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雨とスキマ

このお話は、以前に短編として書いたら、なんだかだらだらと続きを書いてしまって短編じゃなくなってしまった一連のお話を改めて連載作品として書き直したものです。

お話の内容はほとんど変わりませんが、加筆・修正をしながらちゃんとした形にしたいなと思い、手直しを始めました。

他の連載もありますので更新はあまりちゃんとできないかもです。

ごめんなさい。

それと、改めてこの二人をよろしくお願いいたします。

 経理課長の小松原さんの席は、事務所の一番奥だ。


 小松原さんは古ぼけた大きな耐火金庫の前で、少し猫背になって、一日中パソコンに向かっている。

 年齢は分からない。


 私が入社した時にはもう課長と呼ばれていたし、かといっておばさんって感じでもない。


 三十代の後半か、四十代の前半なのだろうか?

 派手ではないけれどかっちりした雰囲気で、アラフォー向けのファッション誌のモデルから華やかさを少し抜いた堅実さがある。

 少し近寄りがたいとは皆言っているけど、私はその方が見てて好きだ。


(小松原さんは、仕事もできるしスーツ姿も素敵だし……なんか、私とは月とスッポン? みたいな?)


 ポニーテールで通勤にはジーンズとカットソーばっかり着ている私には、まるで別世界の人種にすら思えてしまう。


 分厚いファイルやら古ぼけた資料の束が常に積んである席には、私が入社した時から『課長』という札が立っている。


 窓から離れているのと、蛍光灯の真下から少しずれているせいで、小松原さんのデスク周りは、何だかぼんやりと薄暗い。

 口の悪い社員の中には『小松原ワールド』なんて言う人もいる。


 小松原さんが常に手元に置いている飲み物は、給茶機のコーヒーだ。

 それは夏でも冬でも変わらない。


 少し大きめの白いマグカップに入れたコーヒーを、小松原さんは一日かけて一杯だけ飲む。

 それ以上飲む事もないし、かといって飲まない日がある訳でもない。


 小松原さんの向かいの机は綺麗に片付けられている。

 退職した部長の後に誰も来ないので、小松原さんが経理部の実質のトップ、みたいな形になっているらしい。


 その机の更に後ろ側には作業台があって、錆の浮いた旧式の断裁機が置いてある。


 そして配送部の私は、今日もそこでガシャンガシャンと取引先に送る納品書を切っていた。


「小松原さん、これ今週の振込間に合う?」

「これ、間に合う間に合わないじゃなくて、提出の締切昨日でしたよね?」


 ここで納品書を切っていると、たまに領収証を持った営業や運賃の請求書を抱えた仕入れ担当者がやって来ては、一生懸命に頼み事をしているのが聞こえる。


「締切に間に合わなかった申請は、全て来週分に回します」


 小松原さんの話し方には、無駄がない。

 それに比べて、給湯室や女子トイレで聞こえる会話には、必ず余計な言葉が付いている。


 断定しないように、否定しないように、自分の意見ははっきり言わないように----。

 私もそうだ。


 だけど小松原さんは断定するし、否定するし、自分の意見ははっきり言う。


「小松原さんさぁ、備品棚のこのノート、表紙がピンクのしか残ってないんだよねぇ」

「中身は全部同じですよ。いつもデスクでメモ帳代わりにして捨ててるんなら、表紙がピンクだろうと花柄だろうと問題ないじゃないですか? それが一番安い商品なんです。嫌なら別のやつ買いますけど、自費になりますよ?」


 小松原さんがウェーブのかかった栗色の髪をかき上げてまた視線をパソコンの画面に戻してしまうと、話はもうそこでおしまい。

 皆すごすごと帰って行く。


 ガシャン。

 ガシャン。


 私は、納品書を切りながら小松原さんと営業さん達の会話を聞くのが好きだ。

 無駄がない会話は、聞いているだけで自分の余計なものを切り落としてくれるような気持ちになる。


 ガシャン。

 ガシャン。


 結構力のいる作業だけど、苦にはならない。

 小松原さんの声を聞いているといつの間にか終わってしまう。


 だけど、私自身は小松原さんと話をする事がほとんどない。

 たまに食堂で一人黙々と食べているところを見かけるけれど、仕事で絡む事なんてないから、隣に座るような口実もない。


 だから、断裁機の所で納品書を切る時が、私が一番小松原さんに近付く時なのだ。

 そして、私が本当の私に少しだけ戻れる時間でもある。


 そう、今日までは----。


「え……ちょっと……なんで私の傘、ないのよ……?」


 九州の倉庫からトラック便で出したはずの商品が積み残しされていて、メーカーと擦った揉んだしながらようやく航空便で届けてもらえる話がまとまって、気が付けば夜の八時を過ぎていた。


「や、やっと帰れる……」


 いつものように一人事務所に残ってる小松原さんに、お先に失礼しますと声をかけても、これまた判で押したような「お疲れさま」の一言が返って来ただけだだが、それでも私はちょっとだけウキウキしてしまったのだ。


(取りあえず問題も解決したし、小松原さんの声も聞けたし……へへっ、残業して良かったかも、なんちゃって……)


 軽く鼻歌まで出そうになりながら私は軽い足取りでビルの出口まで降りた。


 傘が一本も残っていない傘立てを見るまでは----。


「は!? 誰よ、私の傘持ってったヤツ……!?」


 傘立ての前で私は呆然と立ち尽くしていた。

 この時間だと、守衛さんももう帰ってしまっているから、守衛室の傘を借りる事もできない。


 入口のガラス戸を閉めていても、雨がアスファルトに叩き付ける音がはっきりと聞こえている。

 朝、こんなに降るって言ってたっけ----?


