ここにあること(2)
「めぐ! 一年も起きないってある!? ドラマじゃん!」
晴香の第一声はそれだった。泣きそうな顔をして、恵のベッドに突っ伏している。恵は思わず眉を下げる。二度と戻りたくないと思っていた場所にかえってきたというのに、どういうわけか安心していた。
晴香は何度も謝っていた。これまでのことや沙織のことも、なぜか晴香が申し訳なさそうに頭を下げた。恵は特に気にしていなかったし、今はその過去あっての今だと思えばなぜか少しだけ嬉しいようにも思えた。
恵が眠っていた間のことを詳しく教えてもらえたのは、医師の診察が終わってひととおり落ち着いてからのことである。
晴香は言いづらそうに言葉を途切れさせながら、それでもしっかりと恵の「現実」を語ってくれた。
恵はやはり、母に刺されて死にかけていたようだった。
恵が見た「現実」と違うのは、そこでは「殺された」とされていたというところである。とはいえ何度も刺されたのには違いないためにこんなに体が重いのかと、現在の状態も納得ができた。
そしてまたしても恵の記憶とは違うのが、母が自首をしたというところだった。夢の中では「父の通報で恵の母が捕まった」とされていたはずだ。
「めぐのお母さん、自分で警察に電話したって聞いた。娘を刺しましたって、めちゃくちゃ後悔して泣いてたらしいけど……どうなんだろうね。人の親にこんなこと言うのもあれだけど、正直あんまり信用ならないというか」
晴香は「ごめん」と付け足して、けれど申し訳なさそうな感じもなく苦笑を漏らす。
そして恵が今後どうなるのか、というところだが、養護教諭の例の手助けもあり、さらには今回の事件が起きたために、児童養護施設に入れる手続きがあらゆる段階を飛ばして完了していた。退院したらそちらに部屋があるために、もうあの家に帰る必要もないという。
これからは何にも怯える必要はない。殴られることもない。罵られることもない。
恵はそれを思うだけで、世界がずいぶん晴れやかに思える。
「……ありがとう、晴香」
恵がそうつぶやくと、晴香は不思議そうに目を瞬く。
「私のために怒ってくれてたよね」
「……え? な、何が?」
「笠井さんとか、みんなに」
「えっ! なんで知ってんの!?」
驚いたようなそんな問いかけは、苦笑と共に受け流した。いつかは言ってみてもいい。祥介が言っていた「繰り返し」の話も晴香は信じていたために、きっと恵の話も信じてくれるはずである。
だけど今は何を言えば良いのかが分からなくて、恵は別の話題を持ちかける。目が覚めてからずっと気になっていたことがあったのだ。
「糸井くんは?」
やけに落ち着いた恵の問いかけに、晴香は動きを止めた。ゆっくりと視線を手元に落とす。まずいことを聞いてしまったのだろうか。そういえば祥介は手術をすると言って以来、恵の元に姿を現していない。
そもそもあの体で飛び降りたのだからその後が大変だったのではないだろうか。いや、もしかしたら「飛び降りた」ということ自体もなくなっているのか。
「……糸井くんは飛び降りたの? どういうことになってる?」
祥介は恵の目の前で身を投げた。怖い、助けて、死にたくないと言いながら、それでもしっかりと自らの意思で踏み出したのだ。
この場面に「夢」と「現実」での情報の食い違いはあるのだろうか。恵はひとまずそれが気になって仕方がない。
「……めぐ、どこまで覚えてる?」
「どこまで?」
「……糸井がね、自分は死んでも生き返るんだって言ってたの。それはめぐもそうだって。……めぐが二回自殺したって聞いたけど、それは覚えてる……?」
祥介が晴香と養護教諭に「繰り返している」という話をしたのは、祥介が飛び降りる前の話である。その話をしたからこそ彼が死ぬことに反対されなかったのだから間違いはない。
しかしそれだと少しおかしい。繰り返しが既に起きている状況で、晴香がそれを理解している。
これまでの傾向を考えれば、祥介が死ぬ前までのことは、祥介と恵以外はすべてを忘れているはずである。
「なんで、晴香……繰り返す前のことを覚えてるの?」
言われた意味が分からなかったのか、晴香は微かに首を傾げる。
「私は、二回死んだことをしっかりと覚えてる。だけど生き返ってた。糸井くんもだよ」
「……そう、なんだ」
「なんでそれを晴香も覚えてるの? 繰り返す前のことはみんな覚えてなんかないのに……」
そこまで言われてようやく、晴香は恵の言葉の意味を理解したようだった。
晴香は一度「ああ」と声を上げると、少しだけ困ったような笑顔を浮かべた。
「何でかは分からないよ。だけど覚えてた。めぐが最初は『殺された』っていうのも、糸井が飛び降りてめぐを生き返らせるんだって言って、それを見送ったのまでしっかり記憶にある。ちなみに三角先生も覚えてるってさ」
