上、難しいことやってるの?でも、きっとできるよ!」
彼の無邪気な声が、エリオットの心に響いた。アレクサンダーはすぐに兄の隣に座り、優しい手でエリオットの肩に触れた。
「肩、凝ってるよね?ちょっと、マッサージしてあげる!」
と、彼はエリオットの肩をゆっくり揉み始めた。初めは戸惑ったエリオットだったが、弟の温かい手に触れた瞬間、彼の心に少しずつ温もりが戻ってくるのを感じた。
「ありがとう、アレク。君には本当に救われるよ。」
と、彼は思わず笑顔を見せた。アレクサンダーの無邪気な笑顔と励ましの言葉が、エリオットの心の中に灯をともした。重い雲が晴れるように、彼の肩からは不安が少しずつ消えていった。
ある日の午後、エリオットは庭のベンチに腰掛けてぼんやりと空を見上げていた。心の中のもやもやが晴れず、何も考えたくない気分だった。
すると、アレクサンダーが小さな花束を手にしながら、駆け寄ってきた。
「兄上、これ見て!この花、すごく綺麗だから兄上にあげるね。」
彼の笑顔には、明るい光が満ちていた。その小さな花束は、色とりどりの花々が集まったもので、可憐な香りを放っていた。
アレクサンダーはそれを差し出し、期待に満ちた目で兄を見つめる。エリオットはそのささやかな贈り物に心が温まり、
「ありがとう、アレク。君の優しさがいつも助けになってるよ。」
と微笑んだ。彼はその花を大事に胸元に挿し、少しだけ心が軽くなるのを感じた。
ある日、エリオットは再び落ち込んでいた。厳しい現実に直面し、自信を失いかけていた時、アレクサンダーが静かに彼のそばに寄ってきた。
「兄上、頑張ってるの、僕知ってるよ。」
その言葉が、まるで光のようにエリオットの心に響いた。アレクサンダーは優しい手で兄の手を握りしめ、その温もりを感じさせてくれる。
エリオットは涙を堪えながら、思わず弟を抱きしめた。無邪気で優しいアレクサンダーの存在が、彼にとってかけがえのない支えとなっていた。
兄の肩に頭を預けたアレクサンダーは、まるでエリオットの心の中にある不安を吸い取るように、そっと微笑み続けた。彼の温もりが、エリオットの心に再び希望の光をもたらしてくれるのだった。
時が経つにつれ、リヴァートン公爵家の兄弟の絆は一層強まった。エリオットは父から家を継ぎ、領地の運営を任され、アレクサンダーは彼の右腕として献身的に支えていた。
二人は協力し合いながら、経済の管理や地域の人々との交流に取り組んでおり、日々新たな挑戦に立ち向かっていた。
ある日の夕暮れ、二人は書斎で一緒に帳簿を見直していた。エリオットが真剣な顔で数字を確認していると、アレクサンダーはふと口を開いた。
「兄上、こういう視点から見ると、また新しいアイディアが出てくるかもしれませんよ。」
その言葉にエリオットは思わず笑みを浮かべた。
「君の視点はいつも新鮮だ。やはり君は最高のパートナーだね。」
その言葉を受けて、アレクサンダーは嬉しそうに微笑んだ。
父は隠居生活を送っている。彼は厳しい仕事人間であり、家族はただの道具。愛情は最初から存在しなかった。
父に対しては家長としての敬意しかない。エリオットが後を継いだ今は家長でもなくなった。今までのエリオットへの態度から、妻や兄弟から冷たく扱われることが増えていた。
結婚相手探しには難航していた。エリオットは後継をつくる必要性を理解していたが、弟を眺めると、理想の妻に求めるものが思い当たらなかった。
「どうしたらいいのだろうか…」
と、彼は独り言を呟く。一方、アレクサンダーも兄を支えるために時間や手間が奪われるような結婚には乗り気ではなかった。
「結婚はいいけど、今は兄上と一緒にいる方が楽しいし。」
と彼は笑ってごまかす。その様子を見ていた母は、二人の結婚に対する心配を募らせていた。
「孫の顔が見たいのに…」
と、彼女はつぶやく。時折、彼女は兄弟それぞれに真剣な眼差しで尋ねる。
「二人ともどうするの?」
エリオットはその問いに、少し困ったように返した。
「どうしよう?今は考えがまとまらない。」
アレクサンダーはその様子を見て、笑顔を浮かべて答える。
「どうしよう?まあ、なんとかなるさ!」
その軽やかな言葉に、母は心配そうな表情を浮かべつつも、少しだけ安心した。兄弟の間には深い絆があり、彼らは共に幸せな未来を築くために努力しているのだと、彼女は信じていた。