イケナイコト
「えッ、ええッ!?」
今度こそは昼休みに小松原さんがどこにいるのか探そうと決めた、その次の日の朝。
出勤早々、私は自分でもびっくりするくらいの悲鳴を上げていた。
「じゃあ、もう納品書を切る必要なくなるんですか……ッ!?」
私は悲鳴のつもりだったんだけど、課長には喜びの声に聞こえたらしい。
ニコニコしながら「いやぁ、毎日面倒だったもんねぇ」と私の嬉しさを分かち合おうとしてくれている。
「前から改善要求はしてたんだけどね、今回発注システムを変えるタイミングで新方式のプリンターを導入する事が決まったんだよ」
いやいやいやいや、全然嬉しくないですから!
っていうより、むしろこんなの絶望しかないじゃん。
「も、もう……決まったんですよね……?」
「ああ、来月からスタートだよ。ボロっちい断裁機ともやっとお別れだ」
いかにもいい事をしたという晴れやかな顔の課長とは対照的に、私のテンションは確実に下がっていた。
「来月から……ですか……」
あと何回この断裁機の前に立てるのか、私は胸の中で素早く指を折る。
「私、結構好きだったんですけど、これ……」
「まあ、使ってたの君くらいだったからね」
そうだ、ここは私だけの秘密の場所だったんだ。
断裁機のあるこの場所からじゃないと、小松原さんの顔がちゃんと見えない。
(誰よ、新しいプリンターを導入とか余計な事してくれたのは!?)
これじゃ、もう私の小松原さんタイムがなくなっちゃうじゃないの----!
「プリンターの入れ替えは週末やるから、それまであとちょっとこれで頑張ってくれるかい?」
「……分かりました」
(もうッ! 余計な事してくれたヤツは絶対許さないんだから! 誰だか分かんないけど、これから毎日必ず足の小指をどこかにぶつけますように……ッ!)
ボールペンを握り締めて、神妙な顔で頷きながら心の中で呪いの言葉を唱える。
他人の恋路を邪魔する奴はそのくらいのバチが当たって欲しい。
「いやぁ、でもあの小松原さんがOKしてくれるとは正直思わなかったよ」
「……え?」
思わぬところで小松原さんの名前を聞いて、私はキョトンとする。
「絶対無駄だって言われるかと思ったんだけどさ、一般職の仕事の省力化って事で説得したら、割とすんなりOKしてくれたんだよね」
ええええ、断裁機の廃止は小松原さんがOKしたんだ----。
じゃあごめんなさい! 今の呪いは取り消しで!
(そっか……まぁ、あの無駄遣いを許さない小松原さんがOKしたって事は、ちゃんと私達の事を考えて決めてくれたって事だから……本当は嬉しいって思わなくちゃいけないんだよね……うん……)
そりゃそうだ。
毎日納品書を切りながらこっそり小松原さんを見るのが、私の密かな楽しみになってるなんて知っている訳ないし。
ってか、そんなの知られたら、もう会社に来れないし。
(……だけど、こんなんでいいの?)
こうしている間にも、時間だけが過ぎて行くんだな。
(……なんか、このままじゃホントに私、臆病なまま終わっちゃう……)
『お姉ちゃん! これが最後のチャンスかもよ!』
美夏なら、こういう時は絶対にそう言うだろうな。
私も、今なら同感だ。
(やっぱり……今日のお昼は小松原さんを探そう!)
私は決意する。
(探して……それからどうするかは分かんないけど、でも何か私から話しかけるんだ……)
そしてやっぱり、小松原さんはお昼休みになって少し経つと、ふっといなくなっていた----。
お昼休み。
私は本社に提出する資料の下調べをするという口実を作り、自分の席で今朝作って来た小さいお握りを頬張る。
好きだし簡単だからと、中身はおかかにしたけれど、今日は味が全然分からない。
そして、こういう時に限って周りはなかなか席を立たなかったり。
(もう、皆お昼だよ……! 早く行ってよ! サラメシ観てから連続テレビ小説観るんでしょ!?)
心の中で叫びながら、味のしないお握りを齧る。
「お昼行かないの?」
「あ、今日はちょっとやる事があるんで……」
などとやり取りをしながら、適当にパソコンのファイルを開く。
あまり不自然にならないように、だけどなるべく急いでお握りをペットボトルのお茶で流し込み、同僚達が食堂やら外回りだのに向かったのを確かめる。
(よ、よし……行くぞ……!)
とうとう行動開始だ。
なんでこんなに緊張してるんだろうというくらいに、心臓がバクバクしている。
私、探偵とかの職業は絶対無理そうだな。
席を立ち、まずは一階へ。
駐車場の方を見ると、小松原さんの車がちょこんと停まっていた。
(やっぱり社内かぁ……)
ここは駅前から少し離れた工業団地内にポツンとある会社なので、車通勤がほとんどだ。
コンビニに行くにも食べに行くのも車を使う。
小松原さんも例外じゃなくて、銀行へ行くとか何か用事で会社を出る時は自分の車を使っている。
だから、車があるという事は、小松原さんはこのビルのどこかにいるのだ----必ず。
(一階は守衛室と倉庫と元喫煙室だけだから、事務所と食堂にいなければ……あとは会議室のフロアとか……?)
