一人じゃない(2)
現実は優しくない。恵にはいつも残酷で、希望さえも奪っていく。
恵にとって祥介は希望だった。祥介の境遇を知るにつれて親近感も湧いたし、一人ではないと思わせてくれた。可哀想なのは恵だけではないと情けない仲間意識を勝手に抱き、祥介も恵と同じ価値観で生きてくれているのだと勝手に安心しきっていた。
だけど違う。祥介は一人ではない。祥介には味方が居る。恵が大嫌いな大人が側にいて、その大人に守られている。
恵と祥介は仲間ではない。同じではない。恵はひとりぼっちだ。誰にも守られなかった。
もうこれ以上は見たくないと、恵は固く目を閉じて耳を塞ぎ、ひたすら終われと強く願う。
しかし、恵の願いは届かない。
『あれ、今日も居る』
祥介の声が恵の頭に響く。目を開けると、またしても塾に来ていた。
教材は中学一年のものだ。まだ二年にもなっていないらしい。
祥介はその日も、いつもの席を恵に奪われていた。恵は特に座る席にこだわりはなかったから、前回も今回も偶然である。
祥介は残念に思いながらも、以前のように恵の隣に腰掛けて教材の準備を始める。二度目にもなると恵の存在にも慣れたのか、隣はあまり気にしていなかった。恵が静かだったから気にならなかったということもあるのだろう。騒がしいことが苦手な祥介は、ごく自然に恵を受け入れることが出来た。
いつものようにペンケースから消しゴムを取り出す。すると指が引っ掛かり、それを誤って弾き飛ばしてしまった。消しゴムは恵のペンケースの近くに落ちた。祥介は慌てて手を伸ばしたが、すぐにピタリと動きが止まる。
恵の袖の裾から覗く、青黒いアザを見てしまったのだ。
案外見られやすいものだなと、恵はそこでようやく気付く。きっと沙織にもこうして知られたのだろう。手首のアザは逃げないようにと母に強く掴まれた時に出来たものだ。ああいった時の母は普段以上に力が強い。殴る力も押さえつける力も、男の人並みにあるのではないかとも思えるほどである。
『アザ……? あんなところに?』
やはり祥介も引っ掛かったようだ。授業が始まってもチラチラと恵の手元ばかりを気にしていた。
それからはずっと、祥介の頭にはアザのことばかりが浮かんでいた。偶然打ちつけたからできたわけではない、くっきりと指の跡が残るアザだったために余計だろう。祥介は終始渋い顔をしていた。
やがて授業が終わり、生徒が教室から減っていく。ぼんやりと帰りの準備をしていた祥介は、隣に居た恵が立ち上がるとその背を目で追いかけていた。
制服のスカートがひらひらと揺れて、膝丈の裾からはまたしても微かにアザが見える。こちらは黄色くなっているために治りかけているのだろう。意識して見なければ分からないようなそれは、手首のアザも含めておそらく祥介以外には気付かれていない。
やがて恵の背が見えなくなると、祥介は難しい顔をして片付けを再開する。
『……虐待?』
ポツリと、祥介の頭にそんな言葉が浮かんだ。
悪意はないと分かっている。馬鹿にしているわけでも、変に好奇心を抱いているわけでもなく、祥介は率直に答えを弾き出しただけである。しかしその単語に嫌悪を示した恵は、思わず身構えてしまった。
『いや……転んだだけかな』
——祥介が恵を明確に意識し始めたのは、この日からだった。
いつもの席に座られていない時は、祥介は恵の後ろを陣取るようになった。
学校でも意識的に目で追いかける。保健室登校なために四六時中見つめているわけではないが、すれ違う時や体育の時間は穴が空きそうなほどに恵に視線を向けていた。
塾でも学校でも、祥介はただ「どうしてだろう」と考えていた。
恵は特別暗い女の子ではない。虐待されていることを態度に微塵も出さず、いつも当たり障りのない愛想笑いを浮かべて、誰に対しても平等に会話を繰り返す。粗悪な人柄なわけでもなければ変に目立つタイプでもなく、多少「八方美人だよね」と悪口を言われているようだが、逆にそれだけのことである。
やはりどう考えても、恵自身に虐待をされるような原因があるとは思えない。
祥介はその答えに行きついて、ほのかな期待を胸に浮かべる。
もしかしたら恵も、理不尽な毒親に悩まされているのではないだろうか。
仲間意識だったのだろう。祥介はそこで、ほんの少し孤独を溶かす。
学校でいつも長袖を着ているのもきっと、その体にアザが多いからなのだろう。祥介はそんなことにも胸が逸り、数度チラつくアザを見た時、やはりそうだと確信を持つ。
祥介ばかりではない。同じ歳で、さらに同じ学校で過ごす恵も、祥介と同じように毒を抱いているのだ。
「糸井くん、最近楽しそうね」
気がつけば、場面は保健室に変わっていた。まるでドラマでも観るかのように集中していた恵は、場面転換に気付いてすぐ、いつもの場所に座っている祥介を見下ろす。
表情が最初より柔らかい。恵がよく知っている、最近の祥介に近づいているように思えた。
「そうですか」
「ええ。……青春かしら」
