冷たい大人(1)
「原因は、お父さんの不倫。お母さんはお父さんが本当に大好きだから、お父さんが不倫をしたのは私のせいだっていっつも殴る」
「そんなの、」
「うん。本当は違うんだよ。分かってる」
そんなことは、子どもである恵にだって分かる。
「九歳の時、お父さんとは仲良くなれないかなって思って話しかけた。駄目だったよ。私が居なきゃ離婚できたのにって言われたの。……それからもずっと、私のことなんて見て見ぬ振りでね、不倫相手のところに行って帰らないこともある」
「もういいよ。辛いこと思い出さなくて、」
「辛い……そうだね。悲しくて、辛かった。なんで私ばっかりって、何回も何回も思ってた」
客観的に事実だけを述べるならば、恵は何もしていない。親の勝手な事情に巻き込まれただけの、可哀想な被害者である。
「……なんで義務教育も終えていない子どもが、親のことで悩まないといけないんだろうね」
変に落ち着いた声だった。
祥介のそんな声音を聞いたのは初めてのことである。いつもの穏やかさのない、むしろ棘さえ感じられるそれに驚いた恵は、伺うようにそちらに目を向けた。
「糸井くんも、何かあった?」
つい、そう聞いてしまうような顔をしていた。
声音に納得できる曇った表情だ。何かを思い出しているようにも見えるそれは、祥介の「内側」の部分にあるものなのだろう。
しかし恵の問いをどう思ったのか、祥介はパッと表情を和らげると、すぐにいつもの笑顔を浮かべた。
「何もないよ。ただ本当に、なんでだよって思っただけ」
祥介は体が弱いということは知っている。けれどそれが何の病気かも、どういう状態かも知らされていない恵には、祥介だって何も言えないのかもしれない。
聞いても変ではないだろうか。なんでお前がと、そうやって思われる可能性もある。
考えすぎる恵はいつもこうして無駄なことばかりを思って、二の足ばかりを踏んでいる。
「間宮さんいる?」
二人に気まずい沈黙が落ちた時、保健室の扉が開いた。
入ってきたのは担任教諭の河上と養護教諭で、恵を見つけると顔を見合わせて、担任教諭が恵を呼びつける。
「ごめんなさいね、間宮さん。二人で話したいの。校長室の隣に応接室があるから、そこまでいいかな」
気弱なイメージのある河上がそう言うと、恵の目的を果たすためのチャンスと思った祥介は存外あっさりと身を引いた。恵もすぐに祥介の考えを察して、連れられた先で相談するのがちょうど良いと覚悟を決める。
保健室を出ると、ちょうど五時間目の始まるチャイムが響いた。それに顔を上げた河上は、振り向くと「次の授業はおやすみにしてるから」と伝えて、イメージどおりの気弱な笑顔を見せる。
校長には許可を取っている、というような旨を聞いてもいないのに語ると、河上は応接室へと先に踏み入れた。当然恵は入ったこともない場所である。そのため少しばかり気後れしてしまったのだが、今からこれではいけないとすぐに気持ちを立て直す。
これからもっと勇気が要る。場所が変わっただけで緊張していたのでは、恵はきっと最後まで相談できないだろう。
「ここに間宮さんを呼んだのはね、昼休みに星沢さんと笠井さんが喧嘩をしてたからなの」
「……晴香と、笠井さんが?」
恵が去った後の話だろう。
晴香が立ち上がり、沙織に対して何かを言おうとしていたのまでは、恵も把握している。確かに晴香は怒ったような顔をしていた気はするが、その後に喧嘩にまで発展していたのは恵には予想外のことだった。
「そう。ほら、星沢さんていつも笑ってみんなと仲良くしてるでしょう? 怒ってるなんて見たこともなかったから、よほどのことだったんだと思うの。だから二人にそれぞれ話を聞こうと思ってるんだけど……時間が時間だったから、ひとまず笠井さんからしか聞けなくって」
