ここにあること(1)
娘はずっと愛されたかった。幼い日のように母が少しでも笑顔を見せてくれたなら、少しでも抱きしめさせてくれたならどれほど心は救われただろう。
そんな娘も、成長するにつれてだんだんと心が麻痺していく。
純粋な気持ちは気がつけば失せていた。抗うことも、問うことさえもいつからかしなくなっていた。
殴られることが当たり前になり、それを受け入れることに疑問もなくなる。やめてとも思わない。娘はただ「早く終われ」と諦めを持て余すようになっていた。
娘の中から、かつての母の面影が薄らぐ。幸福な思い出は霞み、記憶の奥へ奥へと押し込められる。
人間とは嫌なことは自然と忘れる生き物である。それはおおよそ自分の心を守るためで、そうしなければ生きていけないと自身の心が勝手に判断するからである。
覚えていては心を守れなかったのだろう。
娘は自然と、幸福だった頃の母との記憶を葬った。大切な人から憎まれているという現実に耐えられなかったのだ。
とはいえその自衛は、ほんの少しだけ遅すぎたのか。
娘はすでに死に取り憑かれていた。憧憬すら覚えるようになっていた。それでもすぐに死のうとしなかったのは、娘にまだ生存本能があったからである。
死を願いながら死を恐れて、娘はいつも危うい天秤をうまくつり合わせていた。
その天秤は常に揺らいでいた。水滴の一つでも落ちようものなら簡単に傾くほどには、あまりにも危険なバランスだった。
そこまでになれば、もはやきっかけも必要ない。
日常の中、天秤が振れる。なにがあったわけでもないのに、突然ぷつりとなにかが切れた。
『もう少し居てもいいですか』
遠くから声が聞こえた。
長く夢を見ていた気がする。しかし恵は、それがどんな夢だったのかも思い出せない。
居心地のいいふわふわとした感覚である。そんな感覚に浸りながらも、恵はなんとなく遠くに現実があることを察する。
"現実がある"。自分で思ったその言葉に、ひどく気分が悪くなった。
『いいですよ。毎日熱心ですね』
『はい。待ち遠しくて』
その弾んだ音は、真にそれを心待ちにしていると分かった。
はて「それ」とは何だったのか。恵は知っているような気がしたが、ぼんやりとした思考ではどうにも思い出せそうにない。
(なんだっけ……というか、なにをしていたんだっけ)
前後の記憶が曖昧だ。あまりよく覚えていない。この人は誰で、何を待っているのだろうか。そして恵はどうして今、こんなにも霞んだ世界で薄ぼんやりとした視界の中、恵がなんとなく嫌だと思う"現実"を見ているのだろう。
『やっぱりここに居た』
『先生。よく分かりましたね』
『あなたのお見舞いも兼ねてるんだけどね、これでも。あなた、いっつもここに居るもの』
女性の声がする。知っている声だ。しかし誰だっただろう。"現実"のことを拒否しているからなのか、恵の頭はなに一つ思い出そうとしない。
(……だってそれを受け入れたら、すぐに『現実』に戻される)
もういっそこのままここに居ればいいじゃないかと、恵にはそんな気持ちさえ湧いてきた。そうだ、そうすれば恵は幸せなままでいられるだろう。現実なんて見なくても良い。このままここに居れば嫌だと思うようなことも起きない。
ずっとここに居続ければ……、
『あなたの手術までには目を覚ますといいわね』
『そうですね』
手術。そんな言葉を聞いて、恵は唐突に現実が気になった。
(……そっか。手術。そうだ、手術があるんだよね。……大丈夫かな)
あれ、だけど、いったい誰の、何の「手術」だっただろうか。
恵はほんの少しだけ考えたが、すぐにそれを放棄した。この場所は心地がいい。思い出せば、ここから離れなければならなくなるだろう。それだけはやはり嫌だった。
『体の調子はどう?』
『それは飛び降りた方のですか? それとも心臓?』
『この場合は前者ね』
『あれから半年も経ちますからね。植え込みに落ちたということもありますし、もう治ったも同然ですよ』
『死にかけてた子の言葉とは思えないわ……』
二人は楽しそうに会話を繰り返していた。それを遠くで聞きながら、恵はふと疑問を抱く。
(あれ……植え込み?)
