子息に代わって父親が婚約破棄を宣言するお話
「子爵令嬢マティナリア・パーレンテンジア! 我が息子、伯爵子息アインファート・ソーフィスカートはそなたとの間に真実の愛を見つけられなかった! そなたとの婚約は破棄させてもらう!」
その声が響き渡ると、喧騒に包まれていた学園の夜会はしんと静まり返った。
夜会で宣言される婚約破棄。恋愛小説や舞台でよく知られているが、現実にはまずありえない出来事。
突如こんなことが始まれば、参席者たちは驚きながらも興奮し、好奇の目を注いだことだろう。
だが今、会場を占める空気は驚きと言うより困惑だった。
宣言の中に含まれる「息子」という言葉。婚約破棄を告げたのは壮年の男性だった。明らかに学生ではない。
この異常な事態。夜会に参席した学園の生徒たちは好奇心を湧かせるより前に、まず事態の把握に努めねばならなかった。
婚約破棄の宣言を受けたのは、子爵令嬢マティナリア・パーレンテンジアだ。
肩まで届く柔らかなアッシュブロンドの髪。ふっくらした頬。やや垂れ目がちな大粒の瞳は薄茶色。物腰柔らかで誰にでも優しく接する彼女は、密かに学園の癒しとして称えられている。
いつもは穏やかな微笑みを絶やさないマティナリアだったが、今は驚きのあまり目を見開いている。
彼女をそんな顔にさせた者は、意外にも立派な紳士だった。整えられた立派な口ひげ。がっしりとしたたくましい体躯を身を包むのは、黒を基調とした礼服。その貫禄と身にまとう気品は、平民ではありえない。間違いなく高位貴族だ。教師にこんな男性はいなかったから、おそらく誰かの父兄と思われた。
学園の夜会に学生の父兄が参加することなどほとんどない。そのうえ婚約破棄を宣言するなど意味が分からなかった。
だが、その男性の後ろにいる少年の姿を目にすると、ようやく事情が察せられた。
伯爵子息アインファート・ソーフィスカート。
美しいプラチナブロンドの髪。大粒の緑の瞳。幼さを残した整った顔立ちは、天使のように愛くるしい。
小柄な体つきで、年のころは13歳ほどに見える。だが彼は今年で17歳であり、この学園のれっきとした生徒である。
先ほどの婚約破棄の宣言。「我が息子」という言葉からすると、婚約破棄を宣言したのは彼の父、ディルターブ・ソーフィスカート伯爵なのだろう。
幼さの残る顔と小柄さから、伯爵子息アインファートは年齢より若く見える。だが今、父親の服の裾にすがり泣きそうな顔で震えるその姿は、学生と言うより幼い子供のようだった。
父親の後ろに隠れる子息など、普通なら蔑みの対象となるだろう。だがこの場で彼に侮蔑の視線を向ける者はいなかった。多くの者は同情すらしていた。
なぜなら伯爵子息アインファートは、救国の英雄なのである。
およそ一年ほど前の事だった。
突如魔物の軍勢が王国に侵攻してきた。予想外の事態だった。魔王を討ち果たして100年以上、魔物は依然として人々の脅威ではあったが、組織立って動くことなどなかったのである。
軍勢を率いるのは元魔王軍幹部、魔族リーガイン。どこに潜んでいたのか、魔王の仇を討つために王国に襲い掛かってきたのだ。
魔物の数は500を越えてたと記録されている。王国軍の力をもってしても、大きな損害なしに撃破することは難しい規模だった。
だが、突如として救いの手がもたらされた。
王国軍に迫ろうとした魔物の群れに向けて放たれた光が、突き進む魔物の群れの中心を広く真っ直ぐ焼き尽くした。戦端が開かれる直前に、いきなり中央部隊を失っては混乱は免れない。魔物の軍勢は総崩れとなった。
いかに数が多く個々の能力が高くとも、統制を欠いた魔物など烏合の衆も同然だ。周辺各国から精強と恐れられる王国軍の敵ではなかった。当初覚悟していた大きな損害を受けることなく、王国軍は見事に勝利したのである。
後に、魔物の軍勢を貫いたのは、ソーフィスカート伯爵家の秘蔵のアーティファクトであることがわかった。魔物の軍勢が進軍を始めた場所は、幸か不幸かソーフィスカート伯爵領の近くだったのである。
アーティファクトの名は『命脈を奪う者』。10メートルほどの砲身を持つ移動式の砲台だった。
王国の勝利に大きく貢献したソーフィスカート伯爵家だったが、その代償は大きなものだった。
まず、『命脈を奪う者』が失われた。
伯爵によると、既に長い年月を経ており、『命脈を奪う者』はすっかり老朽化していたそうだ。一撃を放つことはできたものの、魔力が暴走して粉々に爆散してしまったらしい。
それに加えて、『命脈を奪う者』を制御していた伯爵子息アインファート・ソーフィスカートはその爆発に巻き込まれてしまった。幸い一命はとりとめたものの、そのショックにより10数年の記憶を失ってしまった。
学園でも俊英と称えられたアインファートは、およそ三歳児ほどまでに幼児化してしまったのである。
魔法医によると、この記憶喪失は魔法で回復させることはできないとのことだった。人間の精神は複雑で、魔法で強引にいじるとかえって悪化しかねない。自然治癒に任せるしかなかった。
魔法医は、アインファートの記憶は戻る可能性があるものの、その日がいつになるのかはわからないとの診断を下した。
そうなってしまっては学園に通うどころではない。ソーフィスカート伯爵家は、息子を家で療養させることとした。
だが、それに待ったをかけた者がいた。アインファートの婚約者、子爵令嬢マティナリア・パーレンテンジアである。
「学園を辞めてしまえば、アインファート様の経歴に傷がつくことになります! なにより、アインファート様は学園生活をとても楽しんでいらっしゃいました! 彼を学園にいさせてください!
