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学校という檻(2)


 優しい声に心のどこかで安堵した恵は、反射的に顔を上げた。

 彼は二度目の死を迎えた恵とは接点がないはずだ。それなのにどうして恵に話しかけるのか。どうしてわざわざ教室に来てくれたのか。そんなことを頭の片隅で考えながら、それでも逃げ出す先を見つけた恵は、一目散にそちらに駆け出した。


「行こう」


 祥介が恵の手を引っ張る。小走りに連れられて、恵は振り返ることもない。

 祥介は体が弱いために、教室から離れると息を整えるように緩やかに歩き始めた。そのことに対して祥介が「ごめんね」と申し訳なさそうに笑ったが、恵には責める気持ちは微塵もないために静かに頭を左右に振る。


 あの場から連れ出してくれただけで充分だった。恵にはやはり祥介が救いなのだと思えた。恵の中に渦巻いていた気分の悪さが、祥介の存在を認めてから薄らいでいるのもそのためだろう。

 祥介は唯一、恵を見てくれた。恵に生きてほしいと言ってくれた。恵の存在は決して「邪魔」ではないと思わせてくれたその存在に、安堵しないわけがない。


 呼吸が整う。心音が落ち着く。体温も戻って、冷静に考えられるまでになった。


 恵が連れられたのは保健室だった。入り際、祥介が「今先生職員室行ってるから」と恵に伝えて、扉に下げられた札を見せる。そこには確かに「用のある生徒は職員室まで」と書かれていた。

「高校生にもなって昼休みに怪我をするなんてあんまりないからね」

 祥介が笑って、いつも座っているのだろう椅子に腰掛けた。

「間宮さんも座って」

 祥介から少し離れた位置にあるパイプ椅子を示されて、恵は自然とそこに座る。

「今日学校に来て本当に良かった。……他人は無神経だよね」

「あ……うん。えっと、ありがとう。さっきは助かった。正直、どうしたらいいのかも、何を言ったらいいのかも分からなかったから……糸井くんが来てくれなかったら私……」

 他人は無神経だよね。そんな言葉一つでも、恵の心は軽くなる。

「ううん。僕は何もしてないよ。でも余計なことじゃなかったなら良かった。昼休みを選んで会いに行って正解だったね」

「……今日は学校に来てたんだね」

 祥介の目が、安堵した表情の恵をまっすぐにとらえる。

「うん。来なくてもよかったんだけどね。間宮さんと話さなきゃって思って。……まとまった時間が欲しくて、朝から昼休みに迎えに行こうって決めてたんだ」

「……なんでそんなふうに思ったの?」

「なんで? 僕が聞きたいこともそれだったから。……間宮さんはなんでまた死んだの?」

 静かな保健室に、祥介の言葉がやけに大きく響く。

 恵の二度目の死を、祥介は知らないはずである。それなのにどうして祥介は、それを知っているような口ぶりで恵に質問しているのか。


 少し前にも疑問に思ったことが今、恵の中によみがえる。

 ――二度目の死を迎えたはずの恵とは接点がないはずなのに、どうして話しかけるのか。


 一度目の死の後に、祥介と関わりを持った。しかし二度目の後にはなかったのだ。

「……糸井くんは、どうして私が死んだことが分かったの?」

「僕の質問に答えて」

「糸井くんが教えてくれたら答える」

 沈黙が落ちる。その間、互いに引かない目をして見合っていたのだが、やがて折れたのは祥介だった。

 それの合図であるように、祥介は深くため息を吐き出した。


「……僕も、繰り返してるから」


 言いづらそうに、言いたくなさそうに、祥介は続ける。


「間宮さんが飛び降りるたびに、僕も同じところに戻るんだよ」


 それは、恵には不思議な現象だった。

 まったく何の関係性もない相手が、どういうわけか恵が死ぬたびに同じように人生を繰り返している。同じ時間帯に戻っている。だから彼は最初に死んだ時にも「少し前の時間に戻っている」と分かったのかと、恵はようやく腑に落ちた。

