慟哭(2)
「ママ、大丈夫?」
まだ五歳の娘が聞く。それはとある日曜日の、やや陽の傾いた夕方のことだった。
泣き崩れている母は、どうやら心の底から愛している父にひどいことを言われて傷ついているらしい。洗い物を済ませてすぐ、リビングのソファで唐突に涙を流し始めた。
「大丈夫。ごめんね、ママ泣き虫だね」
「ううん」
娘が、小さな腕をいっぱいに広げて母を抱きしめた。
娘が泣けば、母はいつも抱きしめてくれる。娘は優しく抱きしめられると嬉しくなって、いつも涙が止まるのだ。
「ごめんね。ママ、ダメだね。しっかりしないといけないのにね。こんなママで本当にごめんね」
まだ泣き止まない母に、あとはなにをしてやれば落ち着くのだろうか。娘はもっとたくさん言葉を紡ぎたいのに、気持ちを正確に伝えられるだけの言葉をまだ知らなかった。
母の気持ちが今どういったものなのかも、娘はうまく言い当てることができない。それどころか娘にはどうして母が泣いているのかも分からない。
母は、父への愛が一方通行であることに嘆いている。しかそれは、五歳の娘にはまだ難しい複雑な感情である。
娘は困っていた。だから抱きしめることしかできなかった。
言葉は知らないけれど温もりは同じはずだと、娘はいつももらっているものを必死に母に伝えていた。
「……ありがとう。ふふ、なんだか元気になってきた。明日は少し大きな公園に行こっか」
母が優しく微笑んだ。先ほどまでの悲しい表情は残っているが、最初ほどではないことに娘は気付く。娘が悲しい時、母がいつも慰めてくれる。だから娘は母に少しでも温もりを返せたことが、心の底から嬉しかった。
母と娘は父に冷たくされながらも、二人で笑って生きていた。
母が笑顔になれたのはほかでもない娘のおかげである。娘はいつも母を構い、慰め、そして癒してくれたのだ。母にとって娘はまさに宝物であり、何ものにも代えがたい存在だった。
次第に彼女は「なにがあっても娘だけは守らなければ」と、母親としての責任感を強めていく。
母は娘を真に愛していた。娘には幸せであってほしかった。
けれど父は娘を冷たくあしらう。娘が声をかけても無視をする。視界にも入れない。笑顔も見せない。父のその態度に、娘はいつもひどく怯えていた。
母はそれが許せなかった。
自分はまだ良い。大人なために相手のことも考慮できる。言葉がなくとも理解ができることも多い。しかし娘は違う。娘はまだ子どもだ。それも、言葉さえもあまり知らない年齢である。
このままではいけない。母は娘を守るために覚悟を決めた。
それが、娘が六歳になった頃だった。
とうとう母が父の一方的な態度に怒り、娘のためにと立ち上がった。
父はそもそも「子どもさえできなければ結婚なんてしていなかった」と、娘の前でも平気で言うような男である。もとより母や娘に対しての愛情など持ち合わせていなかったのだろう。父に惚れ込んでしまった母が男を見る目がなかっただけである。
しかしそのおかげで娘に出会えた。母はひどい男である父も愛していたが、娘も同じほど愛していた。だからこそ父との結婚に後悔はしていない。現状打破をしなければと、奮闘を始めたのである。
娘が、帰宅した父に「おかえり」と声をかける。娘はまだ無垢だ。どれほど冷たくあしらわれても相手を父と認めているために、受ける感情は関係なく声をかけるのだろう。
父はいつものように言葉を返さない。それどころか娘が避けなければ娘を蹴り飛ばして歩いていただろう。そんな場面を目撃して、母が黙っていられるわけもない。
「危ないじゃない!」
母は娘に駆け寄ると、かばうように抱きしめた。
「まだ六歳なのに……あなたには父親としての情もないの!」
「……はあ?」
愛する相手からの軽蔑の眼差しが、母の心に深く刺さる。
「……鬱陶しいな。嫌なら出てけよ、誰が食わしてやってると思ってんだ」
「そんな言い方、」
「ああうるさい! 俺は疲れてんだ、話しかけるな! あんまりしつこいならおまえもそいつも叩き出すぞ!」
突然の怒声に、怯えた娘が目に涙を溜める。大人の怒りが恐ろしかったのだろう。そんな娘を見下ろした父はもう一度舌打ちをすると一度壁を強く蹴り飛ばし、乱暴な足音を鳴らして部屋へ向かった。
「ほら、大丈夫だよ。ね? ママが居るでしょ?」
「うっ、うう〜。ママぁ」
「うん、うん。大丈夫」
静かに泣き出した娘を、母がそっと抱きしめる。