不都合があるというのなら、わたしがアインファート様を支えます。だからどうか! どうかお願いします!」
普段は穏やかな子爵令嬢マティナリアが、淑女らしからぬ必死さで訴えてきた。これには学園長も感銘を受け、アインファートの復学を認めた。
学園の寮は男女で分かれていた。世話を見るためマティナリアが男子寮に頻繁に出入りするのは望ましいことではなかった。
そこで学園長は、学園内にある客室をマティナリアに貸し与えた。本来は賓客が宿泊する際に使用する施設だが、当面は使用予定がなかったのである。
アインファートはそこで寝泊まりすることとなった。マティナリアは実家からメイドを呼びよせ炊事や洗濯と言った雑務を任せた。そしてマティナリア自身も客室に通い、アインファートの面倒を見ることとなった。
アインファートは知能も精神も3歳くらいまで幼児化していた。ほとんどの授業にはついていけず、数学や経済の授業ともなると居眠りすることも多かった。
しかし、彼はもともと魔法にかけては天才的だった。幼児化してもなお、魔法に関する授業にはなんとかついていくことができた。
そして一年足らずで初級魔法を一通り使えるようになった。
精神はともかく肉体は17歳の青年だ。魔力に優れ、鍛え上げた魔法の腕前はその身に刻まれている。それでも彼の現在の精神年齢を思えば驚くべき学習速度と言えた。
学園では一芸に秀でた生徒は合格にする制度があった、アインファートはその魔法の才を認められ、学園の生徒として過ごすことができるようになったのだった。
救国の英雄であるアインファートの話は生徒の間に伝わっている。
幼児化したアインファートに代わり、その父親であるソーフィスカート伯爵が前に立ち、婚約破棄を宣言した。
状況は分かった。だがそこに至るまでの経緯はわからなかった。
幼児化しながらも学園の授業に臨むアインファート。その傍らには常にその婚約者であるマティナリアがいた。彼女は常に献身的に婚約者を支えていた。婚約破棄などという言葉からは最も縁遠い二人だった。
父親が夜会の場に出てきて婚約破棄を宣言するなどよほどのことだ。状況は呑み込めても事情はまるでわからず、生徒たちは息を呑んで見守った。
「いきなりの婚約破棄とはあんまりです……! なにがいけなかったのですか? 私に至らない点があったというのでしょうか?」
マティナリアは今にも泣き崩れそうだった。どうやらこの婚約破棄は彼女にとっても予想外の事だったようだ。
悲しみに暮れるその姿は、生徒の誰もが同情せずにはいられないものがあった。しかしソーフィスカート伯爵は気にした様子も見せず、それどころか鼻で笑った。
「至らない点だと? ふざけるな、それ以前の問題だ! そなたは記憶を失ったアインファートのことを甘やかすばかり! ただの育児の真似事に過ぎない! 一年も学園に通っていたというのに、アインファートは幼子のままではないか!」
その糾弾にはマティナリアも言葉に詰まった。
ソーフィスカート伯爵の後ろに隠れ、父親の服の裾をぎゅっと握るアインファートは、確かに親に頼りきりの幼子にしか見えなかった。
「しかもそなたは、我が息子アインファートの告白を断った!」
続く言葉に生徒たちはどよめいた。
幼児となったアインファートが愛の告白をして、マティナリアがそれを断ったのか。
生徒たちの驚きの視線がマティナリアに集まる。だが、彼女もまた驚き戸惑っているようだった。
「こ、告白!? それはいったいなんのことですか!? 告白された覚えなんて……」
「そなたは我が息子から告白を受けながら、正しく応えることもせず、そのことを悪びれてすらいない! これではとても婚約者としての義務を果たしているとは言えない!
