知らないキモチ
ガシャン。
ガシャン。
今日も私は錆の浮いた断裁機の前に立ち、せっせと納品書を切っている----風にしながら、小松原さんをそっと見ている。
「小松原さぁん、給料日前じゃないのぉ、ねえ? 頼むよぉ」
「奇遇ですね、私も給料日前ですよ」
営業島との間に置かれた断裁機の、更に向こうにある経理部の、そのまた奥の小松原さんの席の前では、今日も必死の攻防が行われている。
とは言っても、小松原さんは相変わらず表情一つ変えないんだけど。
「これはダメです。対外慶弔の申請書を出さないで勝手にお祝いを渡して精算依頼書だけ回されても、受付できませんよ」
小松原さんはそう言うと、無理矢理手元に押し付けられた書類を営業に事もなげに戻した。
「事後申請になった理由を明記のうえ申請書を提出してくださいね……精算はそれが回って来てからなので、来週になります」
「や、だからさぁ、そこをなんとか……ね?」
ガシャン。
ガシャン----。
(しまった、今日はこれでもう最後かぁ……)
なるべくゆっくり切っていたつもりだったけど、気が付けば今日発送する分の納品書は全部切り終えてしまっていた。
(あーあ、ちょっとペース配分間違えちゃった)
だけどまだ小松原さんの声を聞いていたい。
なので、わざと時間をかけて断裁機の周りの切り屑を集めながら、耳を澄ませる。
「申請書は共通キャビネットに入ってます。先方からの挨拶状か、昇任の事実が分かるメールの文面なりの添付も規定通りにお願いしますね」
「……はい」
そしてまた小松原さんは自分の仕事に戻る。
(……うーん、さすがは経理課長、今日も全く取り付く島がないわね)
あの大雨の晩から小松原さんとは----特に何もない。
車の中であんなに色々と(私が一方的に)話したのが、嘘みたいな何もなさである。
この辺散歩してると猫結構いますよね、とか。
イオンに新しいケーキのお店入りましたよね、とか。
家の近くの川の桜は春になるとすごく綺麗なんですよ、とか----。
対する小松原さんの反応と言えば、へぇ、とか、そうなの、とかいう相槌が九割だったが、 桜の話をした時だけは、「あそこの桜、昔うちの会社の有志で集まってお花見した事あるのよ」と、ちょっとだけ懐かしそうな声が返って来たのだ。
今はもう、そういうイベント的な事はやらなくなったらしい。
言われてみれば確かに、歓送迎会と年末に食堂を使ってやる簡単な打ち上げくらいしかやってない。
(……私の、バカ)
もう何度目か分からない後悔の念に襲われて、私は溜息を吐いた。
あの時一言でも言ってれば良かったのだ。
もしよかったら、今度、二人だけでもまた会社のお花見やりませんか? と。
(なんで言わなかったのよ……私のバカバカバカ……ッ!)
怒りをぶつける先がないので、私はいつもより乱暴に納品書の束を揃えた。
あとはこれをそれぞれの営業に渡して終了だ。
(あの時言ってたら、仲良く……なれたのかな……?)
私はまたパソコンのキーを叩き始めた小松原さんをこっそり見る。
(こうやって見てるだけじゃなくて、もっと毎日挨拶以外の話をしたり、友達みたいに会社の外でご飯食べたりとか……)
それってつまり。
会社の先輩(しかも他部署)としてじゃなくて、もっと近付きたいって事で。
小松原さんを見てるだけじゃ満足できなくて----。
そう。
私は欲張りなんだ。
お返しにあげたお茶を飲んでくれただけじゃ、満足できないんだ。
満足したと思ったのは、一瞬で。
満足したと思い込もうとしていただけで----。
だって、それは、それでもう終わってしまったって事だから。
小松原さんの中では多分完結してしまった出来事だから。
「……それじゃ、やだ」
席に戻った私は、思わず呟いていた。
私は、もっと小松原さんと関わりたい。
私は----小松原さんに、近付きたい。
(……学生の時とかなら、もっと気軽にクラスの子に声かけたりできたのに)
まぁ、普通ならお昼休みに食堂で近くに座ったり、自販機の前で声を掛けたりするんだろうけど、小松原さんの姿は勤務時間中のデスク以外ではなかなか見かけない。
(うわ、ホントにあれがチャンスだったんじゃん……)
そういえば、昼休みまで顔を見たら疲れちまうよな、なんて酷い事を言ってた営業もいたっけ。
なのに私はあの車の中でセンザイイチグウのチャンスを逃してしまったのだ。
そう、センザイイチグウの----って、あれ、どんな字を書くんだっけ?