「……三角先生?」
誰のことかが分かっていない恵に、晴香は「保健室の先生じゃん」とため息まじりに教える。呆れながらも少し嬉しそうな様子だ。
「糸井はさ、死ねなかったよ。だからそこが私には分からなかった。糸井が死ななかったのに、なんでめぐが生きてるのか」
「……晴香はどんな感じで繰り返したの?」
「……気がついたら教室に居て、糸井が学校の屋上から飛び降りたって話を聞いてた。そのあと、先生がめぐは意識不明の重体で入院中って言ってたから、死んでないって分かって、これが『繰り返す』ことなんだって理解した感じ」
変な感覚だよ、本当に。そう続けて、晴香は参ったと言わんばかりに眉を下げる。
「そうなんだ……。だけど糸井くんね、本当は死んだんだよ。ちゃんと死んでた」
「え? でも糸井、運よく生垣の上に落ちて……体が弱かったからそっちの方で大変だったけど、でも思ったより順調に退院してたよ?」
「うん。それでも私、見たの。糸井くんは死んだ」
あの日。
死にたくないと言っていた少年は、確かに無残に死んでいた。
「たぶん、今度は私が、糸井くんを生き返らせた」
「……めぐが?」
その証拠に、時間は戻っているわけではない。
怪訝そうな晴香に、恵は思わず笑みをこぼす。それはこれまでに見たことがないほど緩んでいて、晴香は目を丸くした。
「生きたいと思ったの。大嫌いだったこの世界で」
その言葉に、晴香の表情が一気に強張る。けれど悲しそうではなく、恵から前向きな発言が出て嬉しいやら、それでも恵にとっては地獄となるかもしれない選択を複雑に思っているやらで、様々な感情がないまぜになっているようだった。
感情がすべて表示に出ている晴香を前に、恵が小さく口を開く。
「……そんな顔しないでよ。晴香のおかげでもあるんだよ」
「……どうかな。私、何もできなかったし。糸井みたいに、めぐのために死ねなかった」
「晴香は繰り返してないんだから死ぬ必要なんかない」
「そうかもしれないけど……」
「私ね、殺されてから夢の世界に居たのか、二人のこと見てたの。これまでのこともずっと。私が知らなかったこと全部見てきた」
なんとなく「馬鹿にされるかも」とは思わなかった。晴香は「繰り返し」の話を信じてくれていたからかもしれない。案の定、晴香は真剣な顔でこくりと頷く。
「ありがとう、晴香。私のこと守ってくれて。……気付かなくてごめん。晴香が居てくれてよかった」
ふるふると、晴香の唇が震える。への字になった口元と涙を堪える表情はあまりに不細工だが、きっと恵も同じ顔をしているのだろう。
「っとだよ! こんだけそばに居たのにさあ!」
とうとうぼろりと晴香の目から涙がこぼれ落ちると、それを皮切りに、二人はわんわんと声を出して泣き始めた。
途中、看護師がやってきて二人の様子に驚いていたが、あえて触れずに用事を済ませてすぐに立ち去った。「大人はすごいね、わたしなら絶対何があったから聞いてる」という晴香の震える言葉には、恵も晴れやかな笑みを浮かべた。
「そうだ。糸井くんにも会いたいと思ってるんだけど……連絡先知ってる?」
恵が切り出したのは、二人が落ち着いた頃だった。
晴香は少し考える素振りを見せたが、すぐにスマートフォンを取り出す。
「送る。連絡してやってよ。糸井、めぐが起きないから意味分からない方向に落ち込んじゃっててさ。慰めてやって」
可笑しい、と言わんばかりの含み笑顔。まるで悪戯する子どものような晴香に、恵はわけも分からず頷いた。
トークアプリに追加された名前がひとつ。それを見ていれば、胸が暖かくなるようだった。
「それじゃあ私は一旦帰るね。めぐ、明日も来るから」
「あ、ありがとう。その……楽しみにしてる」
照れくさそうなその言葉に晴香はまたしても目を潤ませたが、次は涙を見せまいと我慢をして、逃げるように病室から出て行った。
「連絡……してみようかな……」
祥介とのトークルームを開く。しかしいざ開いてみると、何を伝えれば良いのか分からない。
これまでずっと他人を遠ざけていた弊害である。
「……久しぶり、は違うし……起きたよ、もなんかちょっと……会いたい、とかはさすがになぁ……」
打っては消して、消しては打っての繰り返し。しばらくそれを続けていたが、結局行き詰まって一旦考えることをやめるかとスマートフォンをベッドに置いた。
窓の外には、まるで最後の日のような、澄み切った晴天が広がっていた。雲ひとつない清々しい青だ。しかし今はあのときよりも、うんと美しい彩に見える。
そう思えるのは、恵の気持ちが変わったからだろうか。