だからソーフィスカート伯爵家当主として、そなたとの婚約を破棄すると宣言したのだ!」
親ほど年齢の離れた高位貴族からの、取りつく島もない一方的な糾弾。ついにマティナリアは膝を折って泣き始めた。
学園の生徒たちはみな、彼女が献身的に婚約者に尽くしてきたのを知っている。あまりに一方的な糾弾に、怒りを覚える生徒も少なくなかった。
しかし、彼らは貴族である。家の立場を思えば迂闊には動けない。ましてや相手は伯爵家の当主本人なのである。親と変わらぬ年齢の紳士なのである。学園生徒が正面切って相手するには荷が重すぎる相手だった。
だが、そんな夜会の場で声を上げる者がいた。
「お待ちください、伯爵。これではあんまりではないでしょうか」
その声を発したのは生徒ではなかった。貴族ですらなかった。
メイドだった。茶色の髪を二本の三つ編みにまとめた地味な顔のメイドだった。
「たかがメイド風情が、この私に意見するつもりか? まったくこの学園も落ちたものだな」
伯爵はメイドを一瞥しただけだった。口にした言葉もメイドに向けたものではなく、学園に対する愚痴だ。
目の前のメイドを完全に見下しており、相手にする気も無いようだった。
「おっと失礼。確かにこの姿ではいけませんね」
言うなり、メイドは踊り子のように華麗にくるりと回った。
三つ編みがほどけ、茶色の髪は美しい金の髪へと変わった。
身にまとった黒と白のメイド服は、白を基調とした豪奢にして上品、壮麗にして可憐なドレスへと変わった。
きらりと大粒の瞳が輝く。その色は、晴れ渡る空を思わせる澄んだ青。
夢見るように可憐に。花開くように鮮やかに。メイドは美しい乙女に変わった。
伯爵は驚愕した。
だがその驚きは、この鮮やかな変化に対してではなく、変化した後。目の前に忽然と現れた少女に対する驚きだった。
「あ、あ、あなた様は……!」
言葉が詰まるほどに驚きながら、しかしすぐさま伯爵は跪き頭を垂れた。
「ご無礼をいたしました! クリサリシア・トラスファルム王女殿下!」
最大限の敬意をこめて伯爵は非礼を詫びた。
その声に合わせるように、参席した生徒たちも跪いた。
本来ならこの場に王女がいるはずはなかった。
この王国では王族は専属の教師から教育を受けることになっており、学園に通うことは無い。
しかし、まるで居るのが当たり前であるかのように落ち着いた空気を纏い、王女は確かにそこにいた。
「招待状もなしに突然の来訪、失礼いたしました。私はトラスファルム王国第三王女クリサリシア・トラスファルム。学園の生徒の皆様、ごきげんよう」
そう告げると、クリサリシア王女は華麗に一礼した。
洗練された所作は、王族の優雅さを感じさせるものだった。
しかし一礼の後、顔を上げたクリサリシア王女の浮かべた表情は、まるで平民のような気さくな微笑みだった。
「挨拶は終わりました。伯爵殿、そうかしこまらないでください。他の皆様も楽になさって。公務で来たのではありません。今宵は夜会、軽やかに楽しく過ごしましょう。
私のことも『クリサリシア』と気軽に呼んでください」
そんなことを言われても、伯爵はすぐには動けなかった。王族相手の無礼は場合によっては死罪すら有り得るのだ。
だが周囲の生徒たちはすぐに立ち上がった。彼らの妙に落ち着いた様子に、伯爵は目を白黒させた。
トラスファルム王国第三王女クリサリシア・トラスファルム。
王家伝統のきらめく黄金の髪に、晴天の空を思わせる澄んだ青の瞳を持つ16歳の乙女だ。
まだ少女の可憐さを残すその整った顔立ちは、美しいというよりかわいらしい。人懐っこい笑みを浮かべたその顔は、高貴でありながら王族特有の近寄りがたさを感じさせない。
彼女は変身の魔法を得意とする。つい先ほども変身の魔法でメイドに化け、この夜会に紛れ込んでいたのだ。
クリサリシア王女は変身の魔法を活用していろいろな場所に姿を見せる。城下町、貴族の邸宅、議会所。あるいは朝の市場や下町や貧民街にまで。
先ぶれも無く、前触れもなく、忽然とやってくる。
そして姿を現した王女は、その場で起きている様々な問題に首を突っ込むと、人の心に寄り添い、そして軽やかに解決してしまう。そんな王女は『変幻自在に咲き誇る花』の異名で呼ばれていた。
クリサリシア王女にとって、この学園も行動範囲内だった。
この学園に来たことも一度や二度ではなく、生徒たちはすっかり慣れているのだ。
自分だけ跪いているのもかえって無礼に当たるかもしれない。そう思い、ソーフィスカート伯爵は立ち上がった。
伯爵が立ち上がったのを見ると、クリサリシア王女は落ち着いた声で話を切り出した。
「さて。今回の婚約破棄の一件、一部始終見させていただきました。
伯爵家の子息を想い、婚約破棄を告げる親心。それ自体を間違いとは言いません。ですがそのやりとりはあまりに一方的。わたしはマティナリア嬢の言い分も聞きたいと思います。よろしいでしょうか?」
「は、はい! 御心のままに!」
王族によろしいでしょうかと問われれば否も応もない。伯爵は頷くばかりだった。
クリサリシア王女は未だ膝をつくマティナリアに手を差し出した。
「さあ、泣いてうずくまっていてはいけません。貴族の令嬢ならば、王女の前ではきちんと姿勢を正し、て淑やかにするものですよ?」
「は、はい!」
クリサリシア王女の手を取りマティナリアは立ち上がった。涙をぬぐおうとすると、そこにすっとハンカチが差し出された。王家の紋章が刺繍されたそれは、クリサリシア王女が取り出したものだ。
