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これの輓近の夜のことである。月夜が簾の合間から妙美な輝きを放ち燭卓の明かりが混じりあい顔に焦熱を届ける。清少納言を含めた女房等は眠さに純粋に従い何の見境もなく局の床に着いていた。寝殿の母屋とは壺庭を隔てて東の対の西の廂の間から北の廂の間までに局住みしていた。殊、清少納言においては西の局に起臥していた。部屋の中の蠅類は火に引き付けられて幾度かの衰残の後無残に地に落ちて行った。経常なのはそこで眠を貪る女たちだけである。月明かり以外何も照らすことのない暗がりを生昌は行きつ戻りつ当てのない徘徊を続けていた。回廊には壺庭から聞こえる夏虫の囁きが生昌の心を静かに慰めていた。手綺麗で利発な清少納言と愚鈍な自分とのこの間のやり取りを思い返していた。宵っ張りの性質も今日ばかりはどうしようもなく惨めにさせ、生昌の頬からは知らずに涙が毀れ落ちた。舞台の溶暗のように切れ切れになった明かりはしかし、しっかりと涙を照らしそれはまるで水石のように反射し輝いた。ふと気づくと生昌の思考は軽輩な自分が慧敏な清少納言の気をどうやって揉むかということに帰結するようになっていた。深い溜息が周囲の静寂に波紋を作って響いた。層一層、涙の滴る音さえも容易に虫の声に重なって調和する。足を擦る衣擦れの音も加えて彼の足は無意識に西の局に向かっていた。
総桐の板障子の滑るにつれて乙夜の月は輝きをまし細く長く局の闇を反転させる。生昌が戸を引いたのである。一臂の力で簡単に戸は開いた。生昌は部屋に懸け金がないことを知っていた。知ってはいたが、心は確かに純粋なものだった。それを証明するものを持ち合わせていないのが彼の最大の薄倖である。閨中の清少納言はその様子を薄目で見ていて、生昌の行動を解した。しかしそれは曲解であった。生昌はもし、彼女がまだ起きているのなら少しでも話がしたいと思っていたのである。簾を隔て、渓声のように澄んだ声を聴きながらお互い睡魔に身を委ねたくなるまで今までのことを溯源、語らいたかったのである。しかし、清少納言はこう思った。鍵がかかっているかどうかを尋ねることもしないで戸を開けたということは鍵がかかっていないことを最初から知っていて夜這いにきたのだ、と。それ故、清少納言には彼の尋ねる低い声が『あやしく嗄ればみ、さわぎたる声』に聞こえた。潰れたいやらしく醜い声だというのだ。生昌は清少納言にこう言った。
「さぶらはむはいかに。……さぶらはむはいかに」
うかがってもよろしいですか。……うかがってもよろしいでしょうか。
清少納言はその声を聞いていながら生昌の声が徐々に小さくなるのを愉快に思い返事をしなかった。滴々と呟かれるような細い声は何回目かの呼びかけの後遂に途絶えてしまった。蝋の代わりに用いていた零墨がちりちりと鳴き式微の灰を吹いて揺曳と火が躍った。生昌の顔が火に照らされて浮き上がるのを浮遊する影の中から見つけて、無性に寂寞とした律に支配された。燭台の位置は彼女の計略によって見事敵背を取っていた。北の板戸に掛け金のないことを寝る前に承知していた彼女は人が来て戸を開いてもすぐにははしたない寝姿が見えないように隔ての几帳と板戸の合間に常夜灯を置くことで対応していた。この創案は自分たちの姿は隠し相手の姿は影すらつけないほど見事に照らすという特性があり、加えて間接照明として安眠にも活躍していた。ここまで生昌を遠ざけたことが少なからず彼女の同情心を誘起した。しかし、それも生昌の顔がはっきりと目前に現れるとすうっと引いて他の考えの方が強く作用した。『さらに、かやうのすきずきしきわざゆめにせぬものを、〈わが家におはしましたり〉とて、むげに心にまかするなめり』と思ったのだ。
生昌という男は普段羽目を外して色めき立つようなことはないのに、〈中宮様が自分の家においでなさった〉と調子に乗ってあんまり大胆に振る舞うのだろう。
清少納言は内心滑稽な端物だと馬鹿にした。そうして傍に寝ている女房等を揺り起こし
「かれ見たまえ。かかる見えぬ者のあめるは」
と告げ口した。
ほら、見てみなさい。あんな場違いな人がここに来ているみたいです。