「……藤宮ちゃん、何落書きしてんのよ?」
気が付けば、書類を抱えた営業が怪訝な顔をして後ろから覗き込んで来ていた。
「あ、あ……ッ、これはですね、えっと……四字熟語が思い出せなくてつい……」
へへへ、と愛想笑いをしながら、私は千載一遇という文字を延々と書いたメモ帳を慌てて隠した。
だめだ。
なんだか私、最近おかしい。
気が付けば断裁機の前以外の場所でも、小松原さんの事ばっかり考えている。
「……これって、やっぱりおかしいよね」
ぼーっとしてお風呂に入っていたせいで危うくのぼせそうになった私は、カルピスの500mlのペットボトルを掴み、開け放した冷蔵庫の前にへたり込んでいた。
一人暮らしだと、こういう時どんな格好をしていても怒られないのがいい。
「なんで私、こんなに小松原さんの事ばっかり気になるんだろ……別に、ただ友達になりたいだけなのに……」
バスタオル一枚でペットボトルをがぶ飲みしながら、私は学生時代の記憶を辿る。
(っていうか、私、そんなに友達が欲しい人間じゃなかったと思うんだけど……)
一人っ子だったせいか一人遊びは苦にならない方だったが、それでも、中学校でも高校でも、友達は気が付けばできていたし、それなりに遊んだりガールズトークを楽しんだりしていたと思う。
「大学の時の友達とは今でもたまに遊んでるし……」
入学式の日にサークルに勧誘されて、なんとなく入ってなんとなく親しくなって、合宿に行ったり、コンパやったり----。
(あれ、私……友達は別に間に合ってない……?)
いつの間にか空になったペットボトルを見ながら、私は首を傾げる。
会社の同期とだって仲良くできてるし、更衣室でのしょうもないドラマについてのおしゃべりだって、それなりに楽しい。
「……え?」
それじゃ、私のこのモヤモヤは、何なの----?
(いや……同年代ならともかく、小松原さんはずっと先輩だから……だからそんな簡単に友達にはなれないんだな、って……)
自分にそう言い聞かせながら、だけど、私の胸は急にドキドキし始めていた。
(違う……)
上手く表現できなかっただけで、私は小松原さんに近付きたいと思うのは----。
(私、友達が欲しいんじゃないんだ……)
友達になりたいとは、思っていない。
なのに、もっと近付きたいって----もっと話したいって、そんな事ばかり思ってしまうのだ。
(……いやいや……それっておかしいって……それじゃまるで……)
違うと思っているのに、私はもう正解を知っている。
(それじゃまるで、友達になりたいんじゃなくて……)
この気持ちが今までとは全然違う種類のものなんだと、分かってしまっている。
「……やっぱり、おかしいよね?」
冷蔵庫の電子音がピピッとなって、私は顔を上げた。
カルピスと冷蔵庫の冷気のおかげで、身体はもうすっかり冷えている。
だけど、動けない。
(こんなキモチ、知らないよ……)
頬だけが、なんだかやたらと熱くて。
その原因は----。
「え……? あれ? これって、やっぱり……私、小松原さんの事が……好きって事、なの……?」
電子音が、もう一度ピピッと鳴った。
だけど、私にはもう、冷蔵庫のドアを閉めなければならないという当たり前の事すら思い当たらなくなっていて----。
翌日、私は見事に高熱を出して、入社以来初めて会社に欠勤の電話をしたのだった。