マティナリアは最初は恐縮して受け取らなかったが、ぐいぐいと押し付けられて最後には受け取った。
彼女が涙を拭きとり落ち着いたところで、クリサリシア王女は話を切り出した。
「マティナリア嬢。学園において、貴女がアインファート殿に献身的に尽くしていたとの評判は聞いています。そんなあなたが婚約破棄を宣言されるとは納得がいきません。何か誤解や行き違いがあるのでしょう。過ちを正すため、事態をつまびらかにしたいと思います。
そのためにも、貴女が普段どのようにアインファート殿と接しているかお話しください」
「はい、王女様がお求めならなんなりとお答えします。でも、どこからお話しすればいいか……」
「そうですね……一日の流れに沿って、どんな学園生活を送っているかお話しくださいますか?」
そう促され、マティナリアはとまどいつつも話を始めた。
「まず、早朝にアインファート様の泊まる客室に訪れます。そして寝室でお眠りになっているアインファート様を起こします」
「え? 寝室に入るのですか?」
クリサリシア王女は驚きの声を上げた。
結婚前の令嬢が、異性の寝室に入ることは、平民ならともかく貴族社会では不作法とされるのだ。
このおとなしそうな令嬢が、そんなことを当たり前のように話すとは意外なことだった。
「はい。アインファート様は記憶を失われる前から朝に弱い方でした。きちんと起こして差し上げないと、なかなかベッドから出られないのです」
「そういうことはメイドに任せるべきではありませんか?」
「メイド相手だとむずがってしまってなかなかベッドから出てくださらないのです。でも、私が起こしに行くと、すぐに起きてくださるんですよ?」
その光景が目に浮かんだのか、マティナリアはくすくすと笑った。
そこには異性の寝室に入る後ろめたさといったものはまるでなかった。ぬくもりすら感じられた。もし不作法と指摘すれば、指摘した方が品性を疑われてしまいそうな温かみがあった。
「……なるほど。それなら仕方がありませんね。話を続けてください」
クリサリシア王女はため息を一つ吐くと、続きを促した。
マナティリアはしあわせそうな笑顔で、子守唄でも歌うように穏やかに、アインファートとの暮らしを語りだした。
朝。アインファート様がメイドに手伝われて着替えて身だしなみを整えた後はいっしょに歯磨きをします。
幼くなったアインファート様は歯磨きが雑になりがちなので、手本を見せなくていけないのです。最近は奥歯を磨くのも上手になりました。
朝食はいっしょに摂ります。アインファート様は好き嫌いが激しく、いつもこっそり嫌いなものをよけようとします。食事中は目を離せません。
それにテーブルマナーも大切です。記憶と共にマナーも忘れてしまいましたが、もともと賢い方なので教えればすぐに覚えてくださいました。でも食事に夢中になると、マナーを忘れがちです。日々こまめに注意しなくてはいけません。
朝食を終えたら身支度を整え、一緒に教室に向かいます。授業中はいつもお隣に座ってサポートします。
アインファート様は魔法に関する授業ではたいへん意欲的ですが、他の授業には興味がわかないようで、いつも退屈そうにするのです。そこでノートにかわいい動物のイラストを描いたら喜ばれました。少しでも授業に興味を持ってもらうために、予め教科書にかわいい動物を描いておくのが日課になりました。
昼は食堂で昼食を摂ります。人目があるのでテーブルマナーについては特に注意します。厳しく言うと泣きそうな顔をしますが、テーブルマナーとは人の目がある場所でこそしっかり守るべきものです。心を鬼にしてしっかり躾けます。
昼食を終えたら中庭のベンチでお昼寝をします。アインファート様は精神が幼くなったためか、食事を摂った後は眠りたがるのです。そのときはいつも膝枕をねだられます。人前では恥ずかしいので一旦は断るのですが、昼食中に厳しくしてその後もお願いを聞かないのはかわいそうに思えて……結局いつも膝枕してあげることになってしまいます。
お昼寝だけでは寝足りないのか、アインファート様は午後の授業はうとうとしがちです。眠りかけたらペンでつついて起こして差し上げます。でもあんまり疲れているようだとちょっと寝かせてたままにしてしまうこともあります。うつらうつらする姿がかわいらしいので、ついつい見とれてしまうのです。
授業が終わると遊びの時間です。最初の頃はボール遊びや縄跳びなどをしていましたが、初級魔法を扱えるようになってからは簡単な模擬戦をするようになりました。アインファート様は精神が幼児化しても、魔力は以前と変わらず高いままです。初級魔法と言えども扱いには気をつけてもらわなければなりません。間違った使い方をしそうになったら強めに叱ります。
でも、あまり厳しくし過ぎて魔法を嫌いになったら大変です。うまくできたらキチンと褒めます。この時だけは特別に頭をなでてあげます。アインファート様はとても喜び、ますます熱心に魔法を学ぼうとします。そんな彼を見ていると、私も嬉しくなってしまいます。
夕食は客室でいっしょに摂ります。一日あったことを語り合うと話が弾んで時間を忘れてしまいます。でも、話に夢中になるとアインファート様はテーブルマナーが疎かになるので気を抜けません。嫌いなものをこっそりよけたりするから、これも見逃せません。
