カケヒキ、みたいなもの
後ろも見ずに秘密の温室から逃げ出した次の日。
土曜日の朝。
雲一つない快晴。
普段ならカゴに山と溜まった洗濯物を洗濯機に放り込んでベッドに戻って二度寝を貪っているような、気持ちの良い朝----。
なのに、何故か私はまた小松原さんの車の助手席に座っていた。
逃げたのに。
もう二度と口をきいてくれないと思っていたのに。
(……な、なんでこうなったんだっけ……?)
車内はエアコンが適度に効いていて快適だ。
だけど、私は変な汗をかいたまま助手席で固まっている。
(えーと、確か……)
あの日、私は昼休みが終わる寸前に事務所に戻って息を整えていた。
頭の中は真っ白で、それにしてはやけに冷静に「終わった」とか考えながら窓の外を見ていたのだ。
ややしばらくして帰って来た小松原さんは分厚いファイルを抱えていて、いつもと同じ表情だった。
いつもと同じように私の顔を見る事もなく、真っ直ぐに自分の席に戻る。
(……いつもの小松原さんだ)
あれは何だったのか。
幻だったのか。
もしかして、また冷蔵庫の前で風邪をひいて寝込んで見ている夢なのかもしれない。
(そっか、夢か……良かった……)
給湯室に行く時にそっと様子を窺ったけれど、小松原さんは開いたファイルに目を落としながら電卓を叩いていた。
(あれ、夢にしては全然覚めないんですけど……?)
メンソールの香りと、柔らかな唇の感覚は、リップクリームのようにうっすらと私の唇に残っている。
夢にしてはリアルな痕跡にそっと触れても、目が覚める気配はなくて----。
(……夢じゃなかったんだ……私、大変な事しちゃったんだ……)
反省と後悔と、嬉しさがごちゃ混ぜになった気分で、私は自分の大胆さに驚く。
イケナイコトをしたのは、私も同じだ。
だから、いわば私と小松原さんは共犯者のようなものなのだ----多分。
(でも、やっぱり怒ってる……よね……?)
ぼーっとした頭のまま午後の仕事を終える頃、社内メールの着信アイコンが点滅した。
小松原さんからだった。
「わ!?」
思わず声を出してしまった口を手で押さえ、恐る恐るメールを開く。
本当は気付かなかった振りをしてすぐに帰ろうかなんて一瞬思ったけど、さすがにそんな度胸があったら、あんな逃げ方はしなかった訳で----。
恐る恐る開いたメールは簡潔だった。
『明日、行きたいお店があるんだけど時間はありますか?』
明日は、土曜日だ。
特に予定はない。
ないけど----。
(えッ、え……ええええ……!?)
突然のフラグ。
もしやこれって、選択を間違えると大変な事になるアレ?
(いやいやいやいやいや今日の今日でこんなメールする……?)
全然分かんない。
温室でのアレはなかったって事?
いや、そんな訳ないし。
アレがあったからこんなメールをくれた----んだよね?
(あー! もう全然分かんない!)
小松原さん、私の事怒ってるんじゃないの?
いや、それどころかいきなり告白されて困ってるんじゃなくて?
超事務的、っていうか顔文字もないし。
(いや、どっちにしたって会える訳ないじゃん……今日の明日で何話せばいいか分かんないのに……)
でも、そもそもこれ、私に選択肢あるの?
相手は経理課長だ。
返事は、一つしかないよね?
ぐるぐる目のままメール画面を見詰め続けた後、私は小松原さんにバカ正直に返信した。
『特に予定はないので大丈夫です』
すぐに返事が来る。
『ありがとう。それでは明日朝十時に、アパートの前まで迎えに行きます』
----ってな具合で、私は小松原さんと初めてプライベートで会う事になったのだ。
(あああああああ、何やってんだ私……!)
九時五十五分に部屋を出て階段を駆け降りたら、もう小松原さんの車が停まっていた。
「す、すみません!遅くなりました!」
「あら、私が勝手に早く来てるだけだからいいのよ」
私は白のカットソーに水色のタータンチェックのロングスカート、それにターコイズブルーのローヒールという格好。
小松原さんは黒のブラウスに細身のジーンズ、それとモカシンの靴だった。
会社で見るより若く見える。
(あ、いつもみたいな猫背じゃないからか)
知らない人が見たら、普通にプライベートで遊びに行く先輩後輩くらいには見えるんだろうか?
嬉しいような苦しいような気持ちを笑顔で誤魔化して、私は言われるままに助手席に乗った。
「ごめんね、急に付き合わせちゃって」
「いえ、どうせいつも家でごろごろしてるだけですから」
晴れた土曜日とあって、道はそれなりに混んでいた。
沈黙が耐えられないので、とにかく私から話しかけまくる事にする。
えらいぞ私。
「それで、今日はどこへ行くんですか?」
あのメールでのやり取りが最後だったので、全く予定が分からない。
「そうね、まずはランチにしたいんだけどいいかしら?」
「あ、はい」
食べられない食材はないかとか、アレルギーは大丈夫かとか、小松原さんらしい几帳面な質問に答えたりしているうちに車は渋滞を抜け、中心部から離れて走っていく。
(ランチって……この感じだと隠れ家的レストランとかそんなとこなのかな?)
すれ違う車がだんだん減って来る。
視界に緑が増えて来る。
開けた窓から入る風が気持ち良くて、私は目を細めた。
「なんか、こういうの久し振りです」
「私もよ……お天気で良かったわ」
小松原さんは昔は結構こうしてランチを兼ねたドライブをしていたそうだ。
イタリアンも和食もフレンチも、一通り好きらしい。
「普段のお昼がカロリーメイトとかそんなのばかりだから、その反動なのかしらね」
「いつもあそこで……食べてるんですか」
結局、昨日に関係する話くらいしか話題がない事に気付いて、私は思い切って聞いてみた。
温室、とはなんだか言いにくくて思わず言葉を濁すのが、ザ・小心者っぽい。
「そうね、あそこなら誰も来ないからゆっくり考え事ができるし、鉢植えの世話をしてると頭が空っぽにできていいのよ」
「そうなんですか……」
私はそんな小松原さんの秘密の庭園に土足で踏み込んでしまったのだ。
そのうえ絶対に知られちゃいけない秘密まで見てしまった。
「……煙草、好きなんですか?」
踏み込んだついでに開き直って聞いてみる。
だって、どうしても私がイメージしている小松原さんとは結び付かなかったから。
「うーん、昔は吸わなかったんだけど、ちょっと覚えてからは吸ってたわね……最近は、たまに考え事したい時にあそこで吸うくらいだけど」
その言い方にちょっと引っ掛かったけど、今は聞けなかった。
(……誰か、付き合ってた人が吸ってたとかなのかな?)
「……いつもコロンのいい香りしてるから、全然気付かなかったです」
「それはそうよ、煙草の匂いに気付かれたら大変だもの」
ハンドルを握りながら小松原さんは、そう言ってふふっと笑う。
それでも前はしっかり見ている。
(小松原さんってプライベートでも真面目だな……って、これはプライベートなんだっけ?)
奇妙な空気のドライブはそれからもう少し続き、やがて車は一軒の小さな山小屋風レストランの前に停まった。




