トマドイ
よく「頭の中が真っ白になる」なんて聞くけど、自分の人生でそれを味わうとは思ってはいなかった訳で----私は口をあんぐりと開けたまま、ほんのりと温かいタイルの上に後ろ手をついていた。
「え、ちょっと!? 藤宮さんッ!?」
漫画みたいに盛大に腰を抜かしてしまった私を、小松原さんは慌てた様子で抱え起こそうとする。
ついさっきまでの秘密めいた雰囲気はもう消えていて、いつもの小松原さんに戻っていた。
少しだけ、勿体ないなと私は思う。
「立てる? 大丈夫? あんまり可愛いからつい……ホントにごめんなさいね」
「……大丈夫……だと思います……」
小松原さんは床に膝をついて、真剣な顔で私の顔を覗き込んできた。
なんだか少し蒼褪めているようにも見える。
「ホントに? 怪我とかしなかった?」
「全然! 大丈夫ですよ、ちょっとその……びっくりしただけですから」
なんとか笑みを作って見せると、小松原さんは、ほっと息を吐いた。
勝手に入り込んで勝手に驚いて腰を抜かした私なんかを、本気で心配してくれてるんだ。
そう思った途端----。
「……ひどいですよ」
気が付いたら、涙が勝手にぽろぽろと頬を転がり落ちていた。
まるでもう一人の私が身体を乗っ取ったみたいに。
(……待ってよ! こんな状況で泣いたら絶対変な子じゃないの……!)
なのに、涙は止まらない。
絶対に言っちゃいけない言葉が釣られるようにして唇から零れ落ちる。
「小松原さん、私の気も知らないで……」
「え? ど、どうしたの急に……?」
起き上がろうともしないでいきなり泣きだした私に、経理課長はおたおたしている。
「わ、分かんないですけど……ッ、でも、なんだろ……なんか胸が苦しくて……」
結局、私も小松原さんもドアの前でしゃがみ込んだまま顔を突き合わせる格好になっていた。
「今のは本当に悪かったわ……だからもう忘れて早くメイクを直した方がいいわよ」
スーツのポケットからアイロンのかかったハンカチを出して、小松原さんは私の頬の涙を優しく拭ってくれる。
私、そんなにひどい顔になってるんだろうか。
でも、もうそういうのはどうでもよかった。
「今のキスの事は全然いいんです」
「……そ、そうなの?」
てっきり自分のキスが原因だと思っていたらしい。
確かにそうなんだけれども。
私はまだ流れている涙を拳でグッと拭いて、小松原さんを見据えた。
「そんな事より、どうして新しい伝票システムなんか導入しちゃったんですか!?」
「……で、伝票システム……?」
小松原さんはポカンとした顔になった。
入社して以来小松原さんのこんな顔を見るのは初めてだ。
「え、あの伝票システム……ダメだった……?」
「ダメですよ! ダメなんですッ! 少なくとも私にとってはあんなの絶対ダメなんですよ!」
小松原さんの目が、点になった。
「ごめん……意味が良く分からないんだけど……」
「だから! あそこの断裁機で納品書が切れなきゃダメなんです……ッ! それなのに新システムなんか導入しちゃったら、っ……くッ……!」
また涙が零れてしまって、言葉が上手く続かない。
もう自分でも何を言ってるのかよく分かんなくなっていた。
(もういいや……どうにでもなれ……ッ!)
駄々を捏ねる三歳児みたいだなと頭のどこかでは思いながらも、いやいやをするようにして小松原さんに抗議する。
「あそこからしかじゃないとちゃんと見えないんですよッ! 小松原さんの顔が……!」
「私の、顔……?」
小松原さんが目をパチパチとさせる。
そう。
この綺麗で、ちょっと近寄りがたくて、でも笑うと凄く優しい顔。
そして今、目を見開いて私を見ている、大好きな顔----。
「それなのに、どうして……ひっ、く……私のささやかな楽しみを奪うような事しちゃうんですか……ッ!?」
せっかくハンカチで拭いてくれた頬は、また涙でドロドロに戻ってしまった。
今までなら絶対彼氏にも見せなかったようなぐちゃぐちゃな顔で、私は泣いていた。
「ばかッ! 小松原さんのばか……ッ!!」
今まで抑えていた物が一気に溢れ出して来て、私は小松原さんの両肩をぽかぽかと叩く。
正気のOLなら絶対にしない暴挙である。
でも、経理課長の小松原さんは怒らなかった。
「来週から、もう……私、小松原さんの顔見れなくなっちゃうんです……営業さんに怒ってる顔も、伝票打ってる時の顔も、ちょっと考え事してる時の顔も……」
「……藤宮さん……」
少し落ち着いてしゃくり上げるのをやめた私の顔を、小松原さんはもう一度ハンカチで拭いてくれた。
頬に張り付いた後れ毛もそっと指先で整えてくれる。
「あれはね、私が提案したのよ……毎日藤宮さんしか伝票切りしてないでしょ? 非効率だなって前から思ってはいたのよ」
「……すみません」
やだ、本当に私、この人の前だと子供みたいになっちゃうんだ----。
この人が、大好きで。
経理課長の小松原さんだから大好きで。
真面目な時でも、イケナイコトしてても、小松原さんだから。
そういうのを全部ひっくるめて、この人は、もう、私の世界の全てになってる。
それが、誰かを好きになるって事なんだ----。
しばらくの間、小松原さんは黙って私の腕をさすっていてくれた。
「……ごめんなさい、小松原さんがせっかくこの会社の事考えてやってくれたのに、なんか変な事言っちゃって……」
「さっきの? 別に気にしてないから大丈夫よ」
小松原さんは立ち上がり、腕時計を見る。
ほっそりした手首によく合うピンクゴールドのきれいなチェーンだった。
「それに、私のためでもあったんだし」
「え?」
思わぬ言葉につい聞き返してしまったが、それには小松原さんは答えてくれなかった。
「さ、貴女はもう更衣室に行って急いでメイクを直しなさい。もうそろそろみんな席に戻ってるでしょうから……私はもう一服してから資料室に寄るわ」
今までの空気が嘘みたいに、テキパキと指示する。
立ち上がった私は深々と頭を下げた。
「あと、すみません……ここに勝手に入ってしまって」
「あら、そういう話だと、ビル内禁煙にしておいて隠れて煙草を吸っていた私も、職権乱用だからまずいわね」
小松原さんは悪戯っぽく微笑む。
「それと、相手の同意なくキスなんかしちゃったからセクハラも追加ね……このご時世、バレたら一発で懲戒モノだから私の方が罪が重いわよ」
「……同意は、その、してるから……大丈夫です……」
少しの間があった。
「嫌じゃなかったの?」
「いえ……確かにびっくりはしましたけど、嬉しかったです」
そう言って、私は小松原さんに抱き付いた。
恐る恐るだけど、ギュッと力を込めて。
「……だって、ずっと好きでしたから」
それだけ言って、私は温室から飛び出した。
サンダルが脱げそうなくらいの勢いで階段を駆け下り、誰もいない更衣室まで走った。
「……言っちゃった」
一生分の勇気を使い果たしたような気分だった。
鏡の中の私は、泣き笑いの表情を浮かべたまま、涙の痕を光らせている。
気持ちを伝えられたという喜びと、とうとう言ってしまったという後悔が胸の中でぐちゃぐちゃに絡まり合ったせいで、メイク直しはなかなか上手くいかず、結局、事務所に飛び込んだのと始業のチャイムが鳴ったのは同時だった。
小松原さんは、まだ席に戻っていなかった----。




