一人じゃない(1)
次に立っていたのは塾の片隅だった。
恵が飛び降りた雑居ビルの一角である。個人塾であるために広いわけではなく、入ってすぐに長机が並べられている。一番奥にはホワイトボードが設置され、近くにある教師用の机にはPCと資料が置かれていた。
もう懐かしさすら覚えるそこにホッと胸を撫で下ろすと、恵は軽く息を吐く。
家にも学校にも居たくなかった恵にとって、塾は唯一安心できる逃げ場所だった。仲が良い者は居なかったが、恵にとっては敵が居ないというだけで充分である。恵は塾の日がいつも待ち遠しくて、出来るだけ長く残るようにしていた。
どうやら今は祥介の視点で進んでいるようだ。祥介の背が目の前にある。祥介が歩めば、恵も自然とそれを追う。
『あ。いつもの隅っこの席……』
祥介の心の声だろうか。恵の頭の中に突然、祥介の声が響いた。
視線がそちらに向けられる。祥介が見ていたのは、たった今気にしていた窓際の一番後ろの席だった。しかしすでに先客が居て、授業の準備をしているようだ。祥介は少しばかり落ち込むと、それでもその付近には座りたかったのか、躊躇いながらも踏み出した。
祥介の"いつもの席"だったのかもしれない。彼の残念な気持ちが恵にも伝わってくる。
結局祥介は、目的の席の隣に腰掛けた。
祥介が取り出した教材には「中学一年」と記されていた。どうやら今は先ほどの病院の時よりも少し時間が経っているらしい。
『誰だっけ、この子』
この頃にはまだ恵のことは名前までは分からなかったようだ。"いつもの席"に座っていた先客とは恵のことだったのだが、祥介は名前も思い浮かばない様子である。
恵はこうして祥介と隣の席になっていたことも知らなかった。当時から周囲には目も向けなかったから、隣の席が誰かなんて興味もなかったのだろう。
祥介の隣に座る恵はちらりとも祥介のことを見ない。ただ教材とノートを開いて、講師が来るのを待っている。
祥介もすぐに前を向いた。特に恵のことは「同じ学校の人だ」というだけで、他に気になることもなかったようだ。
(……あれ。それならどうして……)
ただ同じ学校というだけでは「生きていてほしい」とまでは思わないだろう。名前も知らない相手である。祥介が病院で寂しい思いをしていたとしても、共通点もない赤の他人に心を寄せるはずがない。
今の祥介の様子を見ても、入ってきた講師に気を引き締めているだけで恵には興味もなさそうである。むしろいつもの場所を奪われていた、ということであまり良い印象がないのではないかとも思えてくるほどだ。
(……変なの)
それでは祥介はいつ、どこで、どのようにして恵に興味を持ったのか。
恵が一人で考えても仕方のないことを思い浮かべた時、今度は学校の保健室に場面が変わる。
養護教諭と祥介が居た。祥介は以前も座っていた椅子に腰掛け、中学一年の歴史の教材を広げて勉強をしているようだった。
開いた窓から風が入り、優しくレースカーテンを揺らす。保健室の窓から見えるグラウンドでは、どこかのクラスがサッカーの授業をおこなっていた。
「糸井くん、どうかした?」
近くのデスクで作業をしていた養護教諭が、手を止めている祥介に気付いて振り返る。祥介の表情はどこか渋い。何かを考えているような、何かを諦めているような、複数の感情が入り混じった複雑なものだ。
「……いいえ。なんでも」
「そう? 何かあったなら、なんでも言ってちょうだいね」
祥介は一度養護教諭へ視線を向けたが、何を言うこともなくすぐにノートを見つめていた。
教師のこういった言葉は信用ならない。恵も身をもって知ったことである。結局大人は利己的で、子どものことなんて何一つ考えていないのだ。甘言に騙されて何もかもを吐き出せば、自身らの都合の良い落とし所に誘導され、強引に納得させられるのだろう。
——きっと"大人"や"子ども"という枠組みの中にのみ当てはまる話ではない。他人に対しては誰もが無関心で、そして誰もが残酷である。