娘はまだ自衛もできない。母が頑張って立ち向かわなければ、娘が心を壊してしまうかもしれない。
「ママが守ってあげるからね」
娘は母の腕の中で泣きながら、強く抱きしめるその腕に必死に縋り付いていた。
それからは喧嘩の毎日だ。娘を守ろうとする母と、母と娘を邪魔だと排除したがる父。論点が違うために平行線の口論が続くのだが、やがてそれは娘に実害があった時だけではなく、なにもなくとも繰り広げられるようになった。
娘は両親の声が嫌いになった。二人はいつも怒っている。お互いを汚い言葉で罵り合い、たまに父が母を殴ることもある。娘は大人のそんな様子が怖くて、いつも一人で泣いていた。
ある日も変わらず、父と母は言い合っていた。娘のことについてなのか、家庭のことについてなのかはもう分からない。実はこの頃から母の言い分が「娘への態度」から「私への態度」にズレ始めていたのだが、それは娘には分からないことである。
母も女だ。好きな相手に好かれたいと思うのは仕方がないことなのだろう。
これまでは気にならなかった父の帰りの時間が遅いということが、その日の喧嘩の引き金だった。
娘がリビングを覗くと、見たこともない形相で両親が口論を繰り広げていた。部屋中に声が響いている。怒気が満ちるリビングには、娘は恐ろしくて立ち入れない。
「絶対浮気よ! 私と娘がありながら、どっかで女引っ掛けてんでしょ!」
「俺がどこでなにしてようが俺の勝手だろうが! 誰の家に置いてやってると思ってんだよ! 気にくわないなら今すぐ出て行け!」
「あんたが出て行けばいいでしょ! 全部あんたが悪いんだから!」
娘が見ているとは知らず、二人は「出ていけ」を繰り返す。絶対に浮気してる、うるさい干渉してくるな、あんたがもっとしっかりしてくれたら、おまえには言われたくない、そんな果てのない言い合いが続く。
やがて、父が母の顔を殴りつけた。
「ああそうかよ、そこまで言うなら出てってやるよ! てめえみたいな女はこっちから捨ててやる!」
バン! と強くリビングが開いた。覗いていた娘は存外容赦のないその威力に弾き飛ばされて、壁に頭を打ちつける。
父がちらりと娘に目を向けた。ほんの一瞬だ。しかし娘にはなにを言うこともなく、大きな足音を鳴らして玄関から出て行った。
恐ろしさから放心していた娘は、涙を堪えて起き上がる。娘は母が心配だった。だって母は泣き虫なのだ。きっと今も泣いているに違いない。母を慰めるのは娘の役目である。痛む頭を撫でながらリビングに入ると、やはり泣き崩れている母の姿があった。
「お母さん、大丈夫?」
いつものように声をかけたが、母は泣くばかりで反応を返さない。それほど悲しみが深いのだろう。娘はそう見当をつけて、母の隣に膝をつく。
母はまだ泣いていた。俯き、殴られた頬を押さえて悲しみに暮れている。娘は慰めるべく、抱きしめようと母に手を伸ばした。これで母は泣き止むと娘は知っているからだ。
しかしその手は母に触れる直前、やや乱暴に弾かれた。
「……一人にして」
冷たい一言だ。声音も低い。娘はなにが起きたのかも分からず、すぐに部屋へと駆け込んだ。
父に怒られるのは恐ろしいことだが、冷たくされるのは恐ろしいことではない。
父とは過ごした時間もなく、娘は父のことをよく知らないからである。話したこともなければ笑った顔も知らない。父であるというのも母が言っていたから認識しただけで、あまりそういった感覚もない。
けれども母は違う。
母と娘はこれまでずっと支え合ってきた。心を交わしてきた。抱きしめ合って、笑顔になって、二人で頑張ろうと前を向いて歩いていたのだ。
(なんで。なんで、お母さん)
父に冷たくされるのとはわけが違う。娘はただベッドに潜り込んで、これまでになく大粒の涙を流していた。
その日を境に、母が少しずつおかしくなっていった。
父が帰らなくなったというのも原因としてあるのだろう。出て行ってやる、と外に飛び出してからというもの、父の帰りは格段に夜遅くになってしまった。
母はそれに常にイライラとしていた。顔色も悪くなり、娘に作る食事の味も濃く変わっていく。娘が「大丈夫?」と聞けば、声を荒げて「大丈夫じゃないわよ!」と逆上されることも少なくはない。
その頃には娘はもう八歳になっていた。相手の感情が分からないほど幼いわけではない。
母が父にではなく娘に対して苛立ち始めているのだと、娘はなんとなく気付いていた。