「……それで、どうして私に?」
「笠井さんが、間宮さんは虐待を受けてるんだって言ってたから」
それは、あの教室で言ったのだろうか。だとしたらクラスメイトはその話を聞いたかもしれない。その前に沙織が大きな声でそれらしいことを言っていたからもう知られていてもおかしくはないのだが、それでもはっきりと言われるのとは違う。
「あ! あの、もちろん二人の時にそれを話したから!」
「事実です」
「え?」
「本当に虐待を受けてます」
先ほどのように、恵は袖をまくってみせた。するとそこからは青くなったものからすでに黒ずんでいるものまで、様々なアザが顔を出す。
河上の眉が眉間にシワを生んだ。きっと無意識だろう。
「九歳の頃からです」
「……そう」
何を言われるのかと、恵は河上の言葉を待つ。まずは同情が来るのか、それとも早速詳細を聞かれるのか。この若い女性教諭は、いったいどういう出方をするのか。恵は無意識に、まるで睨むような顔をして河上を強く見つめていた。
「……だけどね、それで喧嘩をさせるのは間違ってると思う」
一瞬、何を言われたのかが分からなかった。
予想の範疇を超えたそれを恵が理解するよりも早く、河上はため息を吐きながら続ける。
「笠井さんが言ってたの。間宮さんはいつも星沢さんを使って自分を仲間外れにするんだって。だから今回もカッとなって言わなくていいことも言っちゃったんですって。……確かに間宮さんの境遇は可哀想だけどね、だからって他の人に意地悪していい理由にはならないのよ」
まるで呆れたような顔でそう言って、河上はまだつらつらと説教を口にしていた。
ぼんやりとした中、恵は頑張って頭を働かせて、言われた言葉を一つ一つ理解していく。
「自分がひどいことをされたから、他人にもひどいことをしていいだろうっていうのはね、間違った思考なの。いずれ、全部自分に返ってきちゃうんだから」
恵は何もしていない。なのにどうしてそんなことを言われているのかが分からず、しかし沙織が嘘をついて勘違いされているのだということに気付き、口を開く。
「……私、そんなことしてません」
それでも恵が今言えるのは、そんなありきたりな言葉だけだった。
「じゃあ笠井さんが嘘をついてるの? 泣いてたのよ?」
「絶対してません。笠井さんは私のことが嫌いだからそう言うんです。だからわざと教室で虐待を受けてるなんて言い出したんです」
「だけどあなたたち、星沢さんも含めてよく三人で一緒に居るじゃないの。嫌いなら一緒になんて居られないでしょ。どうしてそんなに笠井さんを仲間外れにしたがるの」
「だから! なんで先生は笠井さんばっかり信じるんですか!」
「落ち着いて、間宮さん」
そんな呆れた様子さえも、恵には受け入れられなかった。
これでは悪者は恵だ。まるで恵が、沙織を排除しようとしているようである。
「泣いたら信じるんですか? じゃあ私が今泣いてれば、先生は私のことを信じてくれたんですか?」
「そういう問題じゃないの。私はただ客観的にものを言ってるだけよ。感情的になってしまったらどちらかに偏った意見しか言えなくなるでしょう」
「もう偏ったことしか言ってないくせに」
いや、違う。
河上の表情を見ていた恵は、不意に気付いてしまった。
頑なな態度と、貼り付けたような「呆れた」表情。それはどこか演技くさく、薄っぺらな雰囲気さえ感じられる。
そして、本来は触れるべき「虐待」というところには一切触れてこようとしない。
これらを併せて考えれば、答えが見えるようだった。
河上は、恵一人を悪者にして、虐待があったこともすべて気付かなかったフリをしようとしている。流そうとしている。評価に関わるのか面倒ごとは避けたいのかは分からないが、一度そう思ってしまうと、それが正解なような気がした。