「青春?」
「だって糸井くん、ここからずっと間宮さんのことを見てるでしょう?」
養護教諭が揶揄なく笑う。祥介は驚いた顔をして、ほんのりと頬を染めていた。
「いいことじゃない。それが友情であれ恋であれ、楽しむことは大切よ。人生の一瞬一瞬はあっという間に過ぎてしまうのに、俯くなんてもったいないわ」
養護教諭の言葉に、何かを考えるような間を落とした祥介はそれでもこくりと静かに頷いた。
——恵はどうだろうか。人生の一瞬一瞬を、もう二度と戻らない時を、どうやって生きていただろう。
(……毎日、怖くて)
家に帰ると殴られるからと、塾のない日は出来るだけ遠回りをして帰るのが日課だった。家に居ても心は休まらず物音を立てないようにと静かに過ごし、ご飯は作ってもらえるわけもないために冷蔵庫にある残り物を少しずつつまむ。
恵の存在は殴られる時にしか認知されなかった。それ以外は居ないものとして扱われていた。そんな家で俯かずにいられるわけがない。
養護教諭が"楽しむ"と言ったことで初めて気付かされた。
恵の人生には、そんなものは一つもなかった。
楽しいことが少しでもあったなら、恵は「死ぬ」という選択をしなかったのだろうか。生きようと思えただろうか。"楽しい"と思うことのために頑張ろうと奮闘できただろうか。
(……って、そんなこと考えても今更か……)
自身の思考を嘲るように、恵は軽く息を吐き出す。死にたくなかったわけではない。恵はずっと死にたくて、そして自殺にまで踏み出した。それなら「死ななかったかもしれないこと」を考える必要はない。
恵は死んだ。母に殺された。それがなくとも自殺をしていたのだ。恵の意思なんて、その現実がすべてである。
「……そういえば、前に言ってた児童養護施設ってどんな子が入れるんですか?」
何かを思いついた祥介が、どこか真剣な瞳で問いかけた。養護教諭も面食らったように目を瞬く。しかし何を聞くこともなく、ひとまず答えることにしたようだ。
「育児放棄とか虐待とか親のいない子とか……まあいろいろあるわよ」
『虐待も……』
祥介の言葉は音をなさない。恵にしか聞こえていないから、養護教諭は当然のように不思議そうな顔をしている。
「どうしたの?」
「いえ、なんでもないです」
祥介の真剣な顔を最後に、ぐるりと世界が一変した。場面が回り、恵の目の前には病室のベッドに横たわる祥介が現れる。
いつもの個室だった。ベッドサイドの椅子には祥介の母が座り、ニコニコと祥介に語りかけている。
「しょうちゃん。検査は明日までですって。心臓の方も良くなっているらしいから、もう少しで通院生活に戻るからね。二年生からは学校に行ける頻度も上がるみたいよ」
祥介はいつものように、つまらなさそうに病室の外を見つめていた。恵からすれば違和感のある姿なのだが、母親からすればそれが「いつもの祥介」なために特に気にした様子もない。
「でも油断は禁物でしょう? だから学校の先生にも念を押して言っておいてあげたからね。あと給食も、しょうちゃんだけはお弁当にしてもらえるように言ったから。ほら、この病院でも一度改ざんがあったでしょう? 病院側が認めなくって結局うやむやにされちゃったし……今回はしょうちゃんが大丈夫だったから良かったけど、それって結果論だもの。本当、無責任で困るわね」
祥介の母は相変わらずのようだ。息子の表情さえ正確に読み取れないのか、あえて見ないふりを続けているだけなのか。恵にはどうにも後者に思えて、それもまた気持ちが悪かった。
「しょうちゃんは何にも考えなくっていいからね。高校もしょうちゃんにぴったりのところをもう選んだのよ。お父さんにはまだ早いって反対されちゃったんだけど、早いにこしたことないじゃない? ねえしょうちゃん。これも全部しょうちゃんのためだもの。お母さん、全然苦じゃないわ」
恵はずっと、祥介からモヤモヤとした感情を感じていた。しかしそんな感情のままに祥介が何かを語り出すこともなく、母親から向けられる言葉をすべて受け流している。
その姿はまるで恵のようだった。
恵は殴られている間、抵抗なんて無駄なことはせずただ黙ってうずくまり、早く終われと無心に過ごしていた。心を動かすなんて馬鹿なことはしない。感情なんて殺してしまった方が楽である。うずくまっていれば気がつけば終わっている。痛みは伴うがそれだけだ。恵には大したことではない。痛みよりも、状況に一喜一憂することの方が苦しいと分かっている。
おそらく祥介も同じ気持ちなのだろう。
何を言っても無駄だと知っている。何をしても繰り返されると分かっている。だからこそ最初から諦めて口を閉ざす。つまらなさそうに窓の外を見て、視界にすら入れようともしない。
(……似てる……)
祥介には養護教諭が居るために孤独なわけではないが、やはり祥介と恵はどこか似ているように思えた。
祥介の母は語り続ける。恵はその言葉たちに頭痛を覚えながら、祥介の暗い横顔を心配そうに見つめていた。