食事が終えてしばらくゆっくりしているとアインファートはうつらうつらしてきます。精神が幼いためか子供のように睡眠が必要なようです。でもいざベッドに連れて行くと、なかなか眠ってくれません。そういう時は本を読み聞かせます。
子守唄をせがまれることもあります。恥ずかしいのであまり歌いたくありません。だから、一日いい子にしていたらご褒美に歌ってあげることにしています。子守唄でお眠りになるアインファート様は本当にかわいらしく、まるで天使のようです。
「……なんと言うか、一日べったりなのですね」
夢見るように語られる「マティナリアとアインファートの一日」を聞いて、クリサリシア王女は少々面食らっていた。「学園において献身的に婚約者に尽くしている」とは聞いていたもののの、ここまで細やかに面倒を見ているとは思わなかったのだ。
「はい……目が離せなくて困ってしまいます」
マティナリアは眉を寄せながらそう零した。その口元は笑みの形をとっており、とてもしあわせそうに見えた。
「なんと言うか……貴女は『おかん』ですね」
「おかん? それはいったいどういう意味なのでしょうか?」
「失礼しました。貴女が知らないのも無理はありません。これは平民の言葉です。『慈愛に満ちた器の大きい母親』ということです」
「いいえ、私はアインファート様の妻となるのです。母親ではありません」
マティナリアはぴしゃりと言い返した。
その様子を見てクリサリシア王女は安堵した。話を聞いているうちに微妙にインモラルな感じになってきた気もするが、線引きはきちんとしているようだ。その姿にはやましさや後ろめたさと言ったものがまるで感じられなかった。語った内容に嘘は無いのだろう。
だがそれでも、国民の上に立つ王族として、周囲の確認も取らねばならなかった。
「念のために確認させてください。学園の生徒諸君、マティナリア嬢の語った内容に偽りはないでしょうか?」
クリサリシア王女が問いかけて夜会の会場をぐるりと見回すと、みな一様に納得顔でうなずいていた。疑う余地は無いようだった。
生徒たちも授業時間外のことまでは知らないだろう。だがそこだけ嘘をつくとも思えない。そもそも授業時間内の行いだけでマティナリアの献身ぶりは十分すぎるほど伝わった。
皆に認められる中、しかしマティナリアは沈んだ表情だった。
「どうしたのですか、浮かない顔をして?」
「こうしてアインファート様との生活を振り返って、改めて思ったのです。確かに婚約者としての義務を果たせていなかったのかもしれません……」
「確かに普通の婚約者同士のやりとりには欠けていたかもしれません。でも貴女のお世話っぷりは称賛に値すると思います」
「もったいないお言葉です。でも、私はアインファート様の好き嫌いをまだまだ直せてせていないのです。記憶を失う前から苦手にしていたピーマンだけは食べさせることができるようになりました。でも、まだまだ食べてくれないものがたくさんあります」
「ピーマンを!? それはかなりの偉業だと思いますよ!」
クリサリシア王女は様々な人間と接する機会がある。だから世の母親が子供にピーマンを食べさせるためにいかに苦労しているかも知っていた。
アインファートが幼児化してからわずか一年。その間に苦手だったピーマンを食べられるようになるとは、並大抵のことではない。
「学園の生徒の皆様。マティナリア嬢と婚約者の関係は、確かに普通の貴族の婚約関係とはことなるものです。ですが彼女は婚約者を本心から慈しみ、実に献身的に尽くしてきました。これもまた、愛の姿でしょう。
トラスファルム王国第三王女クリサリシアの名において、マティナリア嬢のアインファート殿に注ぐ愛が、真実の愛であると認めます!」
第三王女がその名において認めたということは、王国が認めたことに等しい。
マティナリアの献身は、真実の愛であると王国に認められたのだ。
生徒たちは喝采を上げた。
マティナリアは涙をはらはらとこぼした。先ほどの糾弾による苦しみの涙とはまるで違う、感激による温かな涙だった。
ひとしきり喝采が収まったころ。クリサリシア王女はソーフィスカート伯爵に言葉を向けた。
「さてソーフィスカート伯爵。あなたはマティナリア嬢が婚約者の義務を果たしていないから婚約破棄されるとおっしゃっていました。ですが彼女は、学園の皆様も認めている通り、婚約者に対して献身的に尽くしています。
そんな彼女を婚約者としての義務を果たしていないと言って一方的に婚約破棄するのは、いささか筋が通らないのではないでしょうか?」
「この件はあくまで家族の問題、貴族の家と家との話。僭越ながら、王女ともあろうお方が口を挟むことこそ筋違いと言うものではないでしょうか」
ソーフィスカート伯爵は渋面を作りながらも反論した。王族に迫られながらもこうして反論するとは、よほどの決意なのだろう。
王女はふむ、と口元に手を当てた。実のところ、クリサリシア王女に非はある。招かれたわけでもないのにこの場に現れ、勝手に事の是非を決めつけているのだ。筋違いと言えばその通りなのである。
しかしクリサリシア王女も引く気はまるでなかった。様々な問題に首を突っ込んで回っている『変幻自在に咲き誇る花』にとって、場違いこそが日常なのだ。
「わたしは王国第三王女。国民を守る義務があります。マティナリア嬢が理不尽を強いられれば守らねばなりません。同時に、伯爵が正しく権利を主張するのであれば、それを受け入れねばなりません。