「……あっそ。結局先生って自分が大事なんですね。そうですよね、面倒くさいですよね、虐待とか言われても」
試すようにあえてそんな言い方をすると、河上がキッと強く恵を見つめる。
「間宮さん。今は間宮さんの話をしてるの。間宮さんの境遇も可哀想だと思うけどね、だからっていつまでも下を向いていたんじゃいけないでしょう? 他の子をいじめるなんて言語道断。そんなことじゃ間宮さんの環境は変わらないの」
「先生にやる気がないことはよく分かりました。もういいですか? 戻りたいんです」
「話が終わってないわ。……笠井さんとのことはどうなるの。本当だって思ってもいいのね?」
「私が何を言ったって、先生は私が笠井さんを仲間外れにしたって決めつけるじゃないですか。話を聞く気もない人に話せることなんかありません」
沙織のことだ。どうせ晴香を取られた腹いせにと、よりリアルに意地悪をされたと思わせるために涙を使ったのだろう。
それくらいのことならば沙織は平気でやってのける。これまでずっと沙織に嫌われて接してきた恵だからこそ、確信を持ってそう思えた。
「先生はただ平等に話を聞こうって思ってるだけじゃないの。なのに間宮さんが怒って話してくれないだけでしょう? ……環境が悪いのは分かるけどね、それを言い訳にして素直にならないのは違うんじゃないかな」
「もういいですどうでも。先生に相談したって無駄でした。大人の事情があるのか知りませんけど、これ以上関わらないでください……!」
「せっかく寄り添おうとしてる人にそんな言い方、」
「寄り添うつもりなら話くらい聞いてくれますよ。でも先生はずっと笠井さんばっかり信じて何も聞いてくれない。もういいです。ありがとうございました」
「ちょっと待ちなさい!」
恵が強引に応接室を出ると、少しばかり追いかけてきた河上はしかしすぐに諦めたようだった。
恵からしても、もう話すことはない。最初から保身に走って沙織を庇うことしか考えない河上相手には、これ以上何を言っても無駄なのだ。
(先生に相談が失敗したなら、晴香や笠井さんと仲良くしてみるしか手はない……?)
だけど沙織は、今回のことで恵を陥れようとクラスの真ん中で虐待を暴露して、教師にまで嘘をついた。そんな相手と、積極的に仲良くしようと思えるわけもない。今後はクラスメイトだって目の色を変えるだろう。そうなると、晴香や沙織以外のクラスメイトと仲良くしようにも難しい。
沙織に引っ掻き回されて、何もかもを失敗した。恵にはそれがひどく腹立たしく思えていた。
その後は教室に戻り、体育が終わるまでの時間を本を読んで過ごしていた。広い教室に一人。寂しいという気持ちはなく、むしろ過ごしやすささえ感じられる。
そうしてチャイムが鳴って、女子更衣室代わりになる教室にクラスメイトが帰ってくると、思ったとおり、クラスメイトはどことなくぎこちない様子で恵を見ていた。
何を思っているのかはその目を見れば分かる。可哀想だ、という目ならまだいいだろう。しかしそんな優しいものではない。まったく興味もなさそうにしているか、面倒ごとには関わりたくないと敬遠しているかのどちらかだった。
世間が冷たい、とは思わない。河上のこともそうだ。
彼らはただ、自分が一番大事なだけである。
「めぐ」
着替えた晴香が、残り数分という短い時間にも恵の元にやって来る。しかしすぐにどこからか晴香を呼ぶ声が上がり、無視して本を読み続ける恵を見た晴香は戸惑いながらも、呼ばれた方へと足を向けた。
そちらからはやがて、たわいもない話と笑い声が聞こえてくる。きっと、厄介ごとである恵から晴香を引き離すのが目的だったのだろう。気付いていながらも恵は興味もないために、ただ静かに本をめくる。
次はどうしようか。頭の中は、そればかりだった。