彼は、そんなところに落ちていただろうか。
(ううん。だってあの時見下ろしたら……)
"あの時"とは、いったいいつのことだろう。いや、そもそも「彼」とは誰のことなのか。
ほんの少し現実が近づく。思考が微かに晴れて、恵はすぐに考えることを止めた。
忘れていればいい。思い出さないということは、思い出したくないということである。
『仕方がないですよ。僕は生かされたんです。……本当は死んでた』
『……なにを言っているの?』
『さあ?』
恵には何一つとして状況が分からなかったが、彼の声が楽しそうに弾んでいるということが、恵にはなんとなく嬉しく思えた。
彼はそれからも頻繁に恵の元を訪れた。
特別何か用事があるわけでもないらしく、彼はただ恵の元にやってきて一方的に話しかけると、一定時間で帰っていく。
彼の言うことは恵にはよく分からない。
手術の詳細の話も学校での出来事も、たまに出てくる「星沢さん」という人物のことも、恵はいまいちピンと来ない。しかし聞いている分には楽しく心地がいいために、恵はなんとなく、恵が嫌だと思う「現実」の話なのだろうと見当をつけていた。
とんだ矛盾だ。「現実」が嫌だと思っているくせに、その話を恵は楽しく聞いている。恵にも、自分自身があまり分からなかった。
そうして彼は少しすると「手術頑張るね」という報告を最後に、しばらく恵の元を訪れなくなった。それに恵は変な緊張感を抱いてしまったが、それがどうしてなのかも分からない。
ただ、絶対に成功してほしいと、それだけは強く願っていた。
このまま恵が死んでもいい。命を引き換えにしてでも彼の手術だけは成功させてくれと、本気で願えたほどである。
きっと彼は恵にとって大切な人だったのだろう。よく分からないながらに、恵にはそれが正しい認識に思えた。
恵の元を訪れたのは、実は彼だけではなかった。
彼が手術で訪れなくなる前にも、彼以外に「彼女」もよく恵の元へとやってきた。それは彼と共にいたあの女性とはまた違った人物で、性別は同じだがあの女性よりも彼女はうんと若く、それこそ彼と同年代の女の子である。
彼女は彼とは違い、あまり話すタイプではない。恵の隣に静かに座り、いつもスマートフォンをいじっている。時折ちらりと恵を見ては何かを話しかけるものの、今日あった出来事などを無駄に語るということは無かった。
彼女はいつも寂しそうな顔をしていた。弱音を吐き出すこともないが、その雰囲気が彼女の気持ちを恵に伝えているようだった。恵を見ては間を置いて、そしてふたたびスマートフォンへと視線を落とす。そんな彼女の様子を見るたび、恵はいつも心配になっていた。
彼女はどうして寂しそうにしているのだろうか。本当に分からないと思うのに、実は分かっているような気もする。けれどそれに気付けば待っているのは「現実」だということもなんとなく理解していたために、恵は知らんふりをすることしかできなかった。
恵は現実が嫌いだ。恵の現実にはいつも悲しいことばかりが起きる。楽しい気持ちにはなれない。心が苦しくて、目を塞いでしまいたくなる。どうしてかは忘れてしまったが、そんな現実にわざわざ目を向けようとはどうしても思えなかった。
目の前の現実から目を逸らし、すべてに知らないふりを決め込む。薄ぼんやりとした世界と意識の中でそんなふうに過ごし、いったいどれほどの時間が経ったのだろうか。
彼が手術をすると言って恵の元を訪れなくなってからは、もうずいぶんと時間が経っているような気がする。
もしかしたら失敗に終わったのか。そんなふうに思ったものの、彼ならば失敗していたとしてもきっと「あの時」のように恵にところに来てくれるのだろうから、来ていないということは生きているということである。
恵の知らないところででも彼が元気であるのならば、それだけで恵は嬉しかった。
季節は巡る。景色が変わり、服装も順繰りと目まぐるしい変化を遂げた。それも知らない恵はただ時の許すまま、やってくる者たちの言葉に耳を傾ける。
彼はやはり訪れなかった。件の「手術」の話を最後に、もうしばらく声を聞いていない。
『めぐ。もう卒業式だよ』
彼女の懐かしむような落ち着いた声が、一枚壁を隔てたようなぼやけた音で恵に届く。
『……あれからさ、沙織とか普通に登校してきてさ。なんかやるせないよね、何事もなかったみたいに世界が回ってる。めぐが苦しんでたことも、沙織がしたことも、何もかもを無視してるみたいだ』
卒業という単語が「振り返る」ということをさせてしまうのか、あるいは冬という季節がそうさせるのか。彼女はらしくもなくかすれた声を出すと、弱々しく恵を呼んだ。
『あとはめぐが起きるだけだよ。現実は悪くない。変わったんだ。クソみたいな奴らはまだまだ居るけど、そんな奴ら私がぶっ飛ばすからさ』
彼女の言葉に、恵の思考が少しはっきりと変わる。
"現実は悪くない"。それは確か、恵自身も思ったことだったかもしれない。
(……ううん。違う。悪くない、じゃない)
もっと正確で、明瞭で、確かなことを思っていたはずだ。
『一緒に、生きていこうよ』
生きたいと、恵はそう願っていたのではなかったか。
瞬間、ぶわりと記憶がよみがえる。幼い頃から現在まで、事細かに余計なことまでのすべての「現実」が、一気に恵に襲いかかった。
幸福と恐怖。絶望と希望。移り変わる感情が、恵に未来を知らせている。
長い長い夢を見ていた。
恵が殺された夢だ。大好きだった母に殺された。そうしてその先の未来で、死にたくないと言いながら"彼"が死んだ。
本当に長い夢だった。目を覚ましたくないと思えるほどには悲惨で、けれど同時に喜びもえられた。自分の気持ちと向き合えた。希望を見出せた。死にたいと思っていたはずなのに、その希望のせいでいつしか死ねなくなっていた。
はて、どうだろう。
それははたして、夢だったのか。
「めぐ……?」
恵は確かに彼と「一緒に生きよう」と、「あの時」に約束をしたのだ。
「めぐ!」
一瞬動きを止めた晴香は、すぐに枕元にあったナースコールを押し込む。恵はただうつろな瞳で、必死に何かを語りかけている晴香を見上げていた。