やがて母との会話も減る。笑顔もなくなる。一度心を許していたからこそ、母のその態度が娘には一番こたえていた。
どうしてと何度も考えた。なにがいけなかったのか。自分はなにをしてしまったのか。娘は熟考したものの、やはり答えは見つからない。
母に声をかけることも恐ろしくなった頃、父の不倫が判明した。
それは、娘が九歳の頃だった。
学校から帰ると、両親がそれまでよりも過激な言い合いをしていた。最低、クズ、慰謝料を払え、死んでしまえ、そんな言葉が聞こえて、それらの意味を理解できる年頃である娘は、急いで部屋に閉じこもった。
娘が父の不倫を知ったのは、その口論の数日後である。父が母に「おまえが居なけりゃ不倫になんかならなかったんだ」と叫んでいるのを、偶然耳にしてしまったのだ。
不倫が何かを、娘はすぐに調べた。そうして意味を知り、母の気持ちを知っているだけにひどく悲しい気持ちになった。
どうしてそんなことをするの、とは、父には聞けなかった。娘は父に気さくに何かを聞けるほど、父と交流をしたことがなかったからだ。
「お母さん」
結局、娘は母に聞くしかない。
父が居ない日のことだ。娘がリビングに向かうと、憔悴した様子の母が厳しい顔をして振り向いた。
かつての面影はない。娘が最後に母の笑顔を見たのは、もうずっと前のことである。
それでも娘は怯むことなく、ソファに座っていた母に歩み寄る。
「お父さんは、どうしたら不倫をやめるの?」
娘はただ、父に不倫をやめてほしかった。どれだけ調べてもそれが分からなかったために、母に聞くしかできなかったのだ。
なにか自分にもできることがあればと、娘は心から思っていた。
しかし、母はどう思ったのか。
「……どうしたら?」
その瞳に怒りが宿る。娘はすぐに気がついて、恐怖のあまりに後ずさった。
「どうしたらって、そんなの私が聞きたいくらいなのに!」
ガシガシと髪をかきむしると、母は震える声で言葉を紡ぐ。
「なんで不倫なんかするの。私のなにがいけなかったの。おかしいでしょ。結婚したのは私なのに。なんであの人は結婚相手のことを見ないの。子どもまで居る。そう、子どもまで居るのに。無責任だ。おかしい。父親としておかしい」
それは、娘の知らない母の姿だった。もしかしたらもう「母」ではなかったのかもしれない。一人の女となった母が、父への愛に壊されていた。
「最初からそうだった。おかしかった。なんで。子どもが嫌いなの? ああそうだ、そういえば子どものことは最初から嫌ってた。そういうこと? 子どもの存在が邪魔だったから? この子が居たからいけないの? 子どもを産んだ母親は女として見れない旦那もいるって、これのこと?」
母の目が強く娘を睨み付ける。恐ろしい形相に、娘はさらに一歩足を引いた。
「あんたのせいだ」
その目には以前の柔らかさはない。怒りと憎悪。その二つだけが明確に浮かんでいた。
「あんたのせいであの人が不倫した。あんたさえいなきゃ私はあの人と幸せになれたんだ」
母があまりにも恐ろしくて、娘は慌ててその場から逃げ出した。
部屋に入り、いつものように布団にもぐる。母は追って来ない。それに安堵している間も、先ほどの言葉が娘の頭を埋め尽くす。
娘のせいだと母は言った。娘が居たから父が不倫をしたのだと、娘が居なければ母は幸せになれたのだと、母は確かにそう言ったのだ。
(私が居たから……)
だけど母は、娘が抱きしめるたび笑ってくれた。ありがとうと嬉しそうに言って、心からの笑顔を浮かべていたはずだ。手を繋いで買い物にも行ったし、二人で公園に遊びにも行った。あの時の笑顔は嘘だったのだろうか。
(違うもん。お母さんは、私のことを邪魔だなんて思ってるはずがない……)
母の感情がすでに歪んでいたということに気付くには、娘はまだ若すぎたのだろう。
母は確かに娘を愛していた。守らなければと思っていた。父に立ち向かい、娘を最優先に考えていたのも偽りではない。
ただ、母である自分と女でありたい自分の狭間で、バランスを崩してしまっただけである。
そんなことを知る由もない娘は、布団の中で違う違うと否定を繰り返す。
そこで思いついた。娘が父と話し合いなんとか仲を取り持てば、母は元に戻るかもしれない。
幼いながらに頑張った。しかし結果は惨敗だ。父は娘のことを娘とも思っていなかった。
そうして母はいつの日からか、娘に手をあげるようになった。