生昌はそれを聞いてはっとした。が、もう遅かった。冷や汗が富士額に流れ落ち翠黛にかかる。もちろんこの局に清少納言の他に人がいることを知らなかった。またしても秘蔵に育んできた感情が瓦解しどうしても径行する気になれなかった。こういうところで必ず後手にまわるのが彼の悪癖の一である。逐電する勇気のない彼に残された手段はもう言い訳で逃れるしかないというのは、相手が頗る悪かった。泣きたくなる感情を必死に抑えつけて、何故こんなことになったのか、一人反省し始めた。確かに、自分の行動は誤解を招くようなものだったかもしれない。しかし、自分は清少納言の酔生夢死、万古俘囚になっただけで、この径庭ある相手と冷罵しあうためにここに来たわけではないことはもっと確実なことだった。生昌は手暗がりで震えを揉みこんだ。しかし、吐息の中に振動と僅かな音が混じった。その哀れな声を聞いていた女房等はそこに誰がいるのかを了解してわざと言った。
「あれは誰ぞ。顕証に」
そこにいるのは誰ですか。図々しくいやらしいことですね。
生昌は臥所の妙齢夫人等を起こしてしまったことを深く後悔しながら、もうどうにもならないことを悟って伏沈んだ。同時に交感神経の発作で頭の機能がほとんど停止し試金石を耐えようとは誰の目にも見えなかった。酷く早口な震える声で言った。
「あらず。家の主と、定め申すべきことのはべるなり」
変な意図はございません。家の主人として申し上げたいことがございました。
全く心外だという風に口上を挙げたが、私はまだ他の女房等がいるということには気づいていませんよ、ということを強調した。それが清少納言には了していて嗜虐心を煽った。
「門のことをこそきこえつれ、『障子あけたまへ』とやはきこえつる」
門のことに関する言い訳は聞きましたのに、障子を開けてくださいと一言いったりはしないのですね。
言って双眼を炯々と光らせた。女であるはずの清少納言の目は捕食者のそれと紛いなかった。敵失を見逃すほど甘くはなかったのだ。自然生昌は言葉に詰まった。敷妙の褥の中から半身だけ起き上がらせた姿が生昌の目にぼんやりと映る。麗々しくはない乱れ髪が地を微かに這いずる外気に靡くとその慧眼と相まって妖艶な反魂香の中の傾国が見えた気がした。生昌は息を呑んだ。自分の無思慮な夷狄への忸怩たる思いに駆られて無意識に叩首した。
「なほ、そのことも申さむ。そこにさぶらはむはいかに。……そこにさぶらはむはいかに」
そのことも話そうと思っておりました。そこに入ってもよろしいでしょうか。……よろしいでしょうか。
生昌は他の女房等がいることを一瞬間失念してそう言ってしまった。気づき自分の言葉の意味を呑み込んだときにはもう局の女房等が笑い騒ぎだしていた。
「いと見ぐるしきこと」
こんなに恥ずかしい恰好をしていますのに。
「さらにえおはせじ」
こんな恰好でこの中に入ってきてしまわれては困ります。
女房等の笑声は今度は今までよりも大きかった。生昌の耳にもはっきりと届いた。生昌は今気づいたみたいに驚愕した演技を見せた。
「若き人おはしけり」
若い方がいらっしゃったんですね。
清少納言は一転それを見て索然と溜息をついた。生昌の真面目から来る敵塁での手管の下手さは常時においてはただ愛すべき種の弱点であるのに清少納言にとっては習作時代の自分の瘢痕を触られる不快感があった。生昌は焦眉の急でもあるかのように戸を引き身を退かせた。一斉周りの女房等から笑い声が湧いた。清少納言は周り合わせて少しだけ口角を上げただけで女房等のように勝鬨を上げたりはしなかった。それでも何がそんな面白いのか女房等は打ち騒ぎ、幾度も生昌を小馬鹿にした。
「『あけむ』とならば、ただ入りねかし。消息をいはむに、『よかなり』とは、たれかいはむ」
『あけよう』とするならばいきなり入ってしまえばいいのに。『入れてください』という人に誰が『入れ』と言うものか。そう言って笑い転げている。清少納言にはどちらが滑稽か判らなくなっていた。
女房等の話声は不日宮の中に万斛の蛙の鳴き声のように成り響いた。千種の音色は霧雲の夜空に吸い込まれていった。雨の匂いが近くまで立ち込めていた。