生きようと思った。希望なんか感じたこともないこの"現実"で生きていきたいと、祥介と晴香が思わせてくれたからである。
(糸井くん……)
僕は弱い。泣きそうな顔をしてそう言った祥介は今、どこで何をしているのだろう。
手術はどうなったのか。恵が居ない間は大丈夫だったのか。学校は、家族のことは。聞きたいことは山ほどある。それなのにどうして、祥介は今、そばに居てくれないのだろうか。
「会いたいなぁ……」
つぶやけども一人。静まり返った病室に溶けた言葉は、誰に拾われることもなく静かに消えた。
それから恵は、丸々通えなかった中学三年という期間を、留年という形で過ごすこととなった。当然、転校先での話である。
転校先は施設から近い場所だった。新しいクラスメイトたちは穏やかで、恵が一つ年上だと知っても特に気に留めることもない。ここならば良い友人が出来るだろうと、そんな確信さえ持てる優しい場所だった。
「ねえ、めぐちゃんていっつも携帯見てるよね」
新しいクラスで仲良くなった友人が、何の気なしに指摘した。恵も無意識の行動である。そのため驚いたような顔をして振り返れば、ニヤニヤと笑う友人と目が合った。
「もしかして彼氏居る?」
いったい何を言われるのかと、少し身構えていた恵が言われたのは、思いつきもしなかった言葉だった。
そんな会話は誰ともしたことがない。恵自身がそういった会話を出来る状態ではなかった上に、そんなことを話すほど親しい友人も居なかった。しかし思い返してみれば恵もまだまだ思春期である。恋愛の話を振られたとしても、何もおかしなことはないだろう。
そうか自分にはもう恋愛ができる余裕があるのかと、恵にとっては新鮮な発見である。
「……居ない、けど」
「えー、うそだ。今の間はうそ!」
「いや、本当だよ。ごめん、ちょっとそういう話をしたことがなくて、驚いたっていうか……」
「……え、恋バナやんないの!?」
信じられない、という顔になった友人は、結局自身の好きな人の話をその後長く恵に聞かせた。どうやら恵が恋愛の話をしないことを、恋愛に興味がないからだと思ったらしい。
友人の楽しそうな顔を見ていると、恵もなぜか嬉しい気持ちになる。心に壁を作らなくなったからかもしれない。あるいは、この友人が裏表なく恵に笑いかけてくれるからだろうか。にこにこと話を聞いていると、クラスメイトの二人が恵たちの元にやって来た。
「美咲、何話してんのー?」
「あ、もしかして鈴木くんの話?」
「しー、聞こえるから静かにして!」
揶揄うような言葉に、美咲は顔を真っ赤にしていた。嫌な雰囲気になったわけではない。三人はいつも一緒にいるし、美咲の好きな人の話ももう聞き飽きているのだろう。やって来た二人も近くの椅子に座ると、話に参加する姿勢を見せた。
これまで何人かで集まるような機会はなかったために、恵は思わず身構えた。慣れない空気感である。どうすれば良いのかも分からないし、どうやって会話に参加するのかも分からない。
そんな恵の変化に気付いたのは美咲だった。
「……あ、そうだめぐちゃん。今度このメンバーで遊ばない? 実はこの二人もめぐちゃんのこと気になってるんだよね」
「あ! 美咲、それは言わないでって言ったのに!」
「そうだよー、なんでバラしちゃうのー! 人見知りっぽかったからゆっくりお友達になるつもりだったのにー!」
「鈴木くんの話をおっきい声でしたのが悪い」
「……き、気になってるって、なんで……」
話がコロコロと展開する中、恵だけは進めないでいた。
三人がキョトンとした顔で振り返る。そうして一度それぞれと目を合わせると、ふたたび恵に視線を戻した。
「なんでって……そんなの、友達になるのに理由なんかなくない?」
「そうだよー。強いて言うなら直感ってやつ? 美咲が一番乗りで声かけちゃったから、うちら声掛けづらくってー」
「そうだ、今日の放課後とかどう!? ね、スタバの新作飲みにいきたい!」
あれよあれよという間に、放課後の予定を決められたようだ。
今までにない感覚である。嬉しいような恥ずかしいような、少しだけ怖いような気もする。
恵と連絡先を交換すると、三人は今度、放課後に何をするかで盛り上がっていた。
「あの」
恵の言葉に、その場の目が一気に集まった。しかし今度は身構えることもない。
「……あの、連絡したい人が居て」
「あ、彼氏?」
「……彼氏じゃないんだけど、会いたい人……もうずっと会ってないんだけど、会いに来てくれない理由が分からなくて、連絡するにも躊躇ってるの。どう送ればいいかな」
「え! 任せて任せて! みんなで考えよ!」
「あんた恋バナ好きだもんね」
身を乗り出した三人は、さっそく恵に聴取を始めた。