ひとひらの雪に誓う。
「お前はオーブリー商会の会頭と結婚してもらう」
父親に呼ばれ、開口一番そう言われた。
「どういうことでしょう、お父さま。私には婚約者が」
「向こうは明日にでも嫁いで来いと言っている。身一つでいいそうだ。準備をしておくように」
「お父さまっ?」
父は混乱している私の背を突き飛ばし、書斎から追い出した。その勢いで床に転がり、一瞬息が止まる。
「あら、お嬢さま」
打ち付けた膝の痛みにうめく私に話しかけてきたのは年嵩の侍女。
落ちぶれた我が男爵家にただ一人残った使用人、かつ父親の愛人。
侍女は見下し笑いをしながら、私の足を蹴った。
「お嬢さま、金目の物を売ってお金に換えておいて下さい。食べ物が底をつきました」
侍女はそう言って書斎に入り、カチリ…と鍵を掛ける。
中で何が始まるのか、知りたくなくて私は部屋へ戻った。
がらんとした私室は、底冷えしている。
支払が滞っているのでご用聞きの商人たちからは、もう何も売ってもらえない。
母は体を壊し、実家に帰ってしまった。
困窮した父は、豪商に私を売って当座のお金にするつもりのようだ……。
ぶるりと体が震える。
「拒否すれば餓死か凍死だわ」
私に身売り以外の道はない。そう思った瞬間、全身から力が抜けた。
「もう、むり」
私はドアを背にして、ずるずると座り込んだ。
口から意図せず怨嗟が零れる。
「こうなったのは……全部お兄さまのせいよ」
去年、王都中を揺るがす大スキャンダルが起こり、兄はその渦中にいた。
スキャンダルの中心は平民の少女。
特待生として入学した学園で、手当たり次第男性にすり寄ったそうだ。
あからさまな媚態に負けた高位貴族の子息たちは、次々に少女と不適切な関係に陥った。そのため子女側から愛想をつかされ婚約破棄騒動が一斉に起ってしまう。
武術に優秀だった兄も少女に恋をし、言を信じ、侯爵家の子女を夜会で引き倒した。
紳士にあるまじき行為で、もちろん兄は警備に取り押さえられた。
そしてその侯爵家から睨まれ、我が家は貴族社会から孤立し、立場を失った。
その後、兄は暴行の罪で収監され、今は流刑地で服役している。
その兄の暴挙から約一年。
我が家は貴族社会からつまみ出されたまま。
友人知人、親族からも付き合いを止められ、国内に居場所がない。
ひとしきり泣いて、私は立ち上がった。
隠し持っていた小金を懐に入れ、最低限の荷を背負う。
部屋を出れば、書斎はまだ閉じられたままだ。
気付かれぬよう忍び足で家を出て、そのまま振り返らず、歩を進めた。
今は戦争がなく、治安が良い。女一人でも昼間なら旅が出来る。
前へ、前へ。
我が家の経済状況からして、追っ手を雇うお金はないはずだが、気が急いて足が痛んでも進む。
歩き通して十日後、いよいよ国境を越える。
身分証を使えばすぐに出国できるが、父から捜索願が出されていたら、国境の門で掴まってしまうだろう。
それを危惧した私は門を避け、山へ向かった。
獣道を分け入れば、誰にも見咎められず隣国へ入れるはずだ。
意を決して足を進めたら、いきなり腕をつかまれた。
「さすがに女性一人で山越えは危険だ」
聞き覚えのある声に振り返れば、そこに私の婚約者がいた。
「どうして……」
「探したよ」
「私は、戻らない」
彼から目をそらし、私はかすれた声を振り絞る。
「あなたは、なぜ…ここにいるの?」
「以前、君がこの国に行きたいと話していたから」
馬で先回りしてこの街で待ってたんだ、と彼は微笑み、すぐに表情を引き締めた。
「君の家から婚約を解消すると手紙が来た」
「…そう」
「驚いてすぐに家を訪ねたら、君がいなくなってて……」
「……オーブリー商会の会頭に嫁げと言われたの」
「だから家を出た?」
「えぇ。あのまま家にいたら、翌日にでも連れていかれそうだったから…」
「そうか…」
「……」
「切羽詰まってたんだろうとは思うが、僕を頼ってくれなかったのは、正直さみしい」