 それでも「どうして祥介が」という疑問は残ったままだ。

「……なんで糸井くんなんだろう」

 疑問はそのまま、恵の口からコロリと落ちる。

 祥介は驚いたように目を見開いた後、すぐに淡く笑みを浮かべた。


「……どうしてだろうね」


 それは、いつかのような曖昧な答えだ。

 あまりにも濁され過ぎると、さすがに恵も察する。祥介はきっと恵よりも深くこの状況を理解している。それでも恵に全てを話そうとはせず、恵のことばかりに専念している。

 なぜ、とは思う。どうしてそんなことまで、とも。しかし恵はなぜか踏み込めず、諦め気味にふうと軽く息を吐いた。

 恵はそもそも踏み込むことに慣れていない。誰相手にでもしっかりと一線を引いて接してきた過去が、そういう性質にしてしまったのだろう。踏み込み方も知らなければ聞き方も分からない。考え過ぎる性分であるのも災いして、考えすぎた末に「自分は相手にとって友達ですらないかもしれないのに、一歩踏み込むのはおこがましいことではないか」と結論付けて足踏みしてしまう。


 今回もそうだ。本当は問いただしてしまいたい。

 しかし、もし嫌な顔をされたらどうするのか。

 祥介はただでさえ恵に理解を示してくれた唯一の人物だ。その相手に「鬱陶しいな」と思われて、恵はその時どうするのか。


「……変だね、本当」

 やはり真実は聞けないまま、恵は少しばかり目を伏せる。

「間宮さんは、どうしてまた死んでしまったの? 何かがあったからだよね?」

 焦れた様子で話を戻した祥介が、前のめりに問いかけた。

 確信がある物言いだ。まるで、何かがなければ恵が死ぬはずはないと信頼してくれているようである。

「……糸井くんに言われて、できることをやろうと思ったんだよ。……お母さんとちょっとでも分かり合えたらって……声をかけた。内容なんか決まってなかったけど、明日は晴れかなとか、そんなことでもいいかなって、もう勢いで」

「……そっか」

「馬鹿みたいだよね。そんなことで何か変わるなら、これまでに変わってるはずなのに。何を期待してたんだろうね。本当、馬鹿みたい」

 あの時は確かに、うまくいくと思えていた。

 何より、祥介という存在が恵の背を押していたのだ。

「殴られなかったけどね、別に……でも、久しぶりに目を見たら怖くなって。私、あんな目でお母さんから見られてたんだって、実は初めて知った」

 浮かぶのは、明確な憎悪だけだった。

「死ねって言われたのもあるけど……目は口程に物を言うって言葉があるでしょ。あれだと思う。……死んだほうがいいんだなって、思わされた」

「……そんなわけない。死んだほうがいいなんて、あるわけないだろ!」

 いつも自習をしているのであろうテーブルの上で、祥介の拳が震えている。


「なんでそんなに淡々と言えるんだよ。なんで屋上での時みたいに泣かないんだよ。親にそんな扱いされて怖くないわけないだろ。傷つかないわけないだろ。なのになんで……僕のところに来ずに、一人で死んじゃうんだよ」


 どうして祥介がそこまで恵を思ってくれるのか。どうして恵のことで悔しそうにしてくれるのか。その内情を、恵は知らない。それでも祥介に裏があるとは思えないために、言葉だけはすんなりと恵の中に入ってくる。

「でもさ、そうやって生きないと私、この歳まで生きてなかったかもしれないんだよ。最初に親に殴られた九歳の頃から五年もさ、泣いてばっかりいたら折れちゃってただろうし」

