ニガテなもの
松原さんの席はフロアの一番奥まった場所にあるので、普段は断裁機の所にまで行かないと小松原さんの声ははっきりとは聞こえない。
だけど、今日はいつもと違った。
「すみません、岩城さんが急用でお休みなので頼めないんです」
一仕事片付いたのでスマホを見に更衣室へ行って、ついでにトイレに寄ってから呑気に戻って来たら、何故か小松原さんが私の所属する営業島の一角に立っていた。
(わ、わわ……なんで小松原さんが営業島に来てるの!?)
声に出せない驚きの叫びを上げている私に気付いているのかいないのか、小松原さんはいつもより、ほんの少しだけ表情が暗い----というか、困った顔で辺りを見回していた。
「誰か、他に筆耕ができる方はいないですか?」
だけど、営業も、女の子達も、顔を見合わせているだけだ。
「ヒッコウって何だっけ……?」
伝票を渡しに来た営業の木村さんに聞かれて、私は椅子に座りながら小声で答える。
「あれですよ、熨斗袋に筆で名前書いたりするやつ……」
「あー、じゃオレ無理だ。ダイイングメッセージみたいになっちゃうもんな」
確かにホワイトボードに書かれた木村さんの字は全然読めない。
しかし本人は全然悪びれる素振りもなく、毎日謎の行先を元気よく書き残して出掛けて行く。
(そっか、岩城さん今日いないのか……)
岩城さんとは、玄関横の守衛室にいるここのOBだ。
もう七十近い歳だと聞いた気がするけど、事務所周りの植木の剪定やちょっとした営繕も引き受けてくれている。
でも、筆耕までできるなんて知らなかった。
「あ、あの……駅前の文房具屋さんならやってもらえると思うんですけど」
おずおずとそう言うと、小松原さんは首を横に振った。
「確かに、いつもならあそこで多めに書いて用意してもらってるんだけど……」
小松原さんが示したのは、何も書いていない立派な熨斗袋が、二枚。
まっ白だ。
「お得意さんの偉い方が人事異動で、今日これから急に挨拶に来られる事が決まったらしくて……」
なるほど、それなら用意周到な小松原さんでも対応できない訳だ。
って、絶対挨拶状か案内状を営業が見落としてたか忘れてたパターンだろうな、これ。
「ちょうどその方達に渡す分が足りなくなっちゃったの」
よく見ると----小松原さんの顔色も熨斗袋みたいに、白い。
「……私が書ければいいんだけど、私、毛筆は本当に下手で……」
万策尽きた、とはこういう感じなんだろうか。
悔しそうに唇を噛むのがチラリと見えた。
「しかもプリンターで使えるタイプじゃないから、手書き以外は無理なんです」
無味無臭の美人、なんて前に小松原さんの事をそう評していた人がいたけど、そんな事はない。
当たり前だけど、小松原さんにだって感情もあるし、こんなふうに表情だって色々あるんだ。
毎日こっそり見ている私にしか分からないのかもしれないけど。
結局、皆顔を見合わせたままだ。
時間だけが過ぎていく感じが、胃が痛くなる。
小松原さんは「すみません、ちょっとどうにかできないかやってみます」と軽く頭を下げ、経理部に戻ろうとした。
もうこうなったらやるしかない。
私は壁の時計を見上げる。
「そのお客さんって、いつ来社されるんですか?」
「え? あ、ええと……あと十五分後って……」
確かにそれだと今から車を飛ばして駅前に頼みに行っても間に合わない----っていうか、墨が乾く時間を考えたらギリギリだ。
私は椅子から立ち上がった。
「道具はあるんですよね?」
「え? ええ、一式揃ってはいるけど……」
ごくり、と私は唾を飲んだ。
「十五分で二枚でいいんですよね? それ私が書きましゅ……!」
肝心なところで、噛んだ----。
「……藤宮さん、ありがとう」
応接室の片付けを終え、給湯室で湯呑を洗っていると、小松原さんが入って来た。
「おかげで無事お祝いを時間通りにお渡しできたわ」
良かった。
顔色がすっかり戻ってる。
「実はちょっと思ってたよりも書けなくて……なんか、あんなんで大丈夫でしたか……?」
「もちろんよ。お店で書いてもらうより綺麗だったくらい。正直びっくりしたわ」
お世辞でも、凄く嬉しい。
思わずニヤけてしまいそうだったので、慌てて下を向き、一度濯いでいた湯呑をまたスポンジでぐいぐい擦り始めた。
「藤宮さんの字は、履歴書の頃から見てたけどやっぱり綺麗ね……お習字やってたの?」
「小学生の頃からなんとなくです……はい……」
マズい。
これ以上褒められると、顔を上げられなくなっちゃう。
「そう……私も子供の時は一時期通ってたんだけど、全然上達しなくてね」
「あっ、私も惰性でやってただけで……あとはたまに、ウチお店やってたから、親に頼まれて今日みたいに書かされたりとか……そんな感じなんで、普段は全然……」
こうしてまた二人きりで話してるなんて、夢みたいで嬉しいけど----。
一方でもう一生分褒められてしまったんじゃないか的な妙な不安が湧いて来て、さらにその上に、これが夢なら早く醒めなきゃみたいな焦りまで出て来て、動悸が早くなっている。
「ううん、惰性とかじゃあんな字は書けないわよ……きっちり芯があるのに、硬さがなくて……いい先生に教わったのね」
「先生って言っても、実は祖母なんですけど……書道教室をやっていたので、私もやらされてただけです」
祖母まで褒められてしまって、私が犬ならもう尻尾をぶんぶん振っているところだと思う。
「なんか、私みたいのが褒められちゃうのって、照れますね……へへ……」
うん。
それだけじゃないんだけど。
やっぱり、私は小松原さんのこういう所が好きなんだ----。
「やっぱり思い切って藤宮さんに頼んで良かったわ」
「……わ!?」
変なタイミングで自分の気持ちを再確認してしまったせいで、私は危うく湯呑を取落とすところだった----って、今思い出したけど、これ大事なお客様用の九谷焼のやつだった。
危ない危ない----。
「大丈夫!?」
「だ、大丈夫です……手が滑りそうになっただけで、すみません……」
湯呑を濯ぎながら、私は気付かれないように深呼吸する。
これ以上話していたら、今度は変な子だと思われかねない。
「あのッ、もしまた今度また岩城さんがいなかったりしたら、私が書きますから言ってください」
私が出せた精一杯の普通の声に、小松原さんは微笑んだ。
「ありがとう……じゃ、その時はよろしくね」
そしてコツコツとヒールの音を響かせて、給湯室から出て行く。
いつもの経理課長らしい様子にすっかり戻ったその後ろ姿を見ながら、私はなんだか可笑しくなってふふッと笑った。
(当たり前なんだけど……小松原さんにも苦手な事ってあるんだ……)
そしてまた凹む。
(って、そうじゃなくて……! せっかく二人きりになれたんだから今度こそお花見誘えば良かったのに、私ったらまた千載一遇のチャンスを……!)
こんなんじゃ、どう考えても春までに何も進展しなさそうだ。
小松原さんの苦手なものが分かってなんだか少し嬉しかったけど、それどころじゃない。
私の苦手は、どうやら恋の駆け引きそのものなのかもしれない----。
どうしよう?