その言葉に私は身を縮める。
「でももし君がうちに来ても僕に取り次ぎしてもらえなかったと思う」
そう。私から送った手紙は彼に届く前にいつも握りつぶされていた。
「だから君が僕を頼らず逃げ出したのも理解できる」
大丈夫だよ、と彼はささやく。
「なにが、大丈夫なの…?」
「僕は君を連れ戻しに来たんじゃない」
その言葉に私は彼を見上げた。
「ここ一年、苦境に立たされている君を見て、僕に出来ることは何だろうってずっと考えてた」
「なにも…しないほうがいいわ」
「そうかい?」
「いえ、私との婚約を解消すべきよ」
醜聞に塗れ、侯爵家に睨まれた我が家と付き合いがあるだけで彼の家の立場も悪くなるのに、彼はこの一年ずっと、私に寄り添ってくれていた。
本当は私から婚約解消を言うべきだと分かっていた。
でも、どうしても言えなかった。
言い出せなかった。
だから何も言わずに逃げ出したのに。
あなたと一緒になれないなら、それは私に必要の無いものなのよ。
あなた以外との未来はいらないの。
心の中でそう叫ぶ自分を押し殺して、私はうつむいた。
「君の家の申し出を受け、婚約は解消した」
「そう…」
「だから僕も捨てて来たよ」
「え?」
「家を」
「そんな」
彼は学業優秀で来春から官吏として働く予定だった。
私のために有望な未来を犠牲にしてしまったのか…。
青ざめ、言葉を失う私に彼が苦笑する。
「婚約した時に約束したはずだ。つらい時に支え合える二人になろうって」
婚姻のときのお決まりの文言。
誰もが唱える言葉を彼は私の耳元でささやいた。
「君を幸せにしたい」
彼はそう言ってはにかんだ。
少し幼い笑みについ見とれていたら、二人の間を北風がぴゅうと吹き抜ける。
「ここで話してると凍えてしまう。国境を越えよう」
彼はそう言って私の手を引き、門へ向かう。
「私は通れない……身分証を使えば居所が父にばれるから」
くちびるを噛んで足を止めたら、彼は私の腰をさらに引き寄せた。
「その身分証は出さなくていい。新しいのがあるから」
「新しいの?」
「おいで」
彼はいぶかしげな私を連れ、通行人をチェックしている列に並んだ。
「二人は商売か?」
「新婚旅行だ」
「そりゃ、おめでとう!」
「ありがとう」
彼は懐から二人分の身分証を見せ、役人に入国税を払い、門を通り抜ける。
「あの…」
「はい、これが君の新しい身分証」
手渡されたそれに、私の名前が記されている。しかしよく見ると名字は彼のものになっていた。
「これは一体…」
「新しい戸籍だよ」
「新しい戸籍…」
「婚姻届を提出してきた。これで僕たちは家族だ。二人でどこへでも行けるし、どこででも生きていける」
「どうして…そこまで…」
「もちろん、君が大切だからさ」
彼は北風に鼻先を赤くしながら、静かに答える。
「君がつらいなら、僕の力で笑顔にしたいんだ」
「でも、私にはもう何もない…何もできない」
「僕だって何ができるかわからない。それでも僕は君と一緒にいたいと思ってる」
身を切る北風から私を守るよう、私をのぞき込んで笑む。
「これからも色々なことが起こるだろう。でも二人で解決していこう」
また強い風が吹いた。
その後、ひらりと目の前を白いものが舞う。
「あ……」
「雪だね」
彼が天を見上げた。
ふわふわと天使の羽のような雪片が私に降り注ぐ。初雪だ。
「天が僕たちを祝福をしてくれたんだ。天に誓おう。かならず君を幸せにすると」
凍えた耳に温かな声で囁かれ、涙が止まらない。
私は必死に頷いた。
そんな私のくちびるに雪が落ち、触れてすぐに溶ける。
すると彼が片眉をひょいとあげて、くちびるを尖らせた。
「君とのキスを雪に横取りされた」
「なっ」
またひとひら、雪が私のくちびるに落ちてくる。
「君のくちびるに触れていいのは僕だけなのに」
彼は雪に負けじと私へくちびるを寄せた。