「それは……」

「自衛なの、これも。……最初にね、糸井くんと会った時にはいろいろ限界で、甘えちゃったけど……」

「じゃあ今も甘えたらいいよ。僕は体も弱いし頼りないけど、話を聞くことくらいならいくらでもできる」

「じゃあ、糸井くんが居なくなったら?」

 祥介の解けた拳が、ピクリと揺らいだ。

「糸井くんに全部頼って、甘えて、その時に糸井くんが居なくなったら、私はそれからもう立てないよ。きっとすぐに折れる。それくらい、誰かに縋るのは怖いことなの」

 恵が思うよりも、うんと重い間が落ちた。


 祥介は体が弱い。だからきっと「居なくなったら」という言葉に反応して、それ以上は何も言えない。

 恵は祥介を傷つけるかもしれないと分かっていながらも、もう踏み込まないでくれと、祥介に対して大きな一線を引いた。


 少し前に「他人は無神経だ」と言っていた祥介である。今回のことで、恵のこともそうやって割り切るかもしれない。

「……ごめん。僕また、何も知らないのに余計なこと言った」

「え?」

「屋上でも、間宮さんが頑張ってること踏みにじるみたいなこと言って怒られただろ。……今もそうだ。僕は僕のことばっかりを押し付けて、間宮さんが思ってることなんか何一つ気遣えてない」

 どうして「無神経だね」と突き放さないのか。

 恵の頭にはそればかりがめぐっていた。今のは絶対に拒絶されるべき場面だった。祥介が自身の体の弱さを気にしているのなら尚更、そうでなくともそういった人に対して恵の言い方はあまりにも酷いものだっただろう。


 いつかは死ぬんでしょと、そう言っているようなものだ。


(……なんで、謝るの)

 まるで恵の方が、子どものようである。


「今のは、私が悪いよ。ごめんね。……頼りないわけじゃないの。ただ、私が臆病なだけ。……いろんな人と希薄な関係だけを続けてきたから、糸井くんみたいに突然近づいてくる人に慣れてないんだと思う」

 思ったよりも素直に、謝罪が漏れた。

 恵は誰とも、謝らなければならないことになったことがない。それは恵いわくの「希薄な関係」を続けていたからで、謝罪が必要な会話にはそもそもならないからである。

 ほんの少し、希薄さを取り除いた先。それがきっと、今なのだ。


「……ごめん。糸井くん」


 喧嘩するほど仲がいいとはこういうことを言うのかと、恵はぼんやりと考えていた。

 確かに喧嘩なんて恵はしたことがなかった。仲がいいからこそ出来るものであるのだと、今ならばよく分かる。

 別に喧嘩をしたわけではない。それでも謝罪をする時の気まずさは、喧嘩の時と変わらないだろう。


「え……あ、ううん! 僕も、ほら、初対面だったくせにさ、一気に近づきすぎたっていうか、だから、その……僕もごめん」

 先ほどまでの悔しそうな姿はどこに行ったのか。祥介は少し頬を染めて、嬉しそうに表情を緩めている。

「……えっと……じゃあさ、僕も長生きできるように頑張るから、間宮さんも一緒に……その、何かがあったら、話してくれたりとかしてくれたら、嬉しいんだけど……」

「……うん。そうする」

「本当に? やった。約束ね!」

 嬉しそうに笑うと、祥介は「じゃあ早速」と姿勢を正す。

「次の作戦は、考えてたりする?」

「作戦?」

「どうするか、とか……?」

「……あ、うん。その……お母さんに話しかけても結局無駄で、しかもまた繰り返しちゃったから、それなら原因は家庭内じゃなくて学校にあるのかなって思ってね。……先生に相談してみる、とか、いつも一緒に居る友達と仲良くしてみる、とか……そんなところからやってみようかなって」

「……友達?」

 少し前の教室でのことを思い出したのか、祥介がやけに固い声を出した。

「友達はあんなこと言わないよ。……あれはただの敵だ」

 静まり返っていた教室での出来事だったために、すぐ外までなら聞こえていたのかもしれない。心底不愉快だと言わんばかりに顔を歪めた祥介は、怒りのぶつけ先も見つからないのか、ひとまず恵からは目を逸らした。

「でも本当のことだから」

「……本当のことなら言ってもいいの? 事実だからって相手が気にしてることをわざわざみんなの前で暴露するの? おかしいよそんなの。間違ってる。言わないってことは言いたくないってことだろ。なのにあんなふうに暴くなんて、悪意しか感じない」

「糸井くんは、最初から何も聞かないね」

 恵から逸れていた祥介の視線が、一瞬だけ泳いだ。


「私、虐待を受けてるの。九歳の頃からずっと」


 落ち着いた様子で、恵は袖をまくり上げる。

 そこにはいくつもの痛々しい傷跡が、様々な色で残されていた。

 

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