「珍しいね? 出かけるの?」
守衛のおじさんがカップラーメンを啜りながらニコニコ声をかけて来たので、「あ、いやちょっと……」と言葉を濁しながら急いでエレベーターに乗り、三階のボタンを押す。
三階の幾つかある会議室はどれも空だった。
奥のトイレも覗いてみたけど誰もいない。
窓から入る日差しは明るいのに、なんだか、不意に心細くなる。
(私、何やってんだろ……? もし会えたとして、何て言えばいいのか分かんないのに……)
それでも昨日の美夏の言葉に背中を押されるようにして、私は小走りで小松原さんの姿を探す。
四階は資料庫に女子更衣室。
更衣室ではいつも決まったメンバーが床に輪になってお喋りをしているから、そこにいないのは分かっている。
(あとは五階だけど……あそこって機械室と……その他には……)
滅多に人の来ない機械室の横には古びた狭い階段があって、その先には小さな温室があるらしい。
なんでも、先代だか先々代のエライさんが植物コレクションを置くために作らせたとかで、今は立ち入り禁止になっている。
「……まさかね……?」
錆びかけのチェーンがかかった階段の入口で引き返そうとしたとき、ふとヒールのコツンという音が聞こえた気がした。
「……え?」
気のせいなんかじゃない。
階段の上でドアが静かに閉まる音が確かに聞こえた。
(小松原さんだ!)
ほんの微かにだけど、小松原さんのコロンの香りが残ってる。
私はゴクリと唾を飲み込んだ。
ビルの管理もしている立場なんだから、鍵を持っている小松原さんが温室に行くのは別におかしい事じゃない。
(もしかして……毎日ここでお昼食べてるのかな……?)
今ならまだ引き返せる。
私みたいな一般職が勝手に入ったら、きっと怒られる。
小松原さんは真面目なのだから----。
それでも、私はチェーンをそっと外して階段を上り始めた。
一段。
また一段。
足音を立てないように、忍び足で、長く急な階段を上る。
いつの間にかびっしょり汗を掻いていた。
(……着いちゃった)
無人のはずの温室のアルミのドア。
その向こうに、確かに誰かの気配がする。
「……ふぅ」
ドアノブに手をかけたまま、私は深呼吸した。
鍵は、かかってなかった。
----カチャリ。
アパートの部屋位くらいのこじんまりとした温室は、想像していたのと違って、大きな鉢植えの木がびっしりと並んでいた。
「……すごい……」
むせ返りそうなくらいの甘い匂いのする白い花に、ピンクの花を付けた私の背丈くらいのサボテン。
どれもしっかり手入れされているのが私でも分かる。
(これ、もしかして全部小松原さんが……?)
どの木も青々と茂って、とても古ぼけたビルの屋上にあるとは思えない空間を作り出している。
まるで小さな熱帯植物園だ。
(なんか、フラミンゴとか出て来そう……)
だけど、そこにいたのは予想通り小松原さんだった。
小松原さんは、一番奥に立って開け放した窓から外を見ていた。
天井のガラス窓から入る日差しが木漏れ日となって、スーツ姿の後姿を柔らかな斑に染めている。
(やっぱり、ここだったんだ……)
驚きよりも安堵が先に来て、私は入口で立ち止まったまま息を殺していた。
小松原さんの姿は、光と影の中で絵画の人物みたいに綺麗だった。
ずっと見ていたい、そう思った時、小松原さんが振り返った。
その手には、火を着けたばかりの煙草がある。
「……藤宮さん?」
私を見て、驚いた顔になった。
「あ、わ……失礼しましたッ!」
私はもっと驚いていた。
私はきっと夢を見ているに違いない。
小松原さんは真面目なのだ。
おじさん達の反対を押し切って喫煙所を廃止したくらいに真面目なのだ。
だから、立ち入り禁止のこんな場所で隠れて煙草なんか吸うはずがない。
職権乱用もいいとこだ。
そう、真面目な小松原さんが、こんなイケナイコトをするはずが----。
「……いけない所見られちゃったわね」
小首を傾げるようにしてそう言うと、窓辺の灰皿に煙草を押し付けて消す。
そして、仕事中と同じニコリともしない顔でこちらに向かって歩いて来た。
私は蛇に睨まれた蛙みたいに身体が動かなくて。
「ま、鍵をかけてなかった私が悪いんだけど」
「ごめんなさい! すぐ出ます!」
そう言ってなんとか後退った途端、私の背中はドアに当たった。
そのドアの鍵を、小松原さんは当然のように閉める。
「へ?」
今度は私が目を丸くする番だった。
「あら、出なくてもいいのよ」
「や、でも……あの、お休みのお邪魔をしちゃいけないので……」
必死でそう言う私に覆いかぶさるようにして、小松原さんはドアに左手を突く。
私の鼻先で小松原さんの栗色の髪が揺れる。
(あ、小松原さんって、ピアスしてるんだ……)
小さなダイヤが薄い耳朶で控えめに光っている。
シャンプーの残り香も初めて嗅いだような上品な香りで----。
(ダメ、もう立ってらんない……)
こんなに近いのは、もちろん初めてだ。
もう、心臓は破裂しそうだった。
(美夏ちゃん……やっぱりお姉ちゃん、恋愛偏差値低すぎみたい……)
「経理課長のクセに、隠れて煙草なんか吸って……って思ったでしょ?」
「そ……それは……その、ええと、経理課長でもそういう気分になる時だってある……と、思います……」
しどろもどろな私の答えに、小松原さんはフッと微笑んだ。
「ありがと」
何て返そうかと考える暇もなく、私は顎を指先で押し上げられた。
「藤宮さんって、ホントに可愛いわね」
「は? え?」
コロンの香りが強くなって----。
「……ッ!?」
何が起きたのか理解するよりも前に、小松原さんの唇が私の口を塞いでいた。
(え、うそ……なにこれ……? どういう事……?)
まだほんのちょっとメンソール系の煙草の匂いが残るその唇は柔らかくて、私は目を見開いたまま、ずるずると床に座り込んでしまっていたのだった----。