わたしが見たところ、マティナリア嬢は婚約者の義務を果たしています。それでもなおあなたが婚約破棄を通そうとするのであれば、その理由を教えてくださいませんか?」
クリサリシア王女はまっすぐにソーフィスカート伯爵に対してまっすぐに問いかけた。
晴天の空を思わせる王女の瞳がきらりと輝く。まっすぐに向けられた視線は鋭かった。
「どれほど献身的に尽くしていようと、マティナリア嬢は息子の告白を拒みました。心の通じ合っていない者のところに、記憶を失った息子を預けておくことなどできません」
ソーフィスカート伯爵は強く言い切った。
よほど息子を手元に置きたい理由があるようだった。その言葉も親としては真っ当な正論だ。
だが、「告白」という言葉にはどうにも引っかかった。なにしろアインファートは記憶を失い幼児化しているのである。それが愛の告白などするものだろうか。
「マティナリア嬢。アインファート殿から告白を受けたというのは本当なのですか?」
「それが……私には心当たりがないのです。アインファート様から愛の告白をされれば、忘れることなどないはずなのですが……」
マティナリア嬢は目を閉じ首をかしげて必死に記憶を探っているようだが、思い当たることはないらしい。当事者同士の問題だ。書面に残っているはずもない。令嬢に覚えが無いというのなら、訴えた子息に聞くしかない。
「本人に直接聞いた方が早そうですね。アインファート殿、あなたはどんな風に告白したのですか?」
クリサリシア王女が問いかけると、アインファートはびくりと震えた。強い怯えが感じられた。
ソーフィスカート伯爵は息子の前に立ち王女の視線を遮った。
「失礼ながらクリサリシア王女。息子は記憶を失い幼児化しています。このような場所で大勢の注目を浴びては、緊張して上手くものを言えません」
「なるほど。確かにわたしの聞き方がよくありませんでした」
言うなりクリサリシア王女は歩み出した。まるで散歩に出かけるかのような軽い足取りだった。王族らしからぬ気安さの、しかし有無を言わさぬその歩みに、伯爵は王女を呼び止めることすらできなかった。
悠々と伯爵の背に隠れるアインファートの前に来ると、クリサリシア王女は腰を落とした。アインファートの目線の高さを合わせると、明るい声で問いかけた。
「ねえ、アインファートくん。マティナリアさんにどんな告白をしたのか、おねえさんに教えてくれる?」
それは王女の振る舞いではなかった。平民の娘が、近所の年下の子供に接する時のような口ぶりだった。下町にも行く機会の多いクリサリシア王女は、平民のやりとりにも習熟していたのである。
果たして、それは幼児化したアインファートに対しても有効だったようだ。怯えて頑なになっていた彼は、王女の明るさに誘われるように、おずおずと答え始めた。
「マティおねーちゃんに、告白したことを聞きたいの……?」
「マティおねーちゃん……? ああ、マティナリアさんのことをそう呼んでいるのですね。ええそうです。マティおねーちゃんに告白したんですよね? どんな風に告白したんですか?」
アインファートは涙をぬぐって立ち上がった。そしてマティナリアの方を指さすと、大きな声で叫んだ。
「『ママになって』ってお願いしたのに、マティおねーちゃんはダメだって言ったんだ! 僕の『こくはく』を断ったんだよ!」
アインファートはそう叫ぶなり泣き出してしまった。
クリサリシア王女は目を丸くして、思わずマティナリアの方を見た。彼女も驚いた顔をしていた。
「ええっ!? 告白!? あれが告白だったんですか!?」
「マティナリア嬢。貴女は『ママになって』と言われて、断ってしまったんですね……」
「はい。私はアインファート様の婚約者です。妻になるのですから、母親になることなどできません。そもそも冗談だと思いました。だから、『ダメですよ、めっ』って叱ってしまったのです」
クリサリシア王女はため息を吐いた。彼女が推測していたように、まさにちょっとした行き違いだった。だが子供の何気ないやりとりから、伯爵自らが夜会で婚約破棄を宣言する事態に至るなど、さすがの彼女にとっても予想外だったのだ。
「と、とにかく! 息子の想いを踏みにじるような者のところに、息子を預けることなどできないよう事です!」
ソーフィスカート伯爵は目をそらしながらそんなことを言った。何が何でも息子を手元におきたいという固い意志が感じられた。それは献身的なマティナリアに子供を奪われたくないのか。あるいはなにか別の理由があるのかもしれない。
どうであろうとも、クリサリシア王女は自分のやるべきことをわかっていた。
クリサリシア王女はいつだって問題に首を突っ込み、人の心に寄り添い、そして解決してきたのだ。
「よろしい! ならばこの状況、王国第三王女クリサリシア・トラスファルムが解決してさしあげます!」
高らかに宣言すると、アインファートに改めて向き直った。
「アインファートくん! 泣いていてはだめですよ! そんなことではマティおねーちゃんに嫌われますよ!」
アインファートはびくりと震えてクリサリシア王女の方を見つめた。
おびえたように身を縮こまらせていたが、その目には真剣さがあった。「マティおねーちゃん」のこととなると必死になるようだった。
クリサリシア王女は彼を安心させるように笑顔で語りかけた。
「いいですか、アインファートくん。マティおねーちゃんは君のママにはなれません。でも、もっともーっと、仲良くなることはできます!」