「あら、まだいたの?」


 階段を下りて来た小松原さんの声で、私はやっと我に返った。


「あ、あのっ、私の傘……誰かが持って行っちゃったみたいなんです……」

「あらあら、この土砂降りじゃ駅まで歩くのは無理だわね」


 ちゃりちゃりと人差し指で車の鍵を回しながら、小松原さんは落ち着きはらった声で言う。

 こんな仕草も、この人は妙に様になる。


「とりあえず傘の件は、明日の朝礼で聞いてみましょう」


 そう言い、「いらっしゃい」と私を手招きする。


「え?」

「風邪で明日お休みしたいんなら別に構わないけど、そうじゃないなら車で送るわ」


 私はまたバカみたいに「え?」と聞き返した。


「乗るの? 乗らないの?」

「のっ、乗ります……っ!」


 私は慌てて小松原さんの傘に入れてもらい、駐車場へ出た。

 あっという間に跳ね返りで靴がびちゃびちゃになる。


「家、イオンの先の公園のとこでいいのよね?」

「あっ、そんな……悪いです。駅までで大丈夫です……!」


 一目散に走りながら私達は雨音に掻き消されないように言葉を交わす。


「いいから送るわよ」


 助手席に乗ると、小松原さんの車は、小松原さんの匂いがした。

 というか、正確に言うと、小松原さんの付けているコロンのいい匂いがした。


「別に、私の家あなたのアパートの近くだし」

「そうだったんですか……!?」


 初めて知って、またテンションが上がってしまう。

 単純な私。


 後ろの席に畳んであるタータンチェックのひざ掛けとか、ミラーの横にぶら下がってる猫の形の交通安全のお守りとか、どれも見た事のない小松原さんって感じで、一々新鮮過ぎる。


「なんか、その……小松原課長にこんな風に送っていただけるなんて……不思議な気分です……」

「そう?」


 私がペラペラと喋っている間、小松原さんは真っ直ぐ前を見て、相槌だけは時々打ちながら、慎重にハンドルを握っていた。


「あの、私……その、事務所では小松原課長とあんまりお話しする事ないから……」

「こういう時は課長って付けなくていいわよ」


 やっぱり、取り付く島がない。


 線路を渡るのに踏切の前で一旦停止し、小松原さんは窓を開けて左右を確認する。

 雨の音が急にはっきり聞こえて、私はラジオも音楽も流れてなかった事に気付く。


「明日の航空便、ちゃんとお客さんの所に着くといいわね」

「あっ、はい……」


 そっか、残業しながらもちゃんと私の様子を気にかけていてくれたんだ。

 そこが小松原さんが経理課長の小松原さんたる所以みたいな?


「少し止んできましたね……」

「そうね」


 もっと他に話したい事があるはずなのに、小松原さんのコロンの匂いに包まれていると、満足と焦りが混ざったような、やるせないような気分になってしまう。


「ご飯は大丈夫なの?」

「あ、冷凍ピラフあるからそれ食べよっかなって」


 気が付けばもうアパートの前だった。

私の家、こんなに近かったっけ?


「じゃ、また明日ね」

「あ……ありがとうございました……っ!」


 小松原さんがアパートの前ギリギリまで車を寄せてくれたので、私はたいして濡れずに済んだ。

 見えるかどうかわからないけれど、私は小松原さんの車が見えなくなるまで頭を下げていた。


 次の日、航空便は予定より少し遅れて納入先に届き、私の傘を持って行った犯人は分からずじまいだったので、私はそいつがキャビネットの角にでも足の小指をぶつけますようにと願いながら、会社が終わるとすぐに小松原さんに渡すお礼の品を買いに近くのショッピングモールまで行ったのだった。


 ガシャン。

 ガシャン。


 そして相変わらず今日も、私は小松原さんと営業の不毛なやり取りを眺めながら納品書を切っている。


「一応領収証は貰ってるんだからさ、頼むよ? 今月ピンチなんだって」

「ウチの会社は上様なんて名前じゃないですよ」


 小松原さんは髪をかき上げ、視線をパソコンに戻す。

 私の方には目もくれない。


「社内規定は守って下さいね」


 ガシャン。

 ガシャン。


 すごすごと引き返す営業の背中に一瞥もくれず、小松原さんは右手で伝票の束を掴み、左手でマグカップを取る。


 そのタイミングで、私は少し爪先立ちになった。


(あ……!)


 小松原さんのマグカップの中のがほんの一瞬だけ見えて、私は小さくガッツポーズする。


(私の紅茶、飲んでくれてる……!)


 本当は事務所に給茶機を導入する時に紅茶も入れたかったんだけど、そうなるとリース料が高くなるからやめたのよ、と車の中で小松原さんが言っていたのだ。


 実は小松原さんは私と同じ紅茶派だった。


 なので、私は思い切って色とりどりのフレーバーティーのティーバッグをお礼のメモと一緒に紙袋に入れ、守衛さんに(どら焼きの差し入れという賄賂と共に)託して小松原さんへ渡してもらった。


 ガシャン。

 ガシャン。


 断裁機から向こうは、やっぱり小松原さんの世界だ。

 私は立ち入る事ができない。


 だけどあの雨のお陰で、私は小松原さんの世界にほんの少しだけ小さなスキマを開けられたような気がして----。


 すぐに閉じてしまいそうなとても小さなスキマから、ほんのちょっとだけ漂って来る紅茶の香りを感じながら、私は今日も一日頑張ろうと思うのだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 日常の一コマを切り取ったようで好き [気になる点] 課長との進展 [一言] 以前短編で見て、とても続きが気になっていました。お気に入りの作品だったのでまた出会えて嬉しいです。ありがとうござ…
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