「糸井くん溜め込んじゃうでしょう? お母さんもそう言っていたから、きっと我慢しちゃう子なんだろうなって思うのよ」
祥介の母の様子を思い出せば、やや固い声で「うちの子のことをきちんと見ておいてくださいね」と教師に念を押している姿が容易に浮かぶ。担任だけでなく養護教諭にまで言っているということは、もしかしたらすべての教師に言って回ったのかもしれない。
それをされた祥介の気持ちなんか何一つ考えず、どんなふうに思われるのかも素知らぬふりで、祥介のためにやっていると悪びれなく語る。そこまで思い浮かべて、恵はぎゅっと眉を寄せた。
(大人なんか嫌い)
恵や祥介からすれば、親の気持ちなど知ったことではない。すべてを子どもせいにして、自分の感情を優先しているだけである。
祥介も以前に言っていた。どうして義務教育も終えていない子どもが親のことで悩まなければならないのかと。恵とは正反対の親を持ちながら、それでも恵と同じように親のことで悩まされていたからである。
教師も同じだ。河上は結局自分のことだけを考えて、最悪な選択をしたがために恵は殺された。河上に殺されたも同然である。そんな教師を、大人を、信用できるわけもない。好きでいられるはずもない。
恵はこんなにも汚い大人の溢れる世界から、祥介を連れて逃げ出したい気持ちだった。そうすれば恵も祥介も悩まなくていい。幸せに暮らせる。誰もいない世界で、恵と祥介ならばきっとうまくやっていけるだろう。
「私がこんなことを言うのも違うんだろうけど」
会話は終わったと思っていたのだが、どうやらそうではなかったらしい。
養護教諭が言葉を落とす。しかしすでに自習を始めていた祥介は、聞いていながらも手を止めることはしなかった。
「あんまり家が辛いならね、施設に入ることも出来るかもしれないの」
ピタリと、その場が動きを止める。考えてもいなかったことを言われて、二人は同時に養護教諭に目を向けた。
「私の知り合いに児童養護施設に勤めて長い人が居てね。糸井くんの状況を説明したら、もしかしたら裏口で入れるかもしれないって」
「……どうして僕にそんなことを?」
「辛そうに見えたから」
ぼんやりとした目で養護教諭を見ていた祥介は、やがてそれを窓の外に向けた。何を映しているのだろうか。その目はグラウンドでの授業を確かに見ているはずなのに、感情がどこにも見当たらない。
「……まあ……親があれですからね」
祥介はきっと、自身を深く語ることに慣れていない。彼の精一杯の弱音がその一言だったのだろう。しかし養護教諭は取りこぼすこともなく、しっかりとそれを受け取った。
「そうね。私なら我慢できないわ。糸井くんは大人なのね」
その声音は、到底小馬鹿にしているようには思えない、ただ労うようなニュアンスだった。だからなのか嫌味にも思えず、祥介もつい苦笑を漏らす。
(……そっか。糸井くんは一人じゃなかったんだ)
ここに唯一の味方が居た。
恵に接した河上とは違う。正しい大人が側にいて、彼の心を守っていた。
過干渉な親を持ち追い詰められていたはずなのに、祥介が恵のことまで気にかける余裕があったのはこの養護教諭のおかげなのだろう。
(なんだ。そっか……)
祥介は、恵が居なくても大丈夫だった。
もしかしたら恵に「生きていてほしい」と願ったのだって、恵が死ぬことで祥介まで巻き込まれて「繰り返し」てしまうからかもしれない。
何度も同じ時間に戻されてはさすがにやめてくれとも思うだろう。条件が「恵が死ぬこと」ならば尚更、無駄に死ぬのは勘弁してくれと願うに決まっている。
「あ、今の話は私たちだけの内緒話ね。私が校長先生と糸井くんのお母さんに怒られちゃうわ」
冗談まじりに笑う養護教諭と、少しだけ表情の解けた祥介。二人の空間は優しくて、もう見たくないからと恵はギュッと目を閉じた。