「ほ、本当!? どうすればいいのっ!?」
「それは……あなたがパパになるのです!」
アインファートは首を傾げた。
「マティおねーちゃんがママになるんじゃなくて、僕がパパになるの……?」
「そうです! そうすればマティおねーちゃんは君のことを今よりもっと甘やかしてくれます。あまあまです!」
「クリサリシア王女様!?」
マティナリアが思わず驚きの声を上げるが、クリサリシア王女は一顧だにしない。
目を輝かせて聞き入るアインファートに対して話を続けた。
「しかも! あなたがパパになれば『マティおねーちゃんを甘やかす』こともできます! 今よりもっと楽しいですよ」
「本当?」
「ええ、本当です! だから婚約破棄なんてしてはいけませんよ」
「でも、パパが婚約破棄しないといけないって言ってたんだ。マティおねーちゃんをしからなきゃいけないって……」
「パパは『ないしょ』にしていたんでしょうけど、そもそも婚約破棄なんてしたらマティおねーちゃんとは二度と会えなくなりますよ? 本当にそれでいいんですか?」
アインファートは驚き目を見開いた。どうやら本当に知らされていなかったらしい。信じられないと言った目で父親を見た。
ソーフィスカート伯爵は気まずげに視線をそらした。それが決め手となった。
「やだー! 婚約破棄なんてやめるーっ!」
アインファートは泣きながら駆けだすと、マティナリアの胸へと飛び込んだ。マティナリアはぎゅっと抱きしめた。
「マティおねーちゃん! 大好き、大好きだよ! どこかに行っちゃやだーっ!」
「はい……はい……! 私はどこにも行きませんよ。ずっとあなたのそばにいます……」
抱きしめ合う二人に婚約者同士の甘い空気と言うものは感じられなかった。仲の良い親子のぬくもりだけがあった。二人は本来は同じ年齢という事実に微妙にひっかかるものがあるが、それでも心温まる光景だった。
学園の生徒たちも感動している。やがて誰かが拍手を始めると、すぐに皆がそれに加わった。もらい泣きしている令嬢すらいた。
「いい学園ですね……」
クリサリシア王女はしみじみとつぶやいた。
だがこの場には、そうした感動の輪に入れない者もいた。
「やれやれ……あんなに甘やかされては息子はダメになってしまう一方だ」
ただ一人、ソーフィスカート伯爵だけは不満げにため息を漏らしていた。クリサリシア王女はそんな伯爵の元へ歩み寄ると問いかけた。
「ずいぶん息子さんのことを心配されているのですね。そんなに連れ帰りたかったのですか?」
「当たり前です。息子は王国を救った英雄で、ソーフィスカート伯爵家の嫡子です。今日改めて確信しました。やはりマティナリア嬢は息子を甘やかしすぎている。将来のことを思えば、たとえ騙してでも連れ帰りたいと思うのが親心と言うものです」
全ては行き過ぎた愛情。子を想うあまり、親が暴走して繰り広げられた婚約破棄の一幕。
そういう筋書きなのだろう。そう理解して、クリサリシア王女は伯爵ににこりと微笑み頷いた。
「なるほど。伯爵はアインファート殿をいっそ『幽閉したい』と思うくらい、大事に思っているのでしょうね」
その言葉に、ピクリと伯爵は震えた。一瞬だが顔に剣呑な感情を浮かばせた。だがそれも一瞬の事だった。
「親バカと笑ってください。父親と言うものは、息子が可愛くて仕方がないものなのです」
そんな言葉を残して、伯爵は会場を後にした。
伯爵の後ろ姿を、クリサリシア王女は見つめていた。明るい彼女には似つかわしくない、刃のように鋭い目で、見つめていた。
トラスファルム王国第三王女クリサリシア・トラスファルム。
輝く金の髪と晴天の空のような青い目を持つ、かわいらしい姫君。
変身の魔法を使いこなし、あらゆる場所に現れ、様々な問題に首を突っ込み、人の心に寄り添い鮮やかに解決する『変幻自在に咲き誇る花』。
それが王国のほとんどの者が知る彼女の姿である。
だが、彼女の一面に過ぎない。
彼女が人前で使う魔法は変身の魔法のみだ。誰にも見破ることのできない驚くべき精度の魔法だが、それは彼女の実力の一端に過ぎない。クリサリシア王女は極めて高い魔力を持ち、攻撃魔法の扱いにも長けている。特に魔法戦闘にかけては王国宮廷魔導士にも引けを取らない実力だ。
変身の魔法。高い魔力とそれを扱う卓越した技術。聡明な頭脳と物怖じしない気性。そして必要とあらば王族としての強権を揮える。
クリサリシア王女は王国でも指折りの強者なのである。
そんな彼女がしているのは、王国を害する脅威を小さな芽のうちに摘んでしまうこと。彼女は王国の陰の守護者なのである
今、クリサリシア王女が追っているのは、一年前の魔物の侵攻についてだった。
元魔王軍幹部リーガインに率いられた500を越える魔物の軍勢。
もしまともにぶつかれば王国への被害は小さなものではなかっただろう。
それでも敗北はあり得ない。
王国軍は精強だ。いかに元魔王軍幹部が率いていようと、500程度の魔物の軍勢に負けることなどないのだ。
そもそも元魔王軍幹部リーガインが姿を現したというのも妙な話だった。魔王討伐後、100年以上にわたってその存在すら確認できなかった。そんな慎重なリーガインが、確実に敗北する戦いを仕掛けてくるのは奇妙なことだった。
そこで浮かび上がるのが 使用されるまで誰も知らなかったソーフィスカート家秘蔵のアーティファクト。
『命脈を奪う者』の存在だ。
アーティファクトは価値が高く、その所有を隠すのは珍しいことではない。
だが突如姿を現した元魔王軍幹部リーガインが、敗北確定の魔物の軍勢を引き連れて、ソーフィスカート伯爵領の近くから攻め込んできた。そしてソーフィスカート伯爵が秘密にしていたアーティファクトを起動した。ここまで出来事が重なれば偶然とは思えない。全てにつながりがあると疑うべきだ。
疑いの目をもってが伝説を紐解くと、驚くべき事実が発覚した。
アーティファクト『命脈を奪う者』はどうやらかつて魔王軍が開発した物のようなのだ。しかし魔物にとって危険な技術が使われており、禁忌として封じたらしい。
そうするとリーガインの意図も推測できた。
魔物の群れがソーフィスカート伯爵領の近くから攻め込む。『命脈を奪う者』が魔物にとって禁忌と知る伯爵は、危険とわかっていても迎撃せずにはいられない。
つまり、リーガインはあえて砲撃させるために魔物の軍勢を連れてきたのだ。あの進撃は王国を滅ぼすためではなく、『命脈を奪う者』の所在を知るためだったのだ。
『命脈を奪う者』は暴走によって壊れたという話だったが、おそらく方便だ。砲撃によってその所在を知ったリーガインが、禁忌のアーティファクトを残さないために破壊したに違いない。
自分の秘蔵していたアーティファクトによって魔物が攻めてきた――そんなことが発覚すれば、伯爵は重い罰を科せられるだろう。なんとしても隠さなくてはならないはずだ。
『命脈を奪う者』は破壊された。その存在を知る者は限られていただろうし、情報漏洩の対策は十分にしていたことだろう。
しかし、例外があった。伯爵子息アインファート・ソーフィスカートだ。彼は『命脈を奪う者』に深く関わっていながら、記憶を失い幼児化してしまった。
幼児化してしまっては口裏を合わせることもできない。対応に迷ううちに、マティナリア・パーレンテンジアの嘆願によってアインファートは復学してしまった。
あまり強引な手で息子を引き戻せば不審を招く。マティナリアの実家、パーレンテンジア子爵家も決して無視できる存在ではない。
そこで婚約破棄を仕掛けた。
学園の夜会で目立つ婚約破棄をすることで、あえて周囲の注目を集める。あんなバカなことをしでかせば、周囲は伯爵の愚かさに呆れ果て、追求の手も弱まることだろう。
記憶が戻ったアインファートが伯爵に従うとは限らない。あるいは世間に脅威を知らせるかもしれない。伯爵は場合によっては自分の息子を幽閉することすら考えていたのだろう。
婚約破棄の騒動の終わった夜会の会場。
クリサリシア王女は頭の中でこれまでのことをまとめていた。
一年前の魔物の侵攻を探るうちに伯爵の有していたアーティファクトにたどり着いた。
伯爵の動きを探るうち、彼が夜会に出るとの情報をつかんだ。メイドとしてもぐりこんだら、まさかの婚約破棄である。予想外ではあったが、どうにかいい結果に導くことができた。
今回は上手く収まった。だが全てが終わったわけではない。
伯爵はいつ記憶が戻るとも知れない息子をこのまま放置しないだろう。これからも何らかの動きがあるはずだ。
強制的な捜査をしたいところだが、アーティファクト『命脈を奪う者』に関する情報は推論ばかりで確証がない。王女と言えど、現段階では伯爵相手に強引な手は使えない。
アインファートの記憶が戻れば事態は大きく動くことになるだろう。アインファートは伯爵に従うだろうか。それとも対立するのだろうか。
記憶が戻った時のアインファートの精神状態も心配だ。幼児化していたころの自分を顧みて、果たして彼は平静を保てるのだろうか。
元魔王軍幹部リーガインの動きも気になる。『命脈を奪う者』の破壊後、またしても行方をくらました。また何か仕掛けてくるかもしれない。
マティナリアとアインファートには、これからいくつもの困難が待ち構えている。
クリサリシア王女は心配になり、二人の方を見た。
「マティおねーちゃんだーいすき!」
「私もアインファート様のことが大好きです……」
互いの気持ちを伝えあう二人は、愛し合う婚約者と言うより仲睦まじい母と子と言った感じだった。
まわりも生徒たちの温かな目で見守っているから余計にそう思えてしまう。
「この二人なら、どんな困難が待っていても大丈夫な気がしますね……」
クリサリシア王女は半ば呆れたようにつぶやいた。でもなぜだか、本当にそうなるような気がした。
いや、大丈夫にするのだ。あんなにも温かな絆を結ぶ二人を守れなくては、王国を守ることなどできはしない。
だからクリサリシア王女は、心の中でひそやかに、この二人を守ると誓うのだった。
彼女の異名は『変幻自在に咲き誇る花』。花は、愛しあう者たちを祝福するために美しく咲くのだ。
終わり
「子息に代わって父親が婚約破棄を宣言する話を書こう」
そんなことを思いつきました。
最初はすごく気の弱い子息に代わって父親が出てくる話を考えていましたが、いまいち筆が進みませんでした。
そこで子息が幼児化したという設定にしたら自分の中でなんだかしっくりきて書き上げることができました。
ちょっとした要素ひとつで上手く書けたり書けなかったりします。それがお話づくりの難しいところで、面白いところだと改めて思いました。
小説家になろうがリニューアルされてから初めての投稿です。
大丈夫でしょうか。何かおかしかったら後で直します。
2024/7/7 誤字指摘ありがとうございました! 修正しました!