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冷たい大人(2)


 間宮恵は虐待を受けている。そんな噂とともに、糸井祥介と付き合っている、なんて馬鹿げた話も翌日にはすでに広まっていた。思春期の多感な年頃にはよくある話だろう。男女が一緒に居るのを見れば、すぐに恋愛を挟みたがる。

 どこか達観していた恵は噂に左右されることもなく、いつもどおり平然と過ごしていた。人の噂も七十五日。たったそれだけの期間で忘れ去られるようなそれにどうして振り回されなければならないのかと、むしろ強気な気持ちさえあった。

 とはいえ気にしないのは恵だけなのかもしれないと思い、恵はすぐに保健室に向かう。もしかしたら祥介は嫌がっているかもしれない。それを思えば、いてもたってもいられなかった。


「あら間宮さん。珍しいわね」

「え! 間宮さん!?」

 二つの声が重なった。昼休みの保健室には、祥介と養護教諭が居る。

 恵は無意識に養護教諭を睨みつける。恵の認識の中では養護教諭も河上と同じだ。どうせ河上から昨日のことを聞いて、恵のことを悪く思っているのだろう。

 大人は大人の味方である。昨日も一緒に恵を呼びに来たし、仲も良いのかもしれない。

「変な噂があるから謝りに来たの」

「……噂?」

「……私と糸井くんが付き合ってるって」

「えっ!?」

 祥介の頬が一気に染まる。しかし恵は養護教諭ばかりを気にして、不機嫌顔のままだった。

「そんな噂があるんだね……そっか。うん。別に気にしてないよ。うん……むしろそれはそれでまあ……」

「それならいいけど」

「あ、待って間宮さん!」

 背を向けた恵を、祥介が思わず呼び止めた。

 パイプ椅子から立ち上がり、焦ったような顔をしている。

「何?」

「河上先生との話し合いはどうだった? 実は昨日の放課後、話を聞きたくて教室に行ったんだけど、間宮さんもう帰っちゃってて……」

 恵の目が、ちらりと養護教諭に流れる。養護教諭はなぜ見られたのかが分からなかったのか、不思議そうな顔をしていた。

 恵からすれば白々しい表情だった。心の中では何を思っているのかは分からない。河上から昨日のことを聞いたのであれば、恵のことを厄介者だと思っているのだろう。そんな感情を綺麗に隠すその表情が、恵にはひどく汚く見えた。

「別に何も。……また今度ね」

「え、待って間宮さん」

「また今度話すから。今は何も言えない」

 とにかく気分が悪くて、恵は足早に保健室を後にした。


 保健室にはもう行かなくなった。祥介が居ても行きたいとは思わない。養護教諭が居る限り、恵にとって保健室は悪魔の住処である。どうせ河上と繋がっているのだ。二人きりになれば何を言われるのかは想像に難くない。言い合いになったあの日以来、河上は恵に陰湿な嫌がらせをするようになった。恵にばかり難問をぶつけて、答えられなければあからさまにため息をつく。それを見て沙織が笑い、そのたびクラス全体が微妙な空気に包まれる。河上は養護教諭とそれを共有して、二人で恵を嘲笑っているのかもしれない。最悪な現実を考えれば、保健室には近づこうとも思わなかった。

 

 そんな調子で、虐待を暴露され、河上とも言い合ったあの日から一週間が経過した。恵一人では次の一手が見つからず、いっそ何もせずにもう一度死んでみようかなと思い始めた頃である。

 学校から帰った恵は、いつものようにそっと家に入った。ここで気付かれては何をされるのかも分からない。存在を認知されることすら恐れている恵からすれば、帰宅に気付かれないようにするのは当然の行動である。

 静寂の中、恵は恐る恐る靴を脱いで、階段へ向かう。物音はなかった。電気もつけなかった。しかし恵が階段を上ろうとしたところで、リビングの扉が乱暴に開く。

 はめ込まれたすりガラスが割れそうな音を立てた。そんな鼓膜を揺さぶる音に、恵は思わず足を止めて振り向いた。


「……あんた、何言ったの」


 見たこともない顔だった。これまでの比ではない。まさに鬼の形相と言うにふさわしい顔の母が、恵を睨み付けていた。

「な、何……?」

「昼間に電話が来たんだよ! 私があんたに虐待してるって聞いたから学校まで来てくれって! しかもそのせいであんたが無駄に被害者ぶってクラスの子を虐めてるって!」

 一瞬、何を言われたのかが分からなかった。

 次には頭が真っ白になる。戸惑いと混乱が襲う。まるで沙織に暴露された日のように、心臓が嫌な音を立てる。呼吸が苦しくなって、指先は微かに震えていた。

 どうしてと、そんなことを考えながらも、恵の中の冷静な部分が簡単に答えを弾き出す。

 学校からの電話ということは、相手は河上で間違いはないだろう。

(……なんでそんな余計なこと……そんなことを言ったら、また殴られるって分かってるはずなのに)

 いや、分かっているからこそだろうか。

 最近の河上は、恵に対してまったく教師の顔をしていない。日に日に憎しみを募らせ、嫌がらせをするたびに歪んでいる。

 日々恵を苦しめることを考える中、その延長線上にあった最悪な方法で、恵に復讐をしたのではないだろうか。

(……ううん、そんなわけない。だってあの人も一応教師で……)

 本当は恵にも分かっている。恵には味方なんか居ない。恵は嫌われ者で厄介者だ。誰からも必要になんかされていなくて、むしろ消えろと思われている。

 分かっている。分かっているけれど、それでも否定したかったのは、祥介という存在でなんとか保たれていた生きる気力が、すべて尽きてしまいそうだったからだ。

「あんた何で言ったわけ? そしたら私がどう思われるかとか考えなかった? ねえ、捕まれとか思ってたんでしょ。あんたもあの人みたいに、私に消えろって思ってたんでしょ!」

「ちが、」

 母は恵の制服の襟を引っ掴むと、そのまま乱暴にリビングへと引っ張り歩く。

「なんであんたにまで思われないといけないの! 誰がここまで育ててやったと思ってんの! あんたは黙って息してるだけでいいんだよ! それ以上余計なことすんな!」

 引きずり倒された恵は、髪の毛を掴まれて何度も何度もカラスのテーブルへと打ち付けられた。

「私は今頃学校で教育委員会とかに何か言われてんだよ! あんたのせいで! 警察にも捕まるかもしれない! あんたなんかのせいで!」

 昼に電話が来たと言っていたが、恵は学校では母の姿を見ていない。つまり母は学校に来てくれという学校側の要請には応じなかったということである。

 その反抗的な行為がいつも以上に不安を煽ったのかもしれない。母は普段よりも不安定になっているようだった。

「人生めちゃくちゃにされたんだ、あんたに! あの人のことも、私のこれからだってあんたのせいで全部めちゃくちゃ! これから私は捕まるんだよ! 警察に捕まって、あの人は不倫相手なんかと二人で笑って暮らすんだ!」

 何度か打たれた後、こめかみにテーブルの角が強くぶつかった。恵の意識がぐらりと揺れたが、それもほんの一瞬である。いっそ意識をなくしたほうが幸せだっただろう。不運にも意識のある恵は衝撃を理解することに時間がかかり、その場から母が離れたことにも気付かない。


 何が起きたのか。痛みと違和感からこめかみに触れた手には、真っ赤な血がついていた。よく見ればテーブルに鼻血も垂れている。道理であちこちが痛むなと、恵はどこか冷静に考えていた。


「どうせ捕まるんなら、あんたなんか殺してやる。あんたが居たから狂ったんだよ。あの人のことだってそう! あんたが居たからいけないんだ。あんたが生きてることが許せない」

 まだ霞む視界を母に向けた恵は、その手に包丁が握られていることを理解するのに一瞬遅れた。

 このままでは殺される。

 本能がそれを拒否すると、恵の体が自然と動く。

「待て、この!」

 フラフラとした動きで立ち上がった恵を、母がすぐさま捕まえた。頭を何度も打ち付けられた恵がそれに逆えるはずもなく、されるがままに再びテーブルに投げつけられる。

「警察に行こうとしたんだろ! 私を警察につき出すつもりだったんだ、あんたは! ここまで育ててやった親になんてこと考えてんの!」

 テーブルの縁で後頭部を打った恵は、今度こそ脳が揺れたのかしっかりと数秒意識が飛んだ。


 そうして次に目を開けた時には、恵に馬乗りになった母が、包丁を振り上げているのが見えた。


 最後、何を言われたのかは恵にはよく分からなかった。

 なにせ殺される直前である。何を言われているかなんて悠長に考えている暇もない。

 真っ先に感じたのは異物感だった。腹に突き刺さる包丁からは、とっさに痛みも感じない。やがて体に異物感が馴染むと、今度はなぜか傷口が熱を持つ。


 熱い、と、恵はぼんやりと思っていた。

 焦点の合わない瞳を母に向けて、その形相を最後まで見つめながら、ただひたすらに何度も繰り返し体中を刃が貫くのを、まるで他人事のように眺めているだけだった。

 母は最後まで何かを叫んでいた。それを聞きながら、ようやく痛みを感じ始めた頃。母の憎悪の表情を最後に、恵は静